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Sun Set Blog

日々と読書と思うコト。

長い移動と最近読んだ本

2004年11月03日 | Book

 いまは3日の午前0時40分過ぎ。
 少し前にタクシーで部屋に帰ってきた。1泊2日の出張に出掛けていて、夕方の飛行機に乗って、新幹線に乗って、帰ってきたのだ。
 明日は祝日でもちろん出勤なので、久しぶりのDaysは簡単に。

 この数日間に読了した本。


『店舗レイアウト』(再読)渥美俊一著。実務教育出版。
 →仕事の参考になる本。磁石売場って言葉は、流通業以外の人には馴染みの薄い言葉なのだと思う。この本を読んで様々な店舗に買い物に出掛けると、いろいろと思うところがあるかもしれない。

『カーヴァーズ・ダズン』(再読)レイモンド・カーヴァー。村上春樹編・訳。中央公論社。
 →短編小説が読みたくなり、本棚から引っ張り出してあらためて読み返してみた。魅力的な断片が多いのだけれど、とくに「足元に流れる深い川」が印象的。
 これで3度目の通読だと思うのだけれど、この傑作選を読むとどうしても『ショート・カッツ』を観直してみたくなる(かぶっている作品が多いのだ)。

『真夜中の五分前 side-A』本多孝好著。新潮社。
『真夜中の五分前 side-B』本多孝好著。新潮社。
 →Amazon.co.jpからのメールで紹介されていた本で、設定が面白そうだなと思って空港の書店で購入した。上下巻のように2冊になっていて、ただ2冊で370ページくらいなので、1冊でもよかったのではないかと思う。もちろん、意図はわかるのだけれど。
 飛行機に乗っているうちにside-Aを読み終わり、モノレールに乗っている間にSide-Bを読み終える。喪失と再生の物語で、おもしろかった。脇を固める登場人物たちの生々しさや表情が不思議と感じられないのだけれど、それも主人公の性質を逆に浮かび上がらせているようで印象的。映画になりそうな感じ。


 飛行機は窓際の席に乗ったのだけれど、ちょうど翼の横の座席だった。翼についている照明が窓の外を見ると同じ場所に常にあって、それが飛んでも飛んでも追いかけてくる星のようで、なんだか不思議な感じがした。また、座席のフックには前に座っていた人が忘れたらしいちょっとしたタグ(何かの商品の値札だけ)がかけられていて、バーコードの裏面には、子供向けの動物が描かれた絵と、「Hava a nice dream!」という文字が書かれていた。なんだか面白かったのでそのイラストつきのタグはポケットの中に入れた。

 ほぼ最終の新幹線は全席自由席で、たくさんの人がホームに並んでいた。とりあえず列の後ろに並んだら喫煙車で、やれやれとぼんやり思う。隣の席のおじさんがビールと煙草の「一仕事終えたセット」をおいしそうに飲んだりしていた。こういうときには、煙草を吸わず、お酒も弱い身としては、その行動がどれくらい気持ちのよいものなのかが図りづらくて困ってしまう。もちろん、わかる必要はないのだけれど。


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 お知らせ

 最終間際の喫煙車両は、煙がすごいことになっていたのでした。

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『採用の超プロが教えるできる人できない人』

2004年10月14日 | Book

『採用の超プロが教えるできる人できない人』読了。安田佳生著。サンマーク出版。
 こういった本は本当にたくさん売られていて、アプローチの仕方こそ違えど、書かれている内容は基本的には似通ってくる部分が多い。それは、たとえば考えの深い人たちが同じ結論に達するのと同じように、ある種の原則のようなものは、やはり共通しているからということなのだろうと思う(だから、個人的にはこのような本の中で白眉は『7つの習慣』だと思う。しっくりくるのはウォードの本)。
 書かれている内容はやっぱり納得できるようなことばかりだ。それぞれ著者によってポイントが異なっているケースはあるけれど、それでも言われてみるとなるほどと思えるような内容が多い。それでもこのような本が多く出版され、数多く読まれているのは、それだけ実行するのが難しいということと、仕切り直しを求めている人が多いからなのかなと思う。

