以下は、下記の故・西部邁氏の本「マスコミ亡国論」からである。
活字が読める日本国民は全員、今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない。
世界中の人たちは、私の翻訳で、皆さんの国のマスコミも同様である事を知るだろう。
以下は前章の続きである。
*この章で西部氏が指摘している事々は、そっくりそのまま、森友・加計騒動に当てはまる事は言うまでもない。あの騒動を作った朝日新聞と辻本清美・福島瑞穂等に代表される連中の卑しさが極まっていたし彼らに同調したテレビや追随した国民の卑しさも極まっていたのである。*
のぞき見趣味を正当化するために動員された民主主義や平等主義
そこで次に「濡れ手で粟」とはどういうことなのか考えてみよう。
政治家や経営者の所得が、この言葉によってしつこく批判されつづけている。
人々が食うや食わずの状態にあるのなら、「あの粟があれば娘を女郎にたたき売らずにすんだ」というような感情論にも切実さが宿る。
しかし、「飽食の時代」にあっての「濡れ手で粟」はとうてい真実のものとは思われない。
いやその真実は大衆の嫉妬に根差している。
いや嫉妬ですらないのかもしれない。
リクルート事件に関しては嫉妬のような強い感情はみられなかった。それはむしろ、他人のありうべきいかがわしさにたいする好奇心にすぎなかったのではないか。
自分のところへくるはずもない株の行く方にたいして嫉妬のような強い感情をもてるわけがない。
おそらくこのリクルート騒ぎの背景には、自分のピーピングトム、つまりのぞき見趣味を正当化するために平等主義や民主主義を動員する、という大衆の自己正当化の動機が働いていたのではないか。
垣根ごしにのぞき見て騒ぎ立てる行為が、悪代官の悪政にたいして一揆で向かっていった百姓たちの行為よりも下卑た行為であることはいうまでもないであろう。
見逃しにできないのは、こうした愚かしい騒ぎにまぎれて情報社会の堕落を物語るグロテスクな事態が進行したということである。
実名公表問題がそれだ。
マスコミは、リクルート関係者の実名を挙げて、彼らをダーティだとして指弾するキャンペーンを続けた。
国民もそれにオウム返しに反応して、それらの実名を声高に繰り返した。
かつてナチスがやったように、「大声で繰り返す」ことによって集団心理が形成されたのである。
そして、ロッキードのときも同じだが、騒ぎが一応終息してしまうと、今度は公判開始や判決などの機会に、またぞろ話を蒸し返し、弾劾キャンペーンを繰り返す。
国民もその都度キャンペーンに乗っていく。
これはもうほとんど情報社会のメカニズムといってよいほどの定型化されたプロセスである。
実際、平成元年の年末にリクルートの公判が開始されるや、大報道がはじまった。
その報道の意味内容はまったく希薄なのだが、国民が大報道に乗っていくという仕組みだけはしっかりと独り歩きしているのである。
マスコミの大衆路線といわれているものの内容が、カネ、イロ、ノゾキでしかないというのは衆知のことではある。
それは精神汚染の拡散にほかならず、しかも汚染はますます低次元へと落ちていく。
リクルート騒ぎにおけるカネ、政治家の女性スキャンダルにおける女、それらをピーピングトムした結果を実名を挙げつつ誇らしげに公表するマスコミ、この二年間の騒ぎを総括してみれば、要するにこういうことだったのだ。
この項続く。
以下は、下記の故・西部邁氏の本「マスコミ亡国論」からである。
活字が読める日本国民は全員、今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない。
世界中の人たちは、私の翻訳で、皆さんの国のマスコミも同様である事を知るだろう。
以下は前章の続きである。
日本人の文化的退行を端的に示した罪
日本人はそのことをなぜ正確に記憶しないのであろうか。
なぜ、こうしたマスコミのいかがわしき来歴を想起しないのであろうか。
こういういわば文化的健忘症にかかっているのに、高度情報社会の到来だなど喧伝するわけにはいかない。
