随分と久しぶりの更新。
もう3月になって、なんだかあっという間に時間が過ぎていくのが不思議な感じだ。
仕事を随分と忙しくしていて、厳密に言うと忙しくしようとしているのかもしれないけれど、たぶん充実はしている。本も今年になって20冊以上読んでいるし、ジョギングも200km以上走っている。部下たちや上司や昔の友人たちと飲みにも行ったし、仙台や長崎、博多など普段行かない場所にも出張に出掛けた。毎週関西への出張なのは相変わらずだけれど、担当地域が微妙に変更になり、兵庫県と大阪北部を担当することになった。いままでの1.5倍の売上を管理することになり、やりがいがあるのと同時に大変だなとも思っている。
けれども、どれも薄いフィルター越しの出来事のように思える。
1月に母が亡くなり、先週末に実家に帰り四十九日を済ませてきた。1月の吹雪のなか、母は月曜日に入院して木曜日に亡くなった。家族から連絡を受けてすぐに実家に帰ったので最期には会うことができたけれど、いまでもうまく実感することができない。あっという間の出来事で、たった1週間ほどですべてが目の前を過ぎていった。わずか1週間にも満たない内に、人が生きていたということが滞りなく流れていくということがうまく理解できなかった。
もちろん、長男としてしっかりと様々な対応を行い、家族のかわりに遺族代表の挨拶さえ務めた。たくさんの人たちに助けられていることを実感したし、一人では生きられないのだということもよくわかった。ありがたかったのは300人近くの人が母のために葬儀に来てくれたことで、たくさんの人に愛されていたのだということわかり、幸福な人生だったのだと思うことができたことだ。
お寺は小学校時代からの幼馴染の家だった。おじさんといまでは跡継ぎとして副住職となっている幼馴染がお経をあげてくれた。先週末に帰ったときには、しばらく疎遠だった幼馴染たち4人と一緒に飲みにも出掛けた。時の流れを感じたし、中学生の頃一緒に塾に通っていたメンバーが、それぞれ社会で頑張っているのだ。それは随分と感慨深いことだったし、こういった再び繋がった縁も母が作ってくれたのだなと思っていた。
そして、いろいろなことがあったけど、いまでも決定的なことについては考えないようにしている。
たとえば家族はたくさん泣いていたけれど、僕も泣いたけれど、それでもたくさん泣くことはできなかった。病院や葬儀の間中、しっかりしなければということを、まるで呪文のように唱えていた。実家から飛行機で横浜に戻り、一人になったら泣いてしまうかもしれないと思ったけれど、まるで泣くタイミングを後回しにするためであるかのように、いろいろなことで時間を埋めている。埋めまくっているという方が正しいかもしれない。
そうしているうちに、うまく何かを薄め、引き伸ばすことができるとでも思っているのだろうか?
正直な話、たぶんどこかではまだ信じたくはないのだと思う。いい年をした大人だし、頭ではちゃんと理解している。母がもういないのだということもよくわかっている。
けれども、どこかではそれをちゃんと認めていないのだ。
仕事は同じように頑張っているし(部下の何人かには精神的に強いんですねとしみじみと言われた……)、普通に笑えるし、普通にいつものように穏やかに過ごしている。
けれども、決定的な塊のようなものには触れてはいないのだ。
その周辺を、うまく距離をとりながら回り続けているだけだ(それは、静かな宇宙で回り続けている人工衛星のようなイメージ)。
そして、それでいいのだとも思う。
物事には何だってタイミングのようなものがあるのだし、身体や精神が拙くもいまじゃないと言っているのだ。
時間が経てば(時間がすべてを解決してくれると何人もの人が言ってくれた)、ゆっくりとその塊にも近づいていくことができ、触れることができるようになるのだろう。
だから、いまは距離を保ってぐるぐると回り続けながら、感謝の気持ちを事あるごとに思い返していくだけでいいのだ。
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お知らせ
四十九日が終わったら、更新しようと思っていました。
これからはマイペースで、更新していく予定です。