中居正広の案件に関して、「友人によるLINEのやり取りの公開」が文春を通じて世に出たことで、改めて出来事の輪郭がより明確となって擁護していた面々もトーンダウンせざるをえなくなっているようだ。
これは当然の事態だろう。というのも、こうした明確な根拠が出た以上、否定するのであればそれに類するものが必要なのだが、中居側にそれを出す意思、つまり会見なり裁判に類する形で体系的に事態の説明をする用意がないことは(少なくとも現状)確定している。それにもかかわらず、この事件を女性の側に非があるような方向へ持っていこうとするなら、無理な解釈を重ねざるをえず、(万一そう思っていたとしても)そのような発信をすることは、自らの社会的立場を極めて危うくする行為だからである。
言い換えると、発言者が論理的整合性ではなく、ただただ中居側を擁護する目的か、あるいは男女関係について極めて特異な理解をしていることなどが暴露されることとなり、それは発言者の思考力・人間性に関する大きな疑義を公の場で喚起することになる。ゆえに、賢明な人間であるほど、それまで中居側を擁護するような論調であったとしても、沈黙または微温的な発言への後退を余儀なくされるわけで、それをせずに従来の主張を繰り返している時点で、その人間が強いバイアスなど含め思考力などに何らかの瑕疵を抱えた状態らしい、ということが可視化され、さらにはそういう手合いと同じにされたくないということで、それまでの擁護者たちも距離を取らざるをえなくなるという話である(被害者側を全面的に支持するのでないにしても、「新たな反証が出てこない限り、中居側を支持するのは難しいし、新しい展開が生じるまでは慎重に見守りたい」ぐらいが落としどころだろう)。随分もってまわった言い回しをすると思うかもしれないが、第三者でしかない以上出てきた情報で判断するしかないし、ゆえに「調査報告書などに問題点があるなら公の場で反証を具体的に提示する以外に方法はない」と繰り返し言っているのである。
今述べたことは、具体的な例示がなければ極めて厳しい表現に見えるかもしれないが、冒頭の動画にもある長谷川良品に送られてきた中居擁護のコメントを確認すれば、それがどういう性質のものなのか、よくよく理解されるのではないだろうか。
ちなみにこの現象を他山の石として一般化しておくと、長谷川自身も「推しに熱中し、対象を正当化したくなるメンタリティ」に言及しているが、これは「認知的不協和」と呼ばれる現象である(これはタバコ[喫煙欲]と健康、ケーキ[食欲]と肥満など様々な事象で観察される)。すなわち、「対象を推している(ハマり込んでいる)」というプラスの感情と、「対象が加害行為を行ったらしい」というマイナスの感情が同時に生じた時、そこを整合させるために、「推しの行ったことは加害行為ではない」という風に認識を意識的・無意識的に書き換えるわけだ(こうして結論ありきで話が構築されているので、基本的に議論は成立しない。ちなみに古典教育の件でも、相手が思考停止で言っているのか、それとも是々非々で考えた上で発言しているかを問いの中で引き出した方がよいと書いたのもそのためである。また、「Vtuberにのめり込む人間は幸福か・不幸か」という問題で、いかなる趣味嗜好にも当てはまる「程度問題」だが、娯楽が氾濫している現代だからこそ、この問題が誰にでも当てはまり容易に観察可能な現象としてあらためてクローズアップされている、という趣旨のことを述べたのにもつながる)。
これは宗教やイデオロギーにハマった人間にもしばしば見られる現象であるのだが、それが価値観が多様化し情報チャンネルも多様化(たこ壺化)した現代では個人化・多様化しているため、いわばアーキタイプを押さえておかないと、一つ一つの現象に振り回されることになりやすい。まずは、今回のようなエビデンスが示されても、思考上などから蓋然性の高い理解を拒む層が一定数いる、という点は早いうちから共有しておいた方がよいだろう。というのもそのことが、「わかり合い」や「空気読み」などもはや通用しない社会で、その傾向がどんどん強まっていくことを理解することにもつながるし、それはとりもなおさずSNS含めた公共の場での発言で慎重さが必要であることを認識させ、と同時にトラブルの不可避性から誹謗中傷などに関する訴訟システムや法整備の必要性をより広く認知させることにもなっていくだろう(今はまだ、訴訟や開示までのハードルが高すぎる部分がある)。
というわけで、今回は以上。
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