フラグメント119:シュレディンガーの猫

2011-11-21 18:27:48 | フラグメント

量子論の話でしばしば引き合いに出される「シュレディンガーの猫」。そういった用語を使いつつ「沙耶の唄」という作品の作者の認識がなぜ時代錯誤であるかを説明する・・・それがこの覚書の意図だった。

 

少し具体的に言えば、「観測者としての限界」・「人の認知限界」は今日的にはほぼ前提に近いものであって、しかしそれにもかかわらずコミュニケーションが成立してしまっている、世界が回ってしまっていることの不思議・おもしろさがある。ただその前提がないと、ベタに通じているという誤解が簡単に生じてしまう・・・と私は思っていたが、「共感」の言葉が垂れ流されたりしている様を見ると、どうも「人の認知限界」はまるで自覚されないままきているらしい。真理の到達不可能性、いや正確には「真実が二つ存在する」ということが、単にSF的な  として囲い込まれてしまっている。これは「フラグメント110」と「エミュレーターとディスコミュニケーション」で多少書いたが。

 

全くの余談だが、これは前回のフラグメントの前に書いていた記事。その反動でバラバラ?

 

<錯誤>
全く同じかどうか証明することはできない→でもじっくり話たりして考えを共有できることもある。じゃあ観測不可能とは言えない→錯誤一。考えを共有するには言葉。身体言語もあるが複雑な表現は無理。言葉を尽くす。同じだという解釈に必要なステップは?蓋然性を徹底的に高めることは可能。しかしそれは同一点への到達を意味しない。あるのは同じだという解釈だけだ。言葉の概念は?それを説明する言葉は?と無限後退。これが言語ゲーム。同じかもしれないが、それを証明する方法がない。各々が違うと認識していても実は同じということもある。

 

<錯誤2>
つまりはすべからくオナニーってことを言いたいの?→錯誤二。その指摘自体は「だから?」て話。なぜなら、自分がエスパーだと妄想でもしてない限り、自分と相手が全く同じかが「観測不可能」だということはすぐにわかる。つまり、それ自体の指摘には意味がない。したり顔して「人間関係なんて所詮オナニー」みたいな意見を聞くが、だったら何だって話よ。それを前提にどう考えるかが大事。例えば?それにもかかわらずコミュが成立する。確認しなくても日常会話は回る。海外旅行のボディラン。吉幾三問題→コミュの偶発性、誤配か→

 

<錯誤3>
その通り。そして重要なのは、今述べた限界にも拘らず、あるいはそれゆえにこそ、我々は主観性・恣意性をもって世界を見てしまうものなのだ、ということ。俺が言ってるのは、その限界と恣意性を自覚できないのは話にならんし、それを自覚できんのは何でかねっちゅー話→ぶちで飲んだときMが「感情移入するな」って言いたいんですか?つってたけどよくある錯誤→そう、意識せずとも自分本位で見てしまうよって話。それを自覚しろと。言われてそんなん当たり前だって思うなら、テメーの恣意性ぐらい解体してみろよ。それができなきゃ口だけで無意味。

 

<錯誤4>
このような認知限界と恣意性からすれば、ディスコミュニケーションの必然性・不可避性に疑問の余地はない(今までは、社会の閉鎖性に基づいた共通前提の多さ、それによる蓋然性の高さと同一性に対する予期の高まりという良循環によって隠蔽されてただけ)。にも拘らずコミュは成立し世界は回る不思議。それって沙耶と郁紀のやり取りと何が違うの?そしてディ~必然性を念頭に置けば、誤読もまた必然的・不可避的なものと理解できるはず。なぜなら、言葉や映像から受ける印象は人それぞれ→柄谷行人の言う「透明な言葉」の幻想。その前提・断念のない社会に「共感」は逆効果。

 

<Y先生>
ホッブズとルソーの二項対立は不可。性前説と性悪説も不可。悪意ある存在が侵害するのではなく、侵害せざるをえない=ディスコミュニケーションの必然性。ではそれをどう調整するか?

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