Sun Set Blog

日々と読書と思うコト。

ミルクキャンディ

2008年03月21日 | Days

 昨日の23時30分に横浜の部屋に到着。
 新横浜駅から地下鉄に乗って、いつもの駅で降りて、いつものバスターミナルに行ったのだけれど、すでに終バスも過ぎた後で誰の姿もなかった。祝日だったんだものなと、カレンダー的感覚が薄まっているような気がしながらタクシー乗場へ。
 小雨が降っていて、黒いプラスチック製のキャリーバッグに雨がたまっていく。いくつかの小さな水玉。私鉄と地下鉄の駅とバスターミナルがあるその駅は、いつの間にかかなりの頻度で訪れる場所になってしまっている。何度も来ているので、どんな店がどこにあるか大体わかっていて、いろいろな時間の表情を見ているような気がする。同じ場所でも、時間によって表情を変えることを、僕はときどき忘れてしまうのだけれど、それは余裕がないからなのか、それともただぼんやりしているからなのか、それとも気を張りすぎているからなのか、いまいちよくわからない。
 いずれにしても、小雨の降る夜の駅前は、明るい人の普段見せない表情を垣間見たときのように、なんとなくしんとしてしまうような光景だった。

 乗り込んだタクシーの運転手さんはちゃんとサービス業言葉を話す人で(当たり前のことだけれど、タクシーの運転手にはいろいろなタイプの人がいて、ぶっきらぼうな職人のような人もいるのだ)、飴玉が入った籠を目の前に出してくれて、「おひとつどうぞ」と言ってくれた。
「あ、いいんですか。ありがとうございます」と言いながら一番上にあった飴玉をひとつ手に取る。車が走っている最中だったので早くしよう(あぶないし)と思ったのと、そういうときにはとりあえず手近なものを取ってしまう。飴玉はミルクキャンディで、口の中にやけに甘い味が広がる。

 籠の中にはいろいろな飴玉があったので、そういうときでもゆっくりと吟味する人はきっといるだろう。何かを選ぶということはどんなときでもある種の結果をもたらすものだし。けれども、個人的にはこういうときにはなんでもいいんじゃないかと思っている。大切なのはたとえば今回であればタクシーに乗ったら飴玉をもらって嬉しいということであり、それがレモン味かオレンジ味か薄荷味かということは、記憶に残る細部にはなるけれど、嬉しかったことの核の部分ではない。レモン味だから嬉しかったのではなく、思いがけず飴玉をもらったということが嬉しかった核なのだ。

 そのときそのときで、自分にとって何が核なのかということを、ちゃんとわかっていられるようでいたいなと思う。これは割といつも思っていることで、基本的な方向性があっていれば、微調整はいくらでもできるというような気でいるのかもしれない。たとえばボートを漕いでいて、目的地の方向がわかっているのとそうでないのとではまったく結果が変わってくる。1日ボートを漕いでゴールに近づくのと、全然別の場所に向かっていくというのとでは全然別物だ。それでも、1日ボートを漕いでいたという時間は同じだけ掛かるのだ。
 だからこそ、核となることが何なのか、あるいはどこを目指しているのか、ということを漠然とでもわかっていて、ボートを漕いでいくことが、たぶん大切なのことなのだと思う。

 気をつけているつもりなのに、それでも時々それを忘れてしまう。それなので、こうやってときどきちゃんと思い返していこう。


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 お知らせ

 明日は大阪泊です。お好み焼きが食べたいと、なぜかいまから思っているのです。

コメント (2)
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