文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

藤山氏のために言えば、日本でよかった。中華人民共和国だったら、死刑か再教育キャンプに送られただろう

2022年01月13日 22時14分56秒 | 全般

以下は前章の続きである。

隠された歴史を引き出す
このように透明性のない団体であるが、私は初代会長の藤山愛一郎氏の回顧録を調べることから始めた。
幸い、日中友好議員連盟結成の3年後、1976年に出版された彼の回想録は、この団体の初期の動機について十分な示唆を与えている。
ここで藤山の名前を目にすると、読者は驚くかもしれない。
彼は1960年の日米安全保障条約改定時の外務大臣としてよく知られている。
実際、1957年7月から1960年7月までの岸信介内閣のほとんどの期間、外務大臣を務めていた。
実業家から政治家に転身した藤山氏は、実は親中派であり、特に中華人民共和国のシンパであった。
1949年の共産主義革命後の中国を未来の道と考え、台湾に移転した中華民国を見下した。
そのため、後に岸首相や1964年から1972年まで首相を務めた岸氏の実弟の佐藤栄作氏に嫌われるのは想像に難くない。
両氏は親台湾派であり、岸氏の孫である安倍晋三元首相や岸信夫現防衛相も同様である。
つまり、藤山氏は自民党の佐藤総裁にとって大きなトゲであり、両者は佐藤総裁が政権を担っていた8年間のほとんどを戦ってきたのである。
実際、藤山氏は首相と閣僚の不信任決議にも何度も参加している。
時間が経てば経つほど、藤山氏は日中関係の最大の推進者の一人になった。
1960年代後半から1970年代にかけて、彼は中華人民共和国を最も頻繁に訪問した政治家でもある。
また、周恩来が亡くなる前に会った最後の日本人だった。
超党派の訪中団の団長として、日本を批判し、台湾との関係を中断するよう求める中華人民共和国との共同声明を発表するなど、彼の行動は反逆に近いか、少なくとも与党自民党の党紀に反していた。
そのため、党の賞罰を受け、幹部職を失うという処分を受けた。
控訴をしたが、却下されている(藤山氏のために言えば、日本でよかった。中華人民共和国だったら、死刑か再教育キャンプに送られただろう)。
もちろん、当時の台湾も、中国の宿敵である蔣介石が独裁的に統治していた。
革命後の中華人民共和国は建国当初、国民に希望を与えたかもしれないが、蔣介石政権に比べれて、はるかに社会制度や経済力は悪かった。
いずれにせよ、台湾が1990年代に完全民主化したことで、日本がどちらを全面的に支援すべきかが明白になったのである。
この稿続く。

 


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