以下は、昨日発売された週刊新潮の掉尾を飾る高山正之の連載コラムからである。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであることを証明している。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
支那人蓮舫
黄河の支流、渭水(いすい)のほとりを中原(ちゅうげん)と言い、古来、多くの王朝が都した。
その中原に住む民を支那人と言った。
民族は漢民族になる。
この支那人が支那4000年の歴史の表舞台に登場するのは遅かった。
時期は4000年の折り返し点辺りになるか。
それまでは外来民族の殷、周、秦の統治が続いていて彼らはその間ずっと支配される側、つまり奴隷として過ごしてきた。
しかし始皇帝が死に秦が滅ぶと、強いよそ者民族も不在で初めて支那人だけの世界が到来し、劉邦と項羽が覇を競って劉邦が勝ち、漢王朝を建てた。
ずっと支配されてきた民は喜んだ。
名前もなかった奴隷民族は漢王朝に因んで「漢民族」と名乗った。
この慶事を歴史にとどめようと漢の武帝は司馬遷に「史記」を書かせた。
ただ長い異民族支配から書き出すのはいかにも業腹なので、実は殷周の前に支那人の王朝「夏」があったことにした。
「史記」はのっけから作り話で書き出された。
しかし伝説の夏が殷に滅ぼされたあと劉邦が出るまでの2000年間に支那人の出番はいない。
それも具合が悪い。
司馬遷の創作は続く。
例えば殷末。
周の文王の時代に支那人を出そう。
文王は人づてに支那人の知恵者、呂尚の名を聞く。
訪ねていくと呂尚は釣りをしていた。
「釣れますかなどと文王そばに寄り」と川柳にも詠まれる太公望の一場面が作られた。
しかし殷は文王の息子の時代にやっと滅びる。
太公望の出番はないが、ただ「知恵は支那人」というエピソードはできた。
東夷の人、始皇帝は秦を建てて中央集権体制を敷き、文字、度量衡を統一した。
優れた支配者だが、「史記」では「残忍で、その心根は虎狼の如し」とある。
よそ者が立派ではいけない「史記」の法則だ。
それで悪い始皇帝の暗殺に荊軻が登場する。
「風蕭々として易水寒く壮士一たび去りて復た還らず」は「史記」の名場面の一つだが、暗殺は未遂で終わり、歴史に変動はない。
では支那人初の漢王朝はどうだったか。
習近平もそうだが、支那人は権力の凄さは知っていてもノブレス・オブリージユは知らない。
漢の歴史はのっけに皇后呂后が愛妾戚夫人の手足を切り、目を潰し、耳を塞ぎ、声帯を焼いて便所に落とすところから始まる。
すべてが残忍で血腥く、漢の御代を一言でいえば「弑逆の400年間」になるか。
民はうんざりだが、世の中上手くしたもので漢が滅んだあと、待望の外来民族がどやどややってくる。
統一王朝としては鮮卑の隋、唐。モンゴルの元。
その後、悪夢の支那人王朝、明を挟んで、すぐに満洲族の清が登場する。
明を除けばみないい王朝だった。
例えば隋の煬帝だ。
聖徳太子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」の一文を送った相手だが、この人は揚子江と黄河をまたぐ2500㌔の大運河を僅か6年で建設している。
物流は格段に増え、経済は発展したが、ただ民には評判が悪かった。
この工事に600万人の住民が動員され、半年は帰れなかった。
煬帝は始皇帝と同じに万里の長城の建設にも熱心で民はこっちにも駆り出されたから史上最悪の暴政のように言われる。
あの悪夢の民主党政権時代、蓮舫は200年に一度の大洪水を想定したスーパー堤防は無駄と称してカットした。
総額12兆円もの巨費を使っていつ来るか分からない洪水に備えるなんて彼女には全く理解できなかったようだ。
そう思う意識の中にはいつ来るか分からない夷狄に備えて長城を建設させられたり、兵馬俑を埋めさせられたり、運河を掘らされたりした民族の思い出があったのかもしれない。
でも都民は暴君なんかより洪水がコワい。
その辺、分かるかなあ。
2024/6/12 in Kanazawa