I'll be right here

ポケットにパク・ヒョシン 🥨

GQ5月号 P405

2014-05-09 13:00:05 | パク・ヒョシン

自身が考える長所は何ですか?誰かは声を挙げていて、空間を掴む評価もあって、音域自体が広いとも言われています。
私もよく知らない話です。身体のどこを開いて...  音楽はそんな計算は出来ないと思ってます。私はただ歌詞とメロディの感じを感じた後にどのように表現するか研究して詰め込むだけですよ。声をどこで出して、開いてということを計算しながら感情を高めることが出来ますか?どうでしょう。あるがままに表現しているのですが、多くの方が分析してくれるのです。



「勉強が一番楽だった。」というような話も耳にします。
もちろん、研究して試験に臨んで、そういうことはありませんが、私にも他の過程があったんです。
後輩たちが声をどう出すのかと聞いてきたら答えはいつも同じです。好きな音楽をたくさん聴いて、その声を出してみたかったらたくさん歌ってみるのだと。私は最初に練習する時はある1つの声を出すところで1年かける時もあります。


音色に対しての話ですか?
発声、トーン、全部含んでです。
1年以上やってきて、ある日声がパッと出るんです。


音を得るってことですか?
通常そのように言いますが、始点も私が確かに把握出来ないくらいある瞬間そうなります。説明出来ない苦衷があります。1つの声を出すのに私が身体全部使ってあれこれ試す事ですからどんな言葉にも表現出来ません。


歌を教える予定はありませんか?
私には他の事を顧みる余裕がありません。まだ目標に到着も出来ないんです。それで万が一私がどうやって歌うかってある人に教えてあげた時、そういう事をやって本当に歌えるようになるかって話を聞きもするでしょ。私にも出来る表現と発声があって出来ない事もあるのですから。大変な過程を通して感じて練習しなければならないんです。


ジャンルに対して考えてみたりしますか?同じ学校に通った為よく比較されるフィソンやファ二とは別の特定ジャンルが簡単に思い浮かびません。
多くの方が修飾語を付けて下さるんですが、私は色んなジャンルを全部出来る自分が好きです。


ライバルだと思う歌手はいますか
私はファイターじゃないんです。私の音楽をして、やりたいのであって、誰がライバルなんてそんな事.... 誰かを負かしたくなる瞬間、音楽の本質自体がちょっと揉み消されてないですか?それが音楽なのか、なんて考えたりもします。


似たように言及されるキム・ボムスとはお互いにアルバムでデュエット曲を歌ったりもしましたね。友達という事(ヒョシン4集)と無題(ボムス4集)
断然、ボムスヒョンが本当に上手な歌があって、私が上手く出来る歌があるでしょう。聴く方々は物差しで比べることが出来るけれど、私にライバルはいないです。


真夜中を過ぎたから4/11になりましたね。今日出るイソラ8集の「私は星」を先だって歌ってみましたね。この曲がパク・ヒョシンに行けばどうかなと思いましたよ。
歌ってみながら、とても難しいので...
ハハハ ^ ^ 歌というものにそれぞれ意図するところがあるじゃないですか。ダンスをバラードのようには歌えないのでしょ。だから、こうしたらいいって合わせるんです。考えて歌うんです。私の歌だったらするのですけど、そこまでは思いませんでした。ソラヌナが久しぶりにアルバムを出すでしょ。私もその時の気分をよく知っているので、ヌナが本当に自分の言葉で表現しない人だから私がちょっと負担を減らしてあげたかったんです。

<野生花>は自作曲ですよね。ボーカリストとして、こう意図してるって事を達成するためには確実に自分で書いた歌が有利でしょ。
私が作った歌は私を1番よく表現出来ます。メロディも重要でコードワークも重要ですが<野生花>は何よりも私が1番求めていたものが十分なので満ち足りてます。


パク・ヒョシンにとって淡白さというものはある意味宿題のようなものだったでしょ。これを淡白に歌わなきゃと言う強迫よりも自分が書いたメロディや歌詞の叙情で克服したという印象でした。
野生花は内面まで全部見せなければならない歌です。音楽で感じなければならばい歌。格好つけたり、何かをもっとやってみようとしたらダメになる類のものです。歌詞も淡白に書いて曲もそれほど歌わないで表現したのです。


次の曲はまた完全に違く歌うという話ですか。
そういう事もあるでしょうね。うちの社長がいつも心配されるところです。私は手綱が解けた子馬みたいに何でも今やってみたいんです。