 日々仕事をしていると、目の前のことに汲々としてしまうときはやはり多い。長期的な目的から逆算して、いま何をやるべきなのかということを考えて行動するべきだとわかっていても、それでもたとえば今月の売上予算や利益予算の達成だとか、そういったことに集中してしまうものだ。けれども、そればかりで日々を行動しているとどこか動脈硬化のような感じになってしまい、視野も随分と狭くなってしまう。そういったときに本を読んだり、人の話を聞いたり、一歩引いて状況を見ることができるきっかけのようなものは結構効くのだ。いろいろなものが堆積して荷物が重くなってしまったときに、いったんその荷物を置いて本当に必要なものはどれだけ入っているのかと、あらためて考えさせてくれるきっかけになるというか。

 仕事の中では、仕切りなおしということはなかなかない。昨日の行動に今日の行動が影響されてくるし、今日の行動に明日の行動が屋は影響されてくる。だからどこかでいままでの状態はすべてリセットで、明日から心機一転頑張ろうということにはなかなかならない。けれども、精神的にそういうリスタート的な意識を持つことが必要だと感じることがあって、そういうときにはこの手の本を読むのは結構いいような気が個人的にはしている。

 たくさんの本の中の最大公約数的な部分を抜き出すと結構似通ってくるのではないかと思うのだけれど、それでもこの手の本は出版され続けてきて、これからも出版され続けると思う。時間の有効的な活用の仕方とか、手帳の使い方とか、できる人はこうやっているとか。けれども、受け手の問題を解決することがソリューション・ビジネスの目的の一端であるのなら、やっぱりこの手の本もビジネスマンにとっての問題解決の一助には確かになっているのかもしれない。

 本書は、採用・人事のコンサルタント企業ワイ・キューブの代表である著者が、1000人を超える社長と2万人の学生と接した経験から語った「できる人を見抜く秘策」を書いたものだ。章のひとつではこれが「できる人」の本当の基準という題がつけられ、いくつかの実践的なポイントにも目を向けられている。実際に、多くの人を見てきた中での意見にはやはり説得力があるし、言い切り型の文章にも自信というか力がある。

 印象に残ったのはたとえばこういうところ。

 私は、ビジネスマンとして必要な素養は三つあると考えている。
 ◎素頭のよさ
 ◎素直さ
 ◎エネルギー量
 これら三つの条件はすべて、訓練でよくなったり増えたりするものではない。(86ページ)

 仕事ができる人にはいくつかの共通点があるが、「スピード」という要素は、その中でもとくに重要なもののひとつと言えるだろう。「仕事ができる人=仕事が速い人」と置き換えても、言いすぎではない。逆に、「仕事が遅い」と言われたら、それは「仕事ができない」と言われているに等しい。
私自身、何万人という人を見てきたが、「遅いけれど仕事ができる人」など見たこともあったこともない。(100ページ)

 つまり、最終的にその人がどこを目指しているかで器の大きさはわかってしまうものなのだ。(110ページ)

 そう考えると、交渉の場において主導権を握るということは、言い換えれば、「その交渉を先に打ち切ることができる立場にある」ということなのではないか。業務提携などにおいては、「提携を解消しても損害が少ないほう」が、当然のことながら、主導権を握ることになる。
 つまり、主導権を握るためには、相手側に、より大きなメリットを与える必要があるということだ。(175ページ)

 他にも、たとえば採用をするときに、募集は「志向」で、選考は「資質」でなど、共感できる部分もあって、さっと読んでなるほどと思える感じではある。繰り返し読み返すというようにはいかなくても、ポイントを押さえておくことで、判断の参考にできるかなとは思う。


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 お知らせ

 洗車したら雨が降ってしまいました。しかも激しい雨。

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『泣く大人』

2004年10月14日 | Book

『泣く大人』読了(再読)。江國香織。世界文化社。
 先日、『間宮兄弟』を読んで、江國香織のエッセイ集を何か再読でもしようと思い手に取り、細切れの時間に少しずつ読んでいた。様々な雑誌に掲載されたエッセイを集めたもので、大きくは3つ(「Ⅰ雨が世界を冷やす夜」「Ⅱ男友達の部屋」「Ⅲほしいもののこと」)の部分に分かれている。
 個人的に印象深いのは「Ⅲほしいもののこと」で、江國香織は欲しいものについて書かせたら本当に魅力的だなと思う。
 欲しいものをタイトルから抜粋すると、たとえば「井戸」とか「ロバ」とか「ハイジのような、やさしい心」とか。多くの人が欲しいと思うようなものではないけれど、なぜ欲しいのかについての個人的な理由を読んでいると、それも確かにいいかもしれないと思う。
 たとえば「ロバ」を手に入れたらこうしたいと述べているくだりでは、

