以下は前章の続きである。
「知る権利」が及ばない?
香山 新聞がよくいう「知る権利」ということですがね。
この「知る権利」には新聞界にも聖域はないと思うんです。
つまり、朝日新聞社の社内のことだけは知らせるわけにはいかないとか、記者クラブの中のことだけは、教えるわけにはいかないとか、朝日の記者ないし朝日の役員の過去の経歴だけは絶対に秘密であるとか、そんなスパイ防止法のなり損いみたいのが、新聞社の中にだけあるというのは、奇怪な話なんですね(笑)。
看板どおり新聞は「公器」だとおっしゃりたいのならば、朝日新聞という公器の社長、役員、記者などはもちろん「公人」ということになる。
渡部 国民の世論に直接関係ある大企業だから、公人と同じということですよ。
香山 私器であるにもかかわらず公器というのでは、少し嘘偽りが多過ぎますね。
渡部 都合のいいときは公器で、都合が悪くなると、「私企業」に逃げちゃうんですよ。
香山 都合がいいとき「公器」になって、都合が悪いとき「私器」になるものを「凶器」というんです(笑)。
クルマが凶器になるときもそういうわけですね。
一番問題なのは、さっきからの繰り返しになるんですけど、たとえば社説で書いたことが、もう即真実だとか、報道したことが事実だということを盲信したところから、間違いが起こりますね。
渡部 活字に書かれると、ほんとだと思いやすいですからね。
特に新聞というものは、そういうところがあります。
新聞はたてまえ上は意見という立場でなくて、報道という立場なんですね。
しかし実際大きな見出しは、完全に整理部の「意見」ですね。
にもかかわらず読むほうには、客観的ニュースとして伝わるという、実に巧妙なるインチキがひそんでいる。
新聞の見出しというのは、特別に研究に値いすると思うんです。
まさにあれは「報道の名を借りた意見」なんです。
しかも、内容とまるで関係ない方向に持っていけるものであるにもかかわらず、依然としてニュースという性格を持ってます。
だから大きな見出しで間違ったことを言われて、おかしいと思っても、本文をよく見ますと、本文には見出しを部分否定するようなことが書いてあるんです。
見出しによる操作
香山 私は、新聞の誤報、虚報というものにも、いろんな型、いろんな手口があると思うんですね。
いまおっしゃった見出しによる操作は、確かにその一つですね。
要するに沢山ある中から、ある言葉だけを大きくクローズアップすると、それだけが三つ並べられることによって、別なイメージができてしまうわけですね。
もう一つは、この世の中、事実というのは無数にあるわけですね。
例えば百の事実があって、百の事実の中で九十七のことを重く書かないで、三つだけを恣意的に選んで報道すること自体が、すでに誤報や虚報に通じるわけです。
たとえば日本のいいことが九十七あって、悪いことが三つあって、三つだけ書いて、いいことを全く書かなかったら、これはやはり誤報になる。
そうかといって百の事実全部はとても書けないわけですから、紙面、
速報性の限界もあるなかで、むしろ新聞記者というものは、常にどういうバランスで、どういうサンプリングで記事を書かないと、事実からの乖離が大きくなり嘘になるかということを、いつも明確、かつクールに意識した情報心理のプロでなければいけません。
この稿続く。