偶然性

2009-07-14 12:01:08 | 感想など
ので、ごくごく簡単に記す。

君が望む永遠~サブキャラシナリオの批判性~」、「鳴海孝之の評価に関する断片」、「そして再び『終末』へ」で作品や人物の評価に見られる共通した傾向がいかなる要因に基づいて生まれきたのかを考えた。ところでこれに「ひぐらし祭囃し編覚書:環境要因と自由意思」(ひぐらし完全ネタばれ)や「偶然性、断絶」の視点などを加えると、君が望む永遠の主人公や終末の過ごし方などに対する評価の根底に「根拠のない全能感」と呼べるようなものが存在していると感じる。なるほど無邪気に「信じれば必ず叶う」とか「懸命に行動すれば必ず目的は達成される」などと言う人はおそらく皆無だろう。それほど世界は単純でないことを誰しも知っているからだ。

しかしながら、鳴海孝之が選べない要因についての考察・考慮が絶無であったり、終末の過ごし方について、多様な過ごし方が実は描かれているにもかかわらず、「なぜもっと行動しないのか」という皮相的な、あまりに皮相的な評価しかできない様を見るとき、評価者たちは結局のところ先ほど述べたような信仰に支配されている(=相対化できていない)と思わざるをえない。これについて、私などは「かんなぎ」という作品で、登場人物が非処女であると判明したことに対する一部視聴者からの反感の中の、次のような書き込みを想起する。それはだいたい次のようなものであった。「処女がいいなんて考えを現実に適用しようとは思わない。でも、二次元のキャラはそうであってほしいと思う。」ここで書き手は現実は現実として理解しており、そこに理想をそのまま当てはめられないことはわかっているし、また当てはめようとも思わないが、二次元は虚構としてその理想が実現される世界であってほしい、と言っているわけである。おそらくこの人は自分が処女崇拝に支配はされていないことを示しつつ、しかしそれでも…という自分の気持ちを書こうとしたのだと思われるが、私としてはそれに対して「ではなぜ処女を理想として求めるのか?」と問いかけたいところである。個人的な感性の問題と言うかもしれないし、あるいは「男性特有の独占欲」などと答えるかもしれないが、性的な観念にしても明治期にキリスト教的価値観の広まりによって大きく変化したのであり、。



偶然性に対する配慮が根本的に欠けている。
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