文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

東大を卒業するという事は氏のような仕事をする事であって、和田春樹の様に…全くの無能人間として日本に深刻な被害を与える人間になる為に東大は在るのではないのである

2019年09月02日 23時17分25秒 | 全般

以下は月刊誌WiLLに「原爆を落とした男ヘンリー・スチムソン」と題して掲載された渡辺惣樹氏の論文からである。
渡辺惣樹氏は日米近現代史研究家として戦後の世界で最も素晴らしい仕事をしている人物である。
この論文が今月号の掉尾を飾っているのである。
私が言及し続けている月刊誌4誌が日本国民のみならず世界中の人たちの必読の書である事を余すところなく実証しているのである。
渡辺氏は東京大学経済学部を卒業している。
東大を卒業するという事は氏のような仕事をする事であって、和田春樹の様に、真の日本人かどうかも定かではなく、教授に対するごますりに明け暮れて何十年間も東大を出た事はなかったなどと、そんな事だけを誇りにしている哀れな程に愚かな人間、
裏を返せば、全くの無能人間として日本に深刻な被害を与える人間になるために東大は在るのではないのである。
ヘンリー・スチムソンはいかにして
原爆投下の実務最高責任者になったのかー
五月号まで掲載した渡辺惣樹氏の集中連載「ルーズベルトの『本当の敵』アメリカ第一主義委員会」では、フランクリン・デラノ・ルースベルト(FDR)政権とヨーロッパ戦線非干渉を唱える圧倒的世論を代表して設立された「アメリカ第一主義委員会」との戦いを詳述していただいた。
FDR政権が日本に真珠湾を攻撃させることで、米国の参戦(干渉主義)を抑えこんでいた第一主義委員会を「破壊」した顛末を理解されたことだろう。 
本連載では、四期続いたFDR政権、およびその周辺に巣くった干渉主義者(国際リベラリズム信奉者)の中でも代表的な人物であるヘンリー・スチムソン(陸軍長官)の行状を明らかにしてもらう。
FDRの「武器」として 
筆者は、これまでの著書や先の連載を通じて、戦後に虚構された「ルーズベルト神話」に挑戦してきた。
その作業を通じて、FDRという人物の異常な性格とあの戦争とのかかわりについては一定の理解を得ることができたと考えている。 
FDRはほとんど本を読まなかった。
歴史書を読んだ形跡もあるが、それらは「戦記」であり、真の意味の歴史書ではない。
蔵書は二万冊を超え、「これから起こるすべての事象への対処法はそうした書物にすでに書かれている」と豪語したヨセフ・スターリンとは大きな違いがあった。 
それでも1940年には米国史上初めての3選を果たし、44年には重篤な病に侵されていることを国民から隠し通し、4選にも成功した。
その理由は、彼には、気の利いたスピーチ力と、アメリカ第一主義委員会を筆頭とした国内の敵(非干渉主義勢力)を叩く「政治屋」としての天性の勘があったからである。
しかし、歴史にも経済にも疎かったFDRにはもう一つの武器があった。
彼の周りに集結した「優秀な」干渉主義者たちである。
その筆頭がスチムソンだった。
広島、長崎への原爆投下を決めた実務上の最高責任者でもあった。 
彼の思想は一面特異ではあるが、当時の米国指導者の世界観の典型とも言える。
スチムソンを知ることはFDR、そして彼に続いたトルーマンの心の内を探ることでもある。
彼を知ることで、あの戦争を「より合理的に解釈する」ことが可能になる。
スチムソン・ドクトリン 
ヘンリー・スチムソンは、米国の対日外交を歪めた政治家の筆頭である。
彼は冒頭に書いたようにFDR政権で陸軍長官に任用されたが、ハーバート・フーバー前政権では政権ナンバーツーである国務長官(1929年3月~1933年3月)を務めていた。満洲事変勃発(1931年9月)から満洲国成立(1932年3月)の時期に当たる。 
支那大陸東北部(満洲)における日本の特殊権益を認めることは、20世紀初頭の米国外交の基本だった。
日本の安全保障上、朝鮮あるいは満洲が日本の喉元に突き付けられたヒ首のような存在であることを理解したセオドア・ルーズべルト大統領が進めた政策は、桂・タフト秘密協定(1905年)によって結実した。
その後に続いた同協定を追認する高平・ルート協定(1908年)も石井・ランシング協定(1917年)も、日本の安全保障上における満洲の重要性をアメリカが理解し、実質的に日本の満洲進出を了解(容認)したものだった。
従って、満洲事変から満洲国建国までの日本外交は、この3つの日米合意の存在を前提に解釈されなくてはならない。 
しかし、スチムソンは日米外交の「了解の歴史」に一切の配慮を見せなかった。
ひたすら中国の主張に耳を傾け、日本の満洲政策を批難した。
そこには彼自身の脳裏に、「中国は民主化の道を歩みつつある」という幻想があった。
その結果、フーバー政権は満洲国を承認しないと決めた。
スチムソンには満洲国は、「中国の民主化を妨げるファクター」に思えたのである。 
彼の外交(非承認政策)は「スチムソン・ドクトリン」と呼ばれた。
退任直前の1933年初めには、次期大統領に決定していたFDRの私邸を訪れスチムソン・ドクトリンの継続を訴え、それに成功した。 