なぜなら、単なる情報ではなく、価値や意味を含んだ情報が重要なのだからである。
意味・価値を含まない情報、それは単なる記号にすぎない。
そして情報がどういう意味なり価値なりをもっているかを知るためには、過去におけるそれらの蓄積に照らして判断するしかない。
われわれは過去にかんする極度の健忘症に陥っているため、目前を通り過ぎていく情報が目立つとか面白いとかいったような、いわば記号的な刹那の刺激だけを期待している。
記号とは意味をもたない符号のことであり、そんなものに反応するのは口ボットであって人間ではない。
現代社会は「記号による支配」つまり「セミオクラシー」の時代に入ったかのような観を呈している。
このことは、日本にかぎらず欧米社会でもいわれている。
意味や価値がどんどん流失して、意味・価値を僅かにしか担わない記号だけが私たちの精神に突き刺さっている。
たしかにセミオクラシーの時代が到来しつつある、といえなくもないだろう。
しかし、私たちにセミオクラシーに身を委ねるという覚悟があるわけでもないのである。
もしその覚悟があるならば、リクルート事件をめぐって、「濡れ手で粟は許さない」といった種類の、小学校のホームルームで取り交わされるような次元の、小児めいた意味・価値をなぜああまで振り回したのであろうか。
「記号の支配」の時代から抜け出ることができないのだというのならば、もっとテクニカルでもっとファンシーな、たとえば複雑なパロディーを駆使した表現の方法だってあったはずだ。
そうした表現能力はわれわれはもっている。
だがわれわれはそうしなかった。
セミオクラシーというのはいってみただけのことであって、本当は、意味の次元や価値の宇宙から離れられないのである。
そうであるのに、われわれは自分たちの頭で、意味・価値を発見し発明するという努力をなおざりにしてきた。
で、古ダンスの古証文をもってきて、「濡れ手で粟は許さない」といったような幼稚な意味・価値のなかに退行したのである。
そういう意味でリクルート事件は、われわれ日本人の文化的退行を端的に示してくれている、おかしいともゆゆしいともいえる大事件なのではあった。
表現活動において、符号・記号の役割が高まるにつれ、意味・価値がどんどん粗末になり、ついには戦後民主主義の常套文句である「反権力」が空語と知りつつ叫ばれるに至ったのだ。
政治家や経営者のように比較的に高い社会的地位に就いているもののいかがわしさとあらば、マスコミ人士および彼らに加担する知識人たちは、自分らのいかがわしいことは棚に上げて、それら権力者を血祭りに挙げようと奔走した。
権力者のいかがわしさは、たとえ既存のルールに収まるものであっても、集団リンチの対象にされた。
そこでみられたのは、反権力をそれ自体として善だとみなす俗流民主主義の感情論である。
おまけに集団リンチの参加者たちは、自分らの生活においては、権力に追従や迎合をたくましくしている連中ときているのだ。
この項続く。
辻元清美の両親の国籍は韓国なんでしょうか? 国籍が韓国である噂は多かったので、 帰化の噂の真相を調べてみますと、
以下は山口二郎教授になんと6億円の科研費についてネット上で発見した記事である。
現在、「脱原発利権」なるものが生まれつつある。孫正義・小泉純一郎・細川護煕・菅直人の動きに注意。
あるいは斎藤隆夫代議士が粛軍演説を孤立無援のなかでやったとき、彼を議会から葬り去れと軍人と一緒になって騒いだのもマスコミであった。
私は「反戦」主義者でも「反軍国」主義者でもないので一般的に戦争を悪だといいたいのではないが、ともかく、マスコミが戦争を煽り立てたのは疑いようのない事実である
マスコミが戦争の煽動集団として重要な役割を果たし、それに逆らう自由主義者たちを次々と集団リンチにかけ葬っていったという事例は数知れない。そのことについてマスコミはほぼ完全に口をぬぐっている
As for Yalta's injustice, he was well aware of Prime Minister Churchill.
