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コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

大岡越前守陣屋跡(愛知県岡崎市大平町西上野)~旧東海道を歩く(11回目)

2011-07-22 15:43:09 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<御油宿(御油駅)~池鯉鮒宿(知立駅)
2011年7月16日 11回目

大岡越前守陣屋跡

愛知県岡崎市大平町西上野

 

 

大岡裁きで名高い大岡越前守が一万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋が置かれたところです。陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主を慕う旧藩士や領民から陣屋跡を保存すると同時に、旧藩士に東京から移住を願う声が上がり、大岡家別邸として復活しました。岡崎観光文化百選

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吉良道道標と松並木~旧東海道を歩く(11回目)

2011-07-22 15:43:05 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<御油宿(御油駅)~池鯉鮒宿(知立駅)
2011年7月16日 11回目

吉良道道標と松並木

▲ 吉良道道標 東海道は右

 

東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)西尾(現・西尾市)吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、その分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。道しるべ石は、高さ143㎝・幅20㎝の四角柱で、彫られている文字は、
<右面> 「文化十一年甲戌五月吉日建」
<正面> 「西尾、平坂、土呂、吉良道」
<左面> 「東都小石川住」
と書いてある。
とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷(すけごう)勤めの出役(しゅつやく)、さらには海産物の搬入路など重要な脇街道であった。また伝説に、茶壷道中の行列がここを通ると、雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っている。藤川まちづくり研究会

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藤川の十王堂~旧東海道を歩く(11回目)

2011-07-22 15:43:01 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<御油宿(御油駅)~池鯉鮒宿(知立駅)
2011年7月16日 11回目

藤川の十王堂

「十王堂」は、十人の「王」を祀る堂で、その「王」とは、冥土(めいど)(死者のたましいの行くところ)にいて、亡者(もうじゃ)(死んだ人)の罪を裁く十人の判官をいう。
 秦広王(しんこうおう) 初江王(しょこうおう) 宗帝王(そうていおう)
 五官王(ごかんおう) 閻魔王(えんまおう) 変成王(へんじょうおう)
 平等王(びょうどうおう) 太山王(たいざんおう) 都市王(としおう)
 五道転輪王(ごどうてんりんおう)
の総称である。
藤川宿の「十王堂」はいつごろ創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(一七一〇)の記年があるので、ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。また地元では、忠臣蔵で有名な神崎与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。藤川宿まちづくり研究会

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藤川宿表示板と西棒鼻~旧東海道を歩く(11回目)

2011-07-22 14:43:35 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<御油宿(御油駅)~池鯉鮒宿(知立駅)
2011年7月16日 11回目

藤川宿表示板と西棒鼻

 

「棒鼻」とは、棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では、東、西の両方のはずれを言う。藤川に再現された「棒鼻」は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。以下省略藤川宿まちづくり研究会

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藤川宿の脇本陣跡~旧東海道を歩く(11回目)

2011-07-22 14:43:33 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<御油宿(御油駅)~池鯉鮒宿(知立駅)
2011年7月16日 11回目

藤川宿の脇本陣跡

 

「脇本陣」は、江戸時代「本陣」の補助的な役割として設けられた宿舎で、「本陣」に空きがないときには、本陣に準じて用いられていた。 「脇本陣」を営むことができたのは、本陣家に次ぐ名望家(めいぼうか)で、江戸時代後期に営んでいたのは「大西喜太夫(おおにし きだゆう)」で「橘屋(たちばなや)」と呼ばれていた。入り口の門構えは、一般の家では構えることは許されず、「本陣」「脇本陣」だけに許された。藤川宿はそれまで度重なる大火に見舞われているので、現在残っている藤川宿内では古い遺構である。 明治になって宿場の制度が廃止となり、その後、藤川村役場として使われ、現在は「藤川宿資料館」となっている。この敷地は、昭和53年10月に岡崎市の文化財に指定された。藤川宿まちづくり研究会

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藤川の町並みと本陣跡~旧東海道を歩く(11回目)

2011-07-22 14:43:31 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<御油宿(御油駅)~池鯉鮒宿(知立駅)
2011年7月16日 11回目

藤川の町並みと本陣跡

藤川宿:愛知県岡崎市藤川町あたり

▲まっすぐな旧道がいい感じ!
 

 藤川宿の「本陣」は字中町北にあり、藤川宿の中心地で「本陣」とは、江戸時代、公家や諸大名などの貴人が使用した宿舎で、宿場町の公認の休泊所であった。藤川宿の「本陣」は、もともとは2軒であったが退転(落ちぶれること)を繰り返し、江戸時代後期には「森川久左衛門」が勤めていた。当時の本陣の規模は、「本陣 凡(およそ)建坪百九十四坪 字中町 門構・玄関付 壱軒」で、昔の面影はないが、北側の石垣は今でも当時の様子を残している。そもそも「本陣家」は、宿場町の大旅籠屋(おおはたごや)で、建物は門・玄関・上段の間を設けることができ、当主は名主(なぬし)・宿役人などを兼帯(けんたい)し、苗字帯刀を許されていた。 現在、土地や建物を森川家から借り受け、「藤川宿第二資料館」として利用している。藤川宿まちづくり研究会

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藤川宿標柱と東棒鼻ほか~旧東海道を歩く(11回目)

2011-07-22 14:42:37 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<御油宿(御油駅)~池鯉鮒宿(知立駅)
2011年7月16日 11回目

 

藤川宿標柱と東棒鼻ほか

▲東棒鼻の説明板が二枚ある・・・・・▼

▲東棒鼻跡

宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔。朝廷へ馬を献上する一行が、ここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものである。

 

▲広重の藤川宿棒鼻の版画

▲是れより西、藤川宿 岡崎宿へ一里二十五町

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山中城址~旧東海道を歩く(11回目)

2011-07-22 14:42:29 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<御油宿(御油駅)~池鯉鮒宿(知立駅)
2011年7月16日 11回目

山中城址

起伏を利用した室町時代の典型的な山城で、眼下に東海道と額田群南部に至る吉良道、現在の蒲郡市本面に至る西郡道などの街道をおさえる交通の要衝に位置していました。山頂(標高204m)と山腹一帯を東西400m、南北200mの規模で主郭・二の郭を中心として帯状の曲輪が囲む三河地方最大規模の連郭式山城でした。岡崎松平氏の三代信貞の城でしたが、大永4年(1524)に安祥松平氏の清康の命により大久保忠茂らによって攻略され、以来家康の祖父の清康のものとなりました。

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