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コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

伊奈村立場茶屋 加藤家跡~旧東海道を歩く(10回目)

2011-07-09 20:54:05 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<新居宿~御油宿(駅御油)
2011年7月2日 10回目

伊奈村立場茶屋 加藤家跡 (俗称 茶屋本陣跡)

 

一 茶屋の地名
 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり立場茶屋が設けられたので茶屋の地名ができた。
二 加藤家と良香散
 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって            今はこの古井戸一つ残すのみとなった。
三 明治天皇御旧跡
 東京遷都の時、明治天皇はこの加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、牧野英一氏宅に保存されている。
四 俳人烏巣
 烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい、芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五 芭蕉句碑
 芭蕉が烏巣方へ一泊した時の作。「かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六 烏巣句碑
 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」

小板井教育委員会

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子だが橋~旧東海道を歩く(10回目)

2011-07-09 20:54:04 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<新居宿~御油宿(駅御油)
2011年7月2日 10回目

子だが橋

▲写真はではわかりませんが「子だが橋 碑」と刻まれている。

 子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。およそ1千年前兎足神社には、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする風習があったと伝えられている。ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。それからこの橋を、子だが橋と呼ぶようになったということである。現在、兎足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。 小坂井町教育委員会

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東惣門(愛知県豊橋市八町通)~旧東海道を歩く(10回目)

2011-07-09 20:53:09 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<新居宿~御油宿(駅御油)
2011年7月2日 10回目

東惣門

愛知県豊橋市八町通(吉田宿)

 

 

東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていました。門の傍らには十に畳の上番所、八畳の下番所、勝手があり門外の西側に駒寄せ場十一間がありました。惣門は朝六ツ(午前六時)から夜四ツ(午後十時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。豊橋市 二00二年三月

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二川駅(愛知県豊橋市大岩町)~旧東海道を歩く(10回目)

2011-07-09 20:52:33 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<新居宿~御油宿(駅御油)
2011年7月2日 10回目

二川駅

二川駅(ふたがわえき)は、愛知県豊橋市大岩町字南元屋敷にある、東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線の駅である。豊橋市の東南部、旧渥美郡二川町域に位置する。新所原駅← →豊橋駅

 

 

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二川宿本陣(愛知県豊橋市二川町中町)~旧東海道を歩く(10回目)

2011-07-09 20:52:30 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<新居宿~御油宿(駅御油)
2011年7月2日 10回目

 二川宿本陣 

愛知県豊橋市二川町中町

 本陣とは江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中、宿泊休憩した施設です。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた堂々たる建物でした。二川宿の本陣は、後藤五左衛門が中町の北西で勤めていましたが、再々の火災のため没落し、寛政5年(1793)以降は紅林権左衛門に本陣職を譲りました。しかし、文化3年(1806)12月の火災により紅林家も再起することができず、文化4年(1807)以後明治3年(1870)の本陣廃止まで馬場彦十郎が現在地において本陣を経営しました。馬場家本陣は、文化年間の間取図によると間口17間半(約32m)、敷地面積は525坪(約1733平方m)、建坪は181坪余(約598平方m)と宿内一の建物でした。現在も享保年間建築の土蔵、宝暦3年(1753)建築の主屋、文化4年本陣開設時に建築の玄関棟・表門が残り近世交通史上貴重な文化財となっています。豊橋市では、昭和60年本陣当主の馬場八平三氏より本陣敷地建物の寄付を受けたことを契機とし、本陣の保存と活用を図ることとし、昭和62年史跡に指定するとともに、翌昭和63年より三か年事業で、現存部分の改修及び明治以降取り壊されていた書院棟の復元工事を実施し、江戸時代の姿を再現しました。平成3年豊橋市教育委員会

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二川宿本陣(愛知県豊橋市二川町中町)

2011-07-09 20:52:29 | 建築物(洋館以外)

2011年7月2日 愛知県

 二川宿本陣 

愛知県豊橋市二川町中町

 本陣とは江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中、宿泊休憩した施設です。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた堂々たる建物でした。二川宿の本陣は、後藤五左衛門が中町の北西で勤めていましたが、再々の火災のため没落し、寛政5年(1793)以降は紅林権左衛門に本陣職を譲りました。しかし、文化3年(1806)12月の火災により紅林家も再起することができず、文化4年(1807)以後明治3年(1870)の本陣廃止まで馬場彦十郎が現在地において本陣を経営しました。馬場家本陣は、文化年間の間取図によると間口17間半(約32m)、敷地面積は525坪(約1733平方m)、建坪は181坪余(約598平方m)と宿内一の建物でした。現在も享保年間建築の土蔵、宝暦3年(1753)建築の主屋、文化4年本陣開設時に建築の玄関棟・表門が残り近世交通史上貴重な文化財となっています。豊橋市では、昭和60年本陣当主の馬場八平三氏より本陣敷地建物の寄付を受けたことを契機とし、本陣の保存と活用を図ることとし、昭和62年史跡に指定するとともに、翌昭和63年より三か年事業で、現存部分の改修及び明治以降取り壊されていた書院棟の復元工事を実施し、江戸時代の姿を再現しました。平成3年豊橋市教育委員会

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二川宿脇本陣~旧東海道を歩く(10回目)

2011-07-09 20:52:27 | 旧東海道ウォーク

街道ウォーク<旧東海道<新居宿~御油宿(駅御油)
2011年7月2日 10回目

二川宿脇本陣

 

 

 

脇本陣は本陣の利用が重なった場合、その補助的な役割を果たしました。その格式は本陣につぐ ものであり、本陣と同様に、その経営は宿場の有力者があたり、二川宿の脇本陣は松坂家がつと めていました。文化4年(1807)以前には、この地に後藤家、紅林家の本陣がありましたが、文 化4年、本陣が紅林家から馬場家に移った際に、本陣建築のため、もと街道の両側にあった脇本 陣はこの地に移りました。脇本陣の建物は、間口7間(約13m)奥行き19間(約35m)、 畳み数は93畳でした。

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