以下は、下記の故・西部邁氏の本「マスコミ亡国論」からである。
活字が読める日本国民は全員、今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない。
世界中の人たちは、私の翻訳で、皆さんの国のマスコミも同様である事を知るだろう。
なぜマスコミの途方もない馬鹿騒ぎが何度も繰り返されるのか
マスコミによるルールはずれの馬鹿騒ぎが、もしはじめて起こったというのならば、国民がそれにのっかっていくのもやむをえないこととしなければなるまい。
しかし日本の近代史を少々ひもといてみれば、マスコミの馬鹿騒ぎ、そして時たたずしていったい何のための騒ぎだったのか誰もが途方に暮れてしまうような馬鹿騒ぎは幾度も持ち上がっていたのである。
たとえば満州事変のとき、あらゆる新聞が日本軍の進撃に万歳を送った。
私は「反戦」主義者でも「反軍国」主義者でもないので一般的に戦争を悪だといいたいのではないが、ともかく、マスコミが戦争を煽り立てたのは疑いようのない事実である。
あるいは斎藤隆夫代議士が粛軍演説を孤立無援のなかでやったとき、彼を議会から葬り去れと軍人と一緒になって騒いだのもマスコミであった。
このように戦前の歴史をちょっと眺めただけでも、一部軍人の横暴なり策略なりによって戦争が起こったのだとはとうてい思われない。
マスコミが戦争の煽動集団として重要な役割を果たし、それに逆らう自由主義者たちを次々と集団リンチにかけ葬っていったという事例は数知れない。
そのことについてマスコミはほぼ完全に口をぬぐっている。
戦後とて例外ではない。
私自身のことを例にとると、私は20歳の頃、1960年の日米安保条約改定に反対する左翼過激派のなかの駸若年の指導者として、警察にも捕まり裁判所にも通ったりしていた。
その後、私は自分で考え自分で判断することによって、この日米安保条約改定は日本の立場からして正当なものであり、また左翼の理論にも行動にも正当性がないという結論に達した。
そのことを文章で表明しもした。
ところで、当時のマスコミも大なり小なり60年安保にたいして批判のキャンペーンを展開した。
しかし、60年安保が日本国家、日本国民にとってはむしろ有益なものであったという歴史的評価が日本社会のなかに定着したあとになっても、マスコミは自分らの言動について反省するところがないのである。
戦後におけるマスコミの過剰報道もしくは歪曲報道については枚挙に暇(いとま)がない。
そのことを批判した書物もたくさんある。
たとえば日本軍が30万人の中国人を虐殺したといういわゆる南京大虐殺事件というのはどうやら捏造であるようだ、少なくともその可能性が強いということはもはや否定すべくもない。
しかし一部の大新聞は「大虐殺」を批判する方向でキャンペーンをやっておきながら、それが自分たちの過剰報道であったということにはついぞ明確にしていない。
そのことを論議の対象にすることすらしない。
近々の例でいえば、いわゆる教科書問題もそうだ。
日本の教科書でっ侵略」という表現が「進出」と書き直されているというふうにマスコミが報じた。
それがきっかけになって中国政府が日本を批判し、それにたいして日本の大臣が謝罪するというようなことが起こった。
その直後、よく調べてみると「侵略」を「進出」と書き改めたという事実はなかったと判明した。
にもかかわらず、一部の新聞を除いて、マスコミはそれが自分たちの誤報であったということを認めないである。
その他もろもろ、マスコミが大騒ぎしてみせたが、騒ぎが終わってみると、それが単なる馬鹿騒ぎであったと判明し、しかも情報の捏造まで含めた馬鹿騒ぎであったとわかる、というような事態が累積している。
この項続く。
以下は、下記の故・西部邁氏の本「マスコミ亡国論」からである。
活字が読める日本国民は全員、今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない。
世界中の人たちは、私の翻訳で、皆さんの国のマスコミも同様である事を知るだろう。
なぜマスコミの途方もない馬鹿騒ぎが何度も繰り返されるのか
マスコミによるルールはずれの馬鹿騒ぎが、もしはじめて起こったというのならば、国民がそれにのっかっていくのもやむをえないこととしなければなるまい。
しかし日本の近代史を少々ひもといてみれば、マスコミの馬鹿騒ぎ、そして時たたずしていったい何のための騒ぎだったのか誰もが途方に暮れてしまうような馬鹿騒ぎは幾度も持ち上がっていたのである。
たとえば満州事変のとき、あらゆる新聞が日本軍の進撃に万歳を送った。
私は「反戦」主義者でも「反軍国」主義者でもないので一般的に戦争を悪だといいたいのではないが、ともかく、マスコミが戦争を煽り立てたのは疑いようのない事実である。
