地獄少女を観終わる

2006-12-18 00:23:43 | レビュー系
長い時間をかけたが、ようやく地獄少女を観終わった。中だるみになっていたので正直ちゃんと終わるのか心配だったが、最後の五話でしっかりとまとめてあって安心した。以下、感想などを簡単に述べる。


構成としては、大まかにこんな感じか。
最初は呪い殺す方に理がある(その最たるものとしては、殺さなければ殺される状況)。ただ、相手を悪者にしようとしすぎるのが興ざめ。30分構成ゆえの限界か。そこに逆恨みで呪い殺そうとするなどの内容が混じり始め、構図が変化しだす(呪い殺そうとする側の理が破綻している)。しかしここでも、逆恨みする側が呪い殺されるのであって、地獄少女に理があるという構造はそのままであるように思う。


さてここで中心となる人物、柴田親子が登場し、柴田(父)が復讐を止めるために地獄少女を追うのに従って話が展開していく。このあたりの話では、地獄少女と契約を交わして死ぬ寸前の人間のエピソードがおもしろい(人を「殺し」、自分が地獄に行くとわかっている人間の人生)。しばらくすると、今度は様々な地域・境遇(離島や旅のサーカス団)でのエピソードや、地獄少女と地獄少年との対決などが描かれるのだが、このあたりは構成として全く無駄である。もしかすると、製作者側としては今までの話が都会ばかりだったことを考慮して、田舎や特殊な境遇でも同じようなことが起こっているという、つまりその一般性を主張したかったのかもしれない(後にも触れる)。しかしそれでもせいぜい3話程度で十分であり、8話は明らかに余分であると思われる(放映期間の問題として26話に縛られるという事情はわかるが、それでも無駄なものは無駄だ)。


22話になり、柴田の過去が語られるなど話が大きく展開し始める。そして23話で(記憶が正しければ)始めて、呪い殺される方に理がある構図が提示される(慕われる看護婦の話)。そして、止むに止まれず契約せざるをえなかった人たちを見てきたがゆえに、柴田の主張に大なり小なり反感を抱いてきたような視聴者もここで気づく。呪い殺されるべきと感じた人間たちが、逆の側に回って人々を逆恨みや言われ無き理由で呪い殺していくという事態もありえるということに。それが、23話のテーマであったと言える。


これを前提に復讐の是非が再び問われ、そして24~26話の最終三話へと突入する。そして地獄少女と柴田の縁(えにし)、及び地獄少女の由来が明らかにされる。その中で400年以上前の儀式の話が出てきて、自らの幸福のために他人を犠牲にするという人間の行為の普遍性が提示される。そして話は現代に戻って柴田親子のエピソードを通して復讐が否定され、エンディングとなる。


地獄少女は始め、「人間関係の摩擦が激しい現代の都会」という今の視聴者にわかりやすい、限定された範囲を舞台としていた。しかしそれが地域的な広がりを見せ始め、最後は時代的な普遍性をも提示する形となっている。中だるみや一話ごとの完成度の粗さはあるが、映像的な美しさ(夕暮れ・彼岸花)や音楽に基づいた独特な雰囲気といった外枠、及び話の展開やテーマといった内部的要素が相まって、なかなかレベルの高い作品に仕上がっていると言えるだろう。


※地獄少女との契約の印をなぜ毎回毎回見せるのかは疑問として残ったが、最後のところで全員の契約の印をこれ見よがしに全部見せているから、次回作で明らかになるのかもしれない。

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