 私はロバに、ロバのでてくる本を読んでやる。ロバはおとなしくきいているだろう。(186ページ)

 と書かれていて、なんだかその牧歌的な光景に微笑ましくなってしまうし、「ハイジのような、やさしい心」では、

 私は周囲の人々にも犬にも猫にもミミズにも、思いきりやさしくなる。なにしろハイジだから。最初のうち、みんないぶかしがるだろう。病気かもしれない、とか、何か下心があるのではないか、とか、様々な憶測がとびかう。でも、ヨハンナ・スピリの「ハイジ」を読めばわかるように、ハイジのやさしさは伝染性なので、周りの人もやがてその果てしないやさしさを受け容れ、私を好きにならずにいられない。(201ページ)

 とハイジのやさしさについて憧れを表明するとともに読者にはハイジを正しい重さで思い出させてくれている。
 正直、「Ⅱ男友達の部屋」を読むとこれは男は大変だなあと思ってしまうようなところもあったのだけれど、それでも基本的に世界の見方やスタンスが決まっているということは、ひとつのスタイルなのだということを実感させてくれる。
 日々を愉しむこと、日常にこそ贅沢さを求めたり、感情に従って突き進んだりといったある種の積極さがある人が、鋭い観察眼も同時に持ち合わせているのだから、それはやっぱりなかなかに得難い組み合わせなのだろうなと思う。


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 お知らせ

 KDDIの「talby」に本気で乗り換えてしまいそうです。Docomoもこういうの出してくれないだろうか?

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『間宮兄弟』

2004年10月07日 | Book

『間宮兄弟』。江國香織。小学館。


(ネタバレ含みます)

 帯にはこう書かれている。


(表)
 だって間宮兄弟を見てごらんよ。
 いまだに一緒に遊んでるじゃん。
 “そもそも範疇外、ありえない”男たちをめぐる、
 江國香織の最新恋愛小説

(裏)
 彼らを見知っている女たちの意見を総合すれば、
 格好わるい、気持ちわるい、おたくっぽい、むさくるしい、
 だいたい兄弟二人で住んでるのが変、
 スーパーで夕方の五十円引きを待ち構えて買いそう、
 そもそも範疇外、ありえない、
 いい人かもしれないけれど、恋愛関係には絶対ならない、男たちなのだ。


 帯だけ読んでみても、いままでの江國香織の物語とは少し違うかもしれないと思う。装丁に描かれた絵もどこか気だるい感じのする男たち2人で、これはどういった変化なのだろうと思う。これまで、どちらかと言うと洗練された人たちを描いてきたように見える作品の中で、ちょっと(かなり?)異色な感じを受けるのだ。
 しかも、最初の数章ではいかに間宮兄弟がもてないのかについて、クールな視点ながらありとあらゆる手段を講じて描写しているようにさえ見える。そのため、いい人たちだけれど確かに魅力的とは言い難いというイメージが最初のうちに確立されてしまう。けれども、だからこそこれからこの兄弟にどんな出会いがあって、どんなふうにハッピーエンドになるのだろう……と思いながら読み進めていく。こういう物語は、たとえばハリウッド映画なら最後にはものすごい美女(大概性格もよい)とハッピーエンドになったりするものだし。

 ……けれども、ページを手繰っても恋愛面ではこれといった成功には出遭えず、結局はこれまでの惨敗の遍歴を重ねているようにさえ見える。
 ただ季節だけが夏から冬へと変わり、兄弟はこれからも変わりなく一緒に暮らしていくみたいに……見える。

 それでも、この作品はいかにもハリウッド的な予定調和のハッピーエンド(カタルシスあり)ではないのだけれど、冬にコタツで心穏やかにみかんでも食べているかのような心持ちにさせてくれる。読み進めているうちにどこか安心できるような、それこそ依子がはじめて兄弟の部屋に遊びにいった後に抱いた感想「そしてそれにもかかわらず、終わってみるとなんとなく、楽しかったように思える。」ような心持になってくるのだ。