あるいは斎藤隆夫代議士が粛軍演説を孤立無援のなかでやったとき、彼を議会から葬り去れと軍人と一緒になって騒いだのもマスコミであった。
このように戦前の歴史をちょっと眺めただけでも、一部軍人の横暴なり策略なりによって戦争が起こったのだとはとうてい思われない。
マスコミが戦争の煽動集団として重要な役割を果たし、それに逆らう自由主義者たちを次々と集団リンチにかけ葬っていったという事例は数知れない。
そのことについてマスコミはほぼ完全に口をぬぐっている。
戦後とて例外ではない。
私自身のことを例にとると、私は20歳の頃、1960年の日米安保条約改定に反対する左翼過激派のなかの駸若年の指導者として、警察にも捕まり裁判所にも通ったりしていた。
その後、私は自分で考え自分で判断することによって、この日米安保条約改定は日本の立場からして正当なものであり、また左翼の理論にも行動にも正当性がないという結論に達した。
そのことを文章で表明しもした。
ところで、当時のマスコミも大なり小なり60年安保にたいして批判のキャンペーンを展開した。
しかし、60年安保が日本国家、日本国民にとってはむしろ有益なものであったという歴史的評価が日本社会のなかに定着したあとになっても、マスコミは自分らの言動について反省するところがないのである。
戦後におけるマスコミの過剰報道もしくは歪曲報道については枚挙に暇(いとま)がない。
そのことを批判した書物もたくさんある。
たとえば日本軍が30万人の中国人を虐殺したといういわゆる南京大虐殺事件というのはどうやら捏造であるようだ、少なくともその可能性が強いということはもはや否定すべくもない。
しかし一部の大新聞は「大虐殺」を批判する方向でキャンペーンをやっておきながら、それが自分たちの過剰報道であったということにはついぞ明確にしていない。
そのことを論議の対象にすることすらしない。
近々の例でいえば、いわゆる教科書問題もそうだ。
日本の教科書でっ侵略」という表現が「進出」と書き直されているというふうにマスコミが報じた。
それがきっかけになって中国政府が日本を批判し、それにたいして日本の大臣が謝罪するというようなことが起こった。
その直後、よく調べてみると「侵略」を「進出」と書き改めたという事実はなかったと判明した。
にもかかわらず、一部の新聞を除いて、マスコミはそれが自分たちの誤報であったということを認めないである。
その他もろもろ、マスコミが大騒ぎしてみせたが、騒ぎが終わってみると、それが単なる馬鹿騒ぎであったと判明し、しかも情報の捏造まで含めた馬鹿騒ぎであったとわかる、というような事態が累積している。
この項続く。
以下は、下記の故・西部邁氏の本「マスコミ亡国論」からである。
活字が読める日本国民は全員、今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない。
世界中の人たちは、私の翻訳で、皆さんの国のマスコミも同様である事を知るだろう。
なぜマスコミの途方もない馬鹿騒ぎが何度も繰り返されるのか
マスコミによるルールはずれの馬鹿騒ぎが、もしはじめて起こったというのならば、国民がそれにのっかっていくのもやむをえないこととしなければなるまい。
しかし日本の近代史を少々ひもといてみれば、マスコミの馬鹿騒ぎ、そして時たたずしていったい何のための騒ぎだったのか誰もが途方に暮れてしまうような馬鹿騒ぎは幾度も持ち上がっていたのである。
たとえば満州事変のとき、あらゆる新聞が日本軍の進撃に万歳を送った。
私は「反戦」主義者でも「反軍国」主義者でもないので一般的に戦争を悪だといいたいのではないが、ともかく、マスコミが戦争を煽り立てたのは疑いようのない事実である。
あるいは斎藤隆夫代議士が粛軍演説を孤立無援のなかでやったとき、彼を議会から葬り去れと軍人と一緒になって騒いだのもマスコミであった。
このように戦前の歴史をちょっと眺めただけでも、一部軍人の横暴なり策略なりによって戦争が起こったのだとはとうてい思われない。
マスコミが戦争の煽動集団として重要な役割を果たし、それに逆らう自由主義者たちを次々と集団リンチにかけ葬っていったという事例は数知れない。
そのことについてマスコミはほぼ完全に口をぬぐっている。
戦後とて例外ではない。
私自身のことを例にとると、私は20歳の頃、1960年の日米安保条約改定に反対する左翼過激派のなかの駸若年の指導者として、警察にも捕まり裁判所にも通ったりしていた。
その後、私は自分で考え自分で判断することによって、この日米安保条約改定は日本の立場からして正当なものであり、また左翼の理論にも行動にも正当性がないという結論に達した。
そのことを文章で表明しもした。
ところで、当時のマスコミも大なり小なり60年安保にたいして批判のキャンペーンを展開した。