5集では「牛追い唱法」が歌謡界を浸食したパク・ヒョシンがその流れに逆いたいって唱法を変えたアルバムだったのが定説だったような話もただの風説ですか?
だからですよ。多くの方がそのように考えるのですけれど、私は自分がやりたいように音楽をやってきたってことでしかないです。デビューして最初の頃に荒っぽい音楽をしてた時は、そういうミュージシャンたちの歌が本当に好きでした。発声が熱くて何か猛り立って歌う声。時が流れたら優しく歌うのもいいな~って時もあったんです。そのようにアルバムによって私のありのままを込めただけです。何か判断して、これはイマイチだからこれをやらなきゃみたいなやり方で計画した事は一度もありません。


俗に言う代表作への欲みたいなものはないのですか?「してあげられないこと」「雪の華」は明白にパク・ヒョシンの代表作ですが1枚のアルバムが簡単に思い浮かんでは来ません。
難しいですね。音楽に対して複雑に考えていません。計算してみたことが無いから。やってみたいジャンルがあったらやって、それがたくさんの人の生活の一部分にあったらいいんです。ある音楽やアルバムで私を代表したいと思う事はないです。


あるミュージシャンの何集が名盤だって話で世代を超えて伝わる事があるじゃないですか。
ある1枚が名盤だという話を聞いたら、とても負担が強くなるなるじゃないですか。そこに合わせるためにしきりに何かをやりたがるものなんです。私にとってはこれからや出すアルバムが全部名盤なんです。怠惰に鞭打ちながら新しい音楽へ最善を尽くすんです。もちろん、他のミュージシャンの音楽を聴く時は、私なりの評価をします。好きなアルバムをもっと良く聴くようになって、ですが自分が楽しむ歌はそのように出来たりしても、私がやらなければならない歌に対してそのような評価をしたくはありません。


歌の1つ1つを大切にしてるからという事ですか?
そうです。そしてある曲がヒットしたとしてその曲と同じようにはまたやりたくないんです。例にあげると<雪の華>が好きです。そしたら、人々は<雪の華>と同じものをまた望むでしょ。だけどそのような歌をまたどうやって作るんですか?その歌はその歌なのに、だからむしろ外部の作曲家の歌を受け取ってみると、私がだんだんともっと書こうって思えてくるんです。作曲家たちはパク・ヒョシンの<過ぎ去りし日>が好きだから、あのスタイルでやったら上手くいくんじゃないと言って曲を下さるのですが、今すぐ、私が望んでいる音楽というのではないからアルバムへは載せない時が多いんです。


1番ぶち壊したい偏見はなんですか?
私を表現する時皆さんバラードだけを話すでしょ。それが少し息苦しいです。アルバムにいつもいろんな趣の曲を収録して、公演会場ではバラードよりもむしろビートがある曲にもっと神経を使って編曲しているのでちょっと変わったらいいですね。「バラード皇太子の帰還、」「バラードの時代が来た。」じゃなくて。


とりわけ滅入る言葉は何ですか?今日は全然ってそれは人として品性に欠けるでしょ。
しょうがないって感じですよね。音楽の色も影響を及ぼすでしょ。
ところで人を見かけだけ見て判断したらちょっと生きていくのがとても疲れないですか?ある方々が私を初めて見て「思ってたのと全然違う。」「冷たく見えたけど違う。」って話もされますが、十分に理解してます。


音楽に対しての評価も、どんなイメージもそれを変えるために何かに出て変える人じゃないでしょ。
大衆の前で何かしようと意図することは私には合いません。歌でもミュージカルでもあれこれたくさんやってみたら、固定観念が少しずつ崩れるんじゃないですか?


そうしたら、どんな修飾語で呼べばいいですか?
どうやって表現しましょうか。ジャンルを考えるのではなくて、かといって友達のようなミュージシャン、そういうのでもないし、例えて言うならこういうのです。美しいメロディで作る音楽が私を支えてくれて、楽しむことが出来るようにしてくれる確かな1つ。昼間でもまさに涙を流すくらい感動を受けることがあります。私が多くの人にそのような歌を歌う歌手でいれたらいいですね。バラードとも違う、どんなジャンルとも違う、ただ「そういう歌」って表現したいです。本当に人生の力になって、私が感じたことを皆さんが感じてくれることが出来るそんな歌。皇太子、王、レジェンド、俺様のような言葉があるでしょう。感謝していますが、一度もそれが私だって思ったことはありません。それよりも私が舞台で歌って観客を見た時にその方々が私を見ている姿が私がある曲を愛おしく聴く表情と同じ時があります。目を閉じる姿、喜びに溢れて落ち着かない姿、胸に手を当てている姿、すごく泣いている姿...
それが私の修飾語のようなものです。その姿が私の全部でしょ。

<完>



「今日の顔は僕も初めて見る私の顔です。さて、笑いますか?」