チェーホフ『ワーニャおじさん』を読んで

2006-01-13 19:08:45 | 本関係
昨日チェーホフ作の『ワーニャおじさん』(岩波文庫版)を読んだ。その簡単な感想を書いておこうと思う。
※なお、混乱させるようで申し訳ないが、文章の内容とページ数は新潮文庫版(神西清訳)によっている。

・教授という存在
彼は、その尊大な振る舞いなどを通して周りの人間を振り回すが、彼の存在にはどのような意味が付与されているのだろうか?私は三つの意味があるように思う。まずは、セレブリャコーフ個人としての彼。即ち、強く名声を望み、実生活に疎く、ひがみっぽいなどの特徴を持つ尊大な老学者である。次に、「教授」としての彼。それは、ヴォイニーツキィ(=ワーニャおじさん)が心酔していた存在であり、それと同時に当時の知識階級の人間を象徴するものである。そしてもう一つは、思想のメタファーとしての彼。彼の思想についてヴォイニーツキィがこき下ろしているが(注2)、そういった思想への直接的な批判とともに、この何とも度し難い存在に感じられる教授のあり方そのものが、当時流行の(?)思想の性格の反映という性質を持たされていたのではないか?そのように推測される。

(注1)最初に登場する場面(153p)からしばらく続く、「年寄りのひがみ」とでも言うべき振る舞いは、秀逸な現実模写として名シーンの一つだと思う。
(注2)例えば「二十五年のあいだ、あいつが喋ったり書いたりして来たことは、利口な人間にはとうの昔にわかりきったこと、ばかな人間にはクソ面白くもないことなんで、つまり二十五年という月日は、夢幻泡沫に等しかったわけなのさ。」(136p)

・振り回される人たち
以上のように考えることができるとすれば、それら三つの要素を持った教授に振り回される人々の様はどのように捉えることができるのだろうか?そのまま読めば、尊大な老学者の要求などに振り回され、そして妙な具合に元の鞘に戻った、といった具合になるだろう。だが、「教授」という知識階級、そして思想の性格の反映という意味づけを重ねて読んだとき、そこには新興の知識階級や思想に初めは期待し、そして実体を知って(すなわち一緒に生活して)失望し、最後はその失望を胸に生きていくという構図が浮かび上がってくる。それは言い換えれば、『ワーニャおじさん』の世界が新興の知識階級や思想に振り回される人々の縮図であったと言う事が出来るだろう。
 だとするならば、唯一振り回されない人=マリーナ(年寄りの乳母)という存在は興味深い。周りの人間が仕事をほっぽり出して教授夫妻(つまり知識階級、思想でもある)に関わろうとする中で、彼女だけはマイペースなのだ。そして時には、第三幕のいさかいのシーンのセリフに見られるように、人を踊らせる媒体、そして踊らされる者達に対して非常に冷淡でもある(注3)。実生活に疎いくせに「皆さん、仕事をしなければいけませんぞ!」(231p)と言う老学者、そんな彼に振り回され仕事をほっぽり出す人々…そういった「実生活からの乖離」とでも言うべき現象・言動の中で、放り出された仕事を引き受け、いさかいを冷静に見て平常どおり自分の日常を生きるマリーナは、振り回される人々を際立たせるという演出的効果のみならず、老齢、(おそらく)下層階級という出自、そして強い信仰心という「古い人々」の新興の知識階級・思想に対する態度を象徴しているように思える(注4)。

(注3)「おや、また鵞鳥が騒ぎ出しましたよ。まあまあ、勝手にするがいい!」(214p)
(注4)これについて、ナロードニキの農村に入っていくやり方が失敗に終わった事が想起される。


[結び]思想に振り回される人間
以上のことから、本作は新しい思想などに振り回される人々を、味わいのある人間模様という形で描き出していると言える。そこではまた、新しいものなど歯牙にもかけないような、古い、しかし実生活に根を張った人間が描かれる事で、振り回される(中産階級などの)人々の姿が喜劇的に、そして批判的なものとして我々に対して映し出されるのであった。そういった人々の群像を、例えば安保闘争時代に当てはめることもできるだろう。本作は、思想などに振り回される人間の姿を本質的な部分でよく捉えているが故に、どの時代でも読むに耐える凡庸性を持ち合わせた傑作と言えるのではないだろうか。

[補足]
思想と人間ということに関して、医師のアストーロ言うところの「変人」という見方や、本作に表れる(精神分析などの)新しい学問への懐疑についても触れなければならないが、予想外に(あるいはいつもどおりにw)長くなってしまったため次の機会に譲りたい。

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