しかし、60年安保が日本国家、日本国民にとってはむしろ有益なものであったという歴史的評価が日本社会のなかに定着したあとになっても、マスコミは自分らの言動について反省するところがないのである。
戦後におけるマスコミの過剰報道もしくは歪曲報道については枚挙に暇(いとま)がない。
そのことを批判した書物もたくさんある。
たとえば日本軍が30万人の中国人を虐殺したといういわゆる南京大虐殺事件というのはどうやら捏造であるようだ、少なくともその可能性が強いということはもはや否定すべくもない。
しかし一部の大新聞は「大虐殺」を批判する方向でキャンペーンをやっておきながら、それが自分たちの過剰報道であったということにはついぞ明確にしていない。
そのことを論議の対象にすることすらしない。
近々の例でいえば、いわゆる教科書問題もそうだ。
日本の教科書でっ侵略」という表現が「進出」と書き直されているというふうにマスコミが報じた。
それがきっかけになって中国政府が日本を批判し、それにたいして日本の大臣が謝罪するというようなことが起こった。
その直後、よく調べてみると「侵略」を「進出」と書き改めたという事実はなかったと判明した。
にもかかわらず、一部の新聞を除いて、マスコミはそれが自分たちの誤報であったということを認めないである。
その他もろもろ、マスコミが大騒ぎしてみせたが、騒ぎが終わってみると、それが単なる馬鹿騒ぎであったと判明し、しかも情報の捏造まで含めた馬鹿騒ぎであったとわかる、というような事態が累積している。
この項続く。
以下は、下記の故・西部邁氏の本「マスコミ亡国論」からである。
活字が読める日本国民は全員、今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない。
世界中の人たちは、私の翻訳で、皆さんの国のマスコミも同様である事を知るだろう。
なぜマスコミの途方もない馬鹿騒ぎが何度も繰り返されるのか
マスコミによるルールはずれの馬鹿騒ぎが、もしはじめて起こったというのならば、国民がそれにのっかっていくのもやむをえないこととしなければなるまい。
しかし日本の近代史を少々ひもといてみれば、マスコミの馬鹿騒ぎ、そして時たたずしていったい何のための騒ぎだったのか誰もが途方に暮れてしまうような馬鹿騒ぎは幾度も持ち上がっていたのである。
たとえば満州事変のとき、あらゆる新聞が日本軍の進撃に万歳を送った。
私は「反戦」主義者でも「反軍国」主義者でもないので一般的に戦争を悪だといいたいのではないが、ともかく、マスコミが戦争を煽り立てたのは疑いようのない事実である。
あるいは斎藤隆夫代議士が粛軍演説を孤立無援のなかでやったとき、彼を議会から葬り去れと軍人と一緒になって騒いだのもマスコミであった。
このように戦前の歴史をちょっと眺めただけでも、一部軍人の横暴なり策略なりによって戦争が起こったのだとはとうてい思われない。
マスコミが戦争の煽動集団として重要な役割を果たし、それに逆らう自由主義者たちを次々と集団リンチにかけ葬っていったという事例は数知れない。
そのことについてマスコミはほぼ完全に口をぬぐっている。
戦後とて例外ではない。
私自身のことを例にとると、私は20歳の頃、1960年の日米安保条約改定に反対する左翼過激派のなかの駸若年の指導者として、警察にも捕まり裁判所にも通ったりしていた。
その後、私は自分で考え自分で判断することによって、この日米安保条約改定は日本の立場からして正当なものであり、また左翼の理論にも行動にも正当性がないという結論に達した。
そのことを文章で表明しもした。
ところで、当時のマスコミも大なり小なり60年安保にたいして批判のキャンペーンを展開した。
しかし、60年安保が日本国家、日本国民にとってはむしろ有益なものであったという歴史的評価が日本社会のなかに定着したあとになっても、マスコミは自分らの言動について反省するところがないのである。
戦後におけるマスコミの過剰報道もしくは歪曲報道については枚挙に暇(いとま)がない。
そのことを批判した書物もたくさんある。
たとえば日本軍が30万人の中国人を虐殺したといういわゆる南京大虐殺事件というのはどうやら捏造であるようだ、少なくともその可能性が強いということはもはや否定すべくもない。
しかし一部の大新聞は「大虐殺」を批判する方向でキャンペーンをやっておきながら、それが自分たちの過剰報道であったということにはついぞ明確にしていない。
そのことを論議の対象にすることすらしない。
近々の例でいえば、いわゆる教科書問題もそうだ。
日本の教科書でっ侵略」という表現が「進出」と書き直されているというふうにマスコミが報じた。
それがきっかけになって中国政府が日本を批判し、それにたいして日本の大臣が謝罪するというようなことが起こった。
その直後、よく調べてみると「侵略」を「進出」と書き改めたという事実はなかったと判明した。
