以下は前章の続きである。
文中強調は私。
日本人の国防意識について考える時、別に戦争の話だけに限定することはない。
もちろん日本に戦争をしろなどとは恐らくどの国の誰も言っていないし、
軍備は誰かに言われてするものではなく、国家が日本国民を守るという目的のために「戦争を回避するいくつかの方法のひとつの選択肢」をとして行うものだ。
ここでは日本にアメリカと同じことをしろとも言わないし、インドやイギリスやフランスやスイスと同じようにやれとも言わない。
いろいろな意見はあるだろうが、いずれにせよ、議論することを避けず、妨げず、「どんな日本になるべきか」、それを日本人自身が議論すべきなのである。
だが、どうしても「議論すら」させたくない者がいる。
「国家防衛について考えること自体が悪いこと」のような、ある種宗教じみた勘違いを今後も持ち続けさせたがっている者がいる。
彼らはまず「国防や軍備の話」を「戦争」と直結させる。
すると今の日本では「戦争」を否定するのは簡単だ。
戦争と国防は同じものではないのだが、同一視させれば否定しやすいのだ。
彼らは卑怯にも「核の傘」に守られながら「反核」を叫び、「日米同盟」に守られながら「軍事力による平和」を否定する。
全ての国が当然考えなければならない自国を守る力について「日本にだけは永遠に考えさせない」ようにテレビや新聞を使って教育する。
彼らが「世界の国の中で日本だけ」を特例的に非武装に縛りつけ、生まれた国を愛すること、国を守ること、国を作ってきた先祖を敬うことなどの当然の権利から“日本だけを例外として除外”する、都合のよい大義名分とは何か?
それが“過去の戦争で、日本を絶対悪とすること”である。
そしてそんな認識を日本国内で支える戦争アレルギー、核アレルギー、軍事関連議論思考停止の源の一つが、教育やメディアの与える情報から導き出される間違った歴史の反省=自虐史観なのである。
だからこそ、韓国も中国も、『歴史問題』を永遠に利用し続けるのである。
この稿続く。