日米間には、「日本の対満洲(および朝鮮)政策」について「阿吽の呼吸」による共通理解があった。
その呼吸を乱し、日米戦争への道筋を立てた人物がスチムソンだったのである。 
スチムソンは1867年、ニューヨークの富裕な一族に生まれた(*1)。
その年、医学の道を進んでいた父ルイスは、妻キャンデイスを亡くした。
その悲しみの中で学問に専念することを決めると、息子ヘンリーを妹メリーに預けた。 
スチムソンは十三歳でマサチューセッツ州の名門私立校フイリップス・アカデミー(寄宿制男子校)に入学した。
同校は新島襄(同志社大学創設者)も学んだ学校である(1867年卒業)。
スチムソンは飛び級で15歳で卒業するほどに優秀だった。エール大学の入学を希望したが年齢制限のため一年待つことになった。 
エール大学では、リべラルアーツ(教養学)を専攻し、同大学の秘密親睦組織スカルアンドボーンズの会員に推挙された。
入会には秘密のイニシエーション(儀式)が必要なことからも分かるように、同会は極端に排他的な組織だった。
成績優秀者だけがメンバーに推挙され、その多くが米国の指導者(エスタブリッシュメント)となる。
上述のタフト陸軍長官(のち大統領)や、戦後の二人のブッシュ大統領もメンバーだった。
法律家から陸軍長官へ 
1888年、スチムソンは124人中3位の成績で卒業すると、ハーバード大学法学部に移り、91年には弁護士資格を得た。父の縁故でニューヨークで開業するエリフ・ルート法律事務所で研修を始め、九三年一月には正式採用となった。エリフ・ルートはニューヨークではよく知られた企業法務のエキスパートで、大手銀行や鉄道会社をクライアントにしていた。 
この頃のアメリカでは、産業の寡占(独占)化が目立ち始めていた。
1890年、市場独占や寡占に反発する世論を背景にシャーマン反トラスト法が成立した。
同法の現実的運用は法律家にとっては難しい作業だった。
規制しようとする政府も、同法から逃れようとする企業も優秀な法律家を必要とした。
スチムソンは、エリフ・ルートの良きアシスタントとして活躍した。 
19世紀末は政治家と利権団体の癒着が目立ち始めた時期でもある。
倫理観(正義感)の強いスチムソンは「良き政府を作るクラブ」(Good GovernmentClub)の創設にもかかわり、道義的社会の実現を目指した。 
スチムソンの上司エリフ・ルートは、共和党のスター政治家セオドア・ルーズべルト(TR)と懇意だった。
2人はアメリカ開拓魂の復活を目指して設立(1888年)されたブーンアンドクロケットクラブ(B&Cクラブ) のメンバーだった(*2)。 
1899年、時の大統領ウィリアム・マッキンリー(共和党)はルートを陸軍長官に登用した。
米国は米西戦争(1898年)に勝利したが、その過程で陸軍の後進性が露呈した。
ルートに陸軍改革を期待した人事だった。
法律事務所の運営はスチムソンら若手パートナーに任せられた。
1906年、マッキンリー大統領の暗殺(1901年9月)を受けて以来、大統領職にあったTRは、スチムソンを連邦地裁(ニューヨーク南部地区)担当検事に任命した。 
20世紀初頭のニューヨーク市は、汚職の渦巻く街だった。民主党系集票組織タマニーホールによる利益誘導、企業家による株価操作、独占企業による市場支配などが目立ってい
た。
そうした弊害の是正を目指す大統領は、正邪の意識の高いスチムソンに白羽の矢を立てた。
この頃のスチムソンの事務所からの報酬はおよそ2万ドル(現在価値57万ドル)にまでなっていたが、検事となれば収入は半減する。
それでも彼は大統領の要請を受けた。 
事務所の運営は彼自身が採用した若手法律家に任せた。
その一人にフェリックス・フランクファーター(ユダヤ系、1822年生)がいた。
後のFDR政権では経済政策アドバイザーとなり、ニューディール政策の理論的基礎を作ることになる人物である。
彼とのつながりが、スチムソンが後のFDR政権で共和党員でありながら陸軍長官に再登用された理由の一つになった(詳細は後述)。 
1911年、TRの後を襲った夕フト大統領はスチムソンを陸軍長官に抜擢した。
初めての政府要職であったがタフトの期待に応えた。
建設の進むパナマ運河の防衛や民族独立派が蠢く植民地フィリピンの治安維持などを念頭にした陸軍再編を、参謀総長だったレオナード・ウッドと協力して進めた。
ウッドはかつてTRの上官であった。 
当時の米国陸軍兵力はわずか7万(士官およそ4300)に過ぎなかった(*3)。それまでの米国陸軍の主たる「敵」は原住インディアンであり、ヨーロッパ大陸諸国のように数十万から百万単位の兵力は必要なかった。
モンロー宣言(1823年)によってヨーロッパ問題不干渉が米国外交の基本だっただけに、外国に派遣する規模の軍隊は不要だったのである。 
1912年の大統領選挙では共和党が分裂し、民主党候補ウッドロー・ウィルソンが漁夫の利を得て当選した。
任期を全うしたスチムソンは再び法曹の世界に戻ったが、多くの時間を共和党の党務にあて、政治の世界から遠ざかることはなかった。


最新の画像もっと見る