にもかかわらず、一部の新聞を除いて、マスコミはそれが自分たちの誤報であったということを認めないである。
その他もろもろ、マスコミが大騒ぎしてみせたが、騒ぎが終わってみると、それが単なる馬鹿騒ぎであったと判明し、しかも情報の捏造まで含めた馬鹿騒ぎであったとわかる、というような事態が累積している。
この項続く。
なぜマスコミの途方もない馬鹿騒ぎが何度も繰り返されるのか
マスコミによるルールはずれの馬鹿騒ぎが、もしはじめて起こったというのならば、国民がそれにのっかっていくのもやむをえないこととしなければなるまい。
しかし日本の近代史を少々ひもといてみれば、マスコミの馬鹿騒ぎ、そして時たたずしていったい何のための騒ぎだったのか誰もが途方に暮れてしまうような馬鹿騒ぎは幾度も持ち上がっていたのである。
たとえば満州事変のとき、あらゆる新聞が日本軍の進撃に万歳を送った。
私は「反戦」主義者でも「反軍国」主義者でもないので一般的に戦争を悪だといいたいのではないが、ともかく、マスコミが戦争を煽り立てたのは疑いようのない事実である。
あるいは斎藤隆夫代議士が粛軍演説を孤立無援のなかでやったとき、彼を議会から葬り去れと軍人と一緒になって騒いだのもマスコミであった。
このように戦前の歴史をちょっと眺めただけでも、一部軍人の横暴なり策略なりによって戦争が起こったのだとはとうてい思われない。
マスコミが戦争の煽動集団として重要な役割を果たし、それに逆らう自由主義者たちを次々と集団リンチにかけ葬っていったという事例は数知れない。
そのことについてマスコミはほぼ完全に口をぬぐっている。
戦後とて例外ではない。
私自身のことを例にとると、私は20歳の頃、1960年の日米安保条約改定に反対する左翼過激派のなかの駸若年の指導者として、警察にも捕まり裁判所にも通ったりしていた。
その後、私は自分で考え自分で判断することによって、この日米安保条約改定は日本の立場からして正当なものであり、また左翼の理論にも行動にも正当性がないという結論に達した。
そのことを文章で表明しもした。
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しかし、60年安保が日本国家、日本国民にとってはむしろ有益なものであったという歴史的評価が日本社会のなかに定着したあとになっても、マスコミは自分らの言動について反省するところがないのである。
戦後におけるマスコミの過剰報道もしくは歪曲報道については枚挙に暇(いとま)がない。
そのことを批判した書物もたくさんある。
たとえば日本軍が30万人の中国人を虐殺したといういわゆる南京大虐殺事件というのはどうやら捏造であるようだ、少なくともその可能性が強いということはもはや否定すべくもない。
しかし一部の大新聞は「大虐殺」を批判する方向でキャンペーンをやっておきながら、それが自分たちの過剰報道であったということにはついぞ明確にしていない。
そのことを論議の対象にすることすらしない。
近々の例でいえば、いわゆる教科書問題もそうだ。
日本の教科書でっ侵略」という表現が「進出」と書き直されているというふうにマスコミが報じた。
それがきっかけになって中国政府が日本を批判し、それにたいして日本の大臣が謝罪するというようなことが起こった。
その直後、よく調べてみると「侵略」を「進出」と書き改めたという事実はなかったと判明した。
にもかかわらず、一部の新聞を除いて、マスコミはそれが自分たちの誤報であったということを認めないである。
その他もろもろ、マスコミが大騒ぎしてみせたが、騒ぎが終わってみると、それが単なる馬鹿騒ぎであったと判明し、しかも情報の捏造まで含めた馬鹿騒ぎであったとわかる、というような事態が累積している。
この項続く。
以下は山口二郎教授になんと6億円の科研費についてネット上で発見した記事である。
現在、「脱原発利権」なるものが生まれつつある。孫正義・小泉純一郎・細川護煕・菅直人の動きに注意。
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NHK、TBS、テレビ朝日の偏向報道が何故あれほど酷くて執拗なのかを明らかにしている。
この小泉が、松沢病院に入院歴があるということについては、小泉家の極秘事項になっている。
耳の痛い話です。ただ東芝メモリ売却では、政策投資銀行に三千億円を出資させて日米韓連合で守ることができました。
韓国政府の嘘と捏造はそこまで容赦がないのだ。 すぐに危険だと直感した。
そして、辻元清美の選挙区である、大阪10区、高槻市は日本赤軍の関係者・支援者の多い土地で知られているそうですよ
Anyway, Japanese-style liberals use their position and force to push their ideas and philosophies