 それは基本的には兄弟が自分たちのルールに基づき、自分たちのリズムで生きているからなのかもしれないと思う。江國香織の作品の特徴である細部への言及は相変わらず頻繁に行われていて、たとえば兄弟の聴く音楽や、読んでいる本、子供の頃の思い出、母親へのおみやげとなる商品たち、そういったエピソードや物を通じて彼らが自分たちの原則のようなものに従って生きていることを垣間見ることができるようになる。そして、そういった揺るぎないリズムのようなものは、やっぱりどこかでは安心することができるのだ。
 たとえば、文中にはこんな描写がある。

 楽しくない道を歩くとき、兄弟は歌を歌うことにしている。(84ページ)

 掃除も洗濯もしない。夕食も、外食か出前をとる。こういう休日の過ごし方を、兄弟は「読書日」と呼んでいる。(99ページ)

 必要なもの――リモコンと飲み物とスナック菓子――はみんな手の届くところにある。こんなふうに物を積み上げ――高さを出すことが大事だ。だからタオルケットもきちんと折りたたんで重ねる――、自分の身体がちょうどぴったり入るだけのすきまに収まっていることが、徹信は昔から好きだ。基地。子供のころは、それをそう呼んでいた。(118ページ)

 ひさしぶりに「おもしろ地獄」を買ってきた、徹信が言ったのは火曜日で、よし、じゃあ金曜日だな、と明信が応じた、その金曜日の夜、兄弟は夕食も風呂も早めにすませて、満を持してジグソーパズルの箱をあけた。(……)まず、枠をつくる。ジグソーパズルの鉄則だと兄弟は思っている。この作業はあまりおもしろくないので、音楽をかけたり無駄口をたたいたりしながらする。(217ページ)

 どれも兄弟の中でのルールであり、お約束だ。2人――35歳と32歳――はいまだにそれを続けていて、読んでいる方に懐かしさにも似た安心感を与える。大概の兄弟や家族が成長とともに少しずつ軌道を異にする人工衛星のようになってしまうのに反して、兄弟は30歳を過ぎても一緒に暮らしている。その暮らしには子供時代からの延長線上にあるいくつものお約束が濃密に保たれている。もちろん、誰もが久しぶりに家族に会えば家族の中だけで通じる話題やくせに接することができて懐かしさを覚えたりするものだけれど、間宮兄弟にとってはそれが日常と同一になっているのだ。
 多くの人がそれくらいの年齢になれば新しい家族を作り、その中で新しいルールや約束事を積み上げていくものなのに、2人は子供時代からの2人なので、家族のお約束を高い純度で維持している。
 だからこそ、それを垣間見せられることで、なんだか妙に懐かしく、印象に残るようなところがあるのじゃないかと思う。
 いつまでも子供のままというのとはちょっと違うのだけれど、子供の頃の家族とともにあって護られていたような感覚を、維持し続けているというか。

 そして、兄弟の孤独はどこかのんびりとした感じでもあって、『ホリー・ガーデン』や『落下する夕方』の中にあった逼迫した切実さはあまり感じられないのもユーモラスに思えるのだ。
 個人的にはやっぱり『ホリー・ガーデン』が好きなのだけれど、『間宮兄弟』も違った意味でおもしろいよなとは思う。
 たくさんの作品を発表していく中で、こういうのもありなのだろうなと思う。


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 お知らせ

 明信は村上春樹を、徹信は村上龍を、それぞれもう一方の村上より尊敬しているし(101ページ)というところを読んだときには思わず笑ってしまいました。

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『パイナツプリン』

2004年09月30日 | Book

『パイナツプリン』読了。吉本ばなな。角川書店。
 出張前の睡眠時間が3時間だったので、移動中には(眠くならない)読みやすいエッセイを読もうと思い出張バッグの中に入れていた。エッセイを読もうと思うと村上春樹か江國香織か吉本ばなな(現よしもとばなな)をとりあえず手にとってしまう。やっぱり、雰囲気というかトーンに馴染んでいるので気楽なのかもしれない。

 随分久しぶりの再読だったのだけれど、読み終わってみて刷の時期を見て思わず驚いてしまった。なんとまあ、平成元年の本だったのだ。
 早いなあと思う。もう10年以上も前の本なのだ。はじめて読んだときは10代で、随分と長い歳月が流れてしまったのだなあと感心してしまう。ただ、先日30歳になったばかりなのだけれど、中身はそれほど長い歳月を反映しているように思えないのはどうしてなのだろう? もちろん、以前と比べると随分うまく立ち回ることができるようにはなっているだろうけど、本質的なところというか、根本的なところは全然変わっていないのだよなと自分のことながら思う。成長をしていないというか、なんというか……でもまあ、男は30代からだと昔から信じていたので、自分なりのペースで頑張っていこう。

 エッセイは様々な雑誌に掲載された短文を集めたもので、エッセイが終わるたびに、それぞれの後日譚というか、ちょっとした感想のような文章が収められていて、それが面白かった。村上春樹のエッセイにも同様の構成のものがあったけれど、そこに書かれた背景を後になってから振り返ってみるというような文章に、より作家の肉声めいたところが感じられて、好感が持てるからなのかもしれない。

 このエッセイの中で印象に残ったのは次のふたつ。


 自分でもコントロールできなくなりたい。私がいかなる状況の下にいても、その状況の表面のことだけではなくて、その小説を書いている間のすべてのこと、その年齢の私の丸ごとのこと、よい天気や雨のこと、苦労のこと、喜びのこと、旅先のこと、健康のこと、人を好きになる心の切なさのこと、光や闇、見た映画、本、TV、会った人たち、怒ったこと、やさし気持ちのこと、そういう幾千ものデーターが私の中をいちど通りぬけて、言葉という道具を使ってまっすぐに紙の上に出る技術を身につけることができたならば、それが私にできる限界だろう。(19ページ)


 少し前のところの文章で「筆が勝手に書いてしまった」とも書いているのだけれど、そういう自分の言葉が自分の自由にならないということがあるのだろうなとなんとなく思う。

 もうひとつはこれ。


 幸福とかそういうものは、本当に卵のようなものだと思う。大切だからといってきつくつかむと割れてしまうし、そっと扱いすぎても気がはってかえって負担になる。だから、古今東西何万人もの人々が語るように、いちばんよいのは、パック入り卵を自転車のかごに入れてがたがたゆらしながら無造作に帰路を急ぐおばさんのように、幸福と接することに決まっている。家に帰って、2、3個割れていても「あら、われてるわ、ま、いっか。また買えば。」と気軽に受けとめて、残りの卵を使っていればいいわけで、こういう対し方が一番大切である。(58ページ)


 少しずつ年をとってきて、若いときのような切実さのようなものがなくなってきたように思う。切羽詰った感じというか、なんというか。もちろん、若い頃だってうすぼんやりだったじゃないかと言われるとそれまでなのだけれど、若い頃はもう少しなんというか繊細な気持ちを持っていたのだ。一応、感じ入りやすい若者だったのだ、これでも。

 そしていまは大分耐性がついたと言うか、エッセイでいう“卵もってかえりおばさん(おじさん)”に近くなってきている。それがただ単純に年齢のせいなのか、それとも別の何かによるものなのかは判別つかないけれど、タフになることは必要なことだとは思う。もちろん、繊細さのようなものをある部分では失わずにいることも重要なことだけれど、人生の荒波を超えていくにはある程度のタフネスは大切なのだ。

 そして、人生が海で自分たちがそれぞれ船であるのなら、昔上司に言われた一番大切なのはどこの港を目指しているのかということをちゃんとわかっておくことだという言葉を思い出す。凪もあれば嵐もある海(人生)のなかで、目指すべき港がないと嵐を乗り越えなければという気概を持つことはできないし、見当違いの方向に進んで燃料や食料が底をついてしまう。だから大切なのは船の大きさや豪華さなのではなく、目指すべき港なのだというような話だった。

 その話を聞いたときにはなるほどと思ったものだ。格好いいなあと。でも確かにそれはその通りの話で、目指すべき港(目標)は、とても重要なものなのだと思う。


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 お知らせ

 今回読み返すまで、『パイナップリン』だと思っていました(実際には「ッ」ではなく「ツ」)。
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