I'll be right here

ポケットにパク・ヒョシン 🥨

『ベートーヴェン』人物列伝 〜音楽〜

2022-11-30 20:20:00 | ベートーヴェン




古典主義音楽の完成

ベートーヴェンは、ハイドン、モーツァルトと共に古典主義音楽を完成させた3大ウィーン古典派と呼ばれる。

生涯9つの交響曲を残したベートーヴェン。 ハイドンが108個の交響曲を残したことに比べればかなり少ない数だが、難聴という障害を克服し、新しい形式の音楽を作ったということに意味がある。

ベートーヴェンの初期の作品はハイドンとモーツァルトの影響をたくさん受け古典主義音楽の形式が定着し、以後彼だけの個性を加えてロマン主義の砲門を開いた。


写真出典: thecollector.com 

個性と革新の音楽

特に聴覚障害の絶望の中でハイリゲンシュタットの遺書を作成した1802年以後、本格的に自分だけの音楽世界を広げ始める。 

この時期(1802~1812)を一般的に「英雄的時期」と呼ぶが、運命を克服しようとするベートーヴェンの意志が投影されたような強くて壮大な音楽が特徴だ。 

代表的な交響曲第3番「英雄」(1805)は、一般的な交響曲の2倍を越える50分という長い演奏時間、短調から長調に移る果敢な展開方式と新しい楽器配置など、大きな変化で観客を驚かせた。 



写真出典: thecollector.com 

このような大きな変化をめぐっては難解で理解できないというネガティブな反応と新しい音楽に熱狂する肯定的な反応に分かれた。

しかし、その後もベートーヴェンは人々の反応を気にせず、自分の個性を追求し、従来の形式にとらわれない音楽を続けていった。 

ベートーヴェンの革新的な試みは聴覚がほとんど失われた状態でも止まらなかった。その結果、最初に交響曲に声楽を編成した交響曲第9番「合唱」(1824)が長い歳月をかけて完成する。



写真出典:WIKIPEDIA

自由音楽家の時代

ベートーヴェンは「最初の自由音楽家」 と呼ばれる。

ベートーヴェン以前の音楽家たちは王宮と貴族に従属して生計を維持していた。社会変化により中産層と新興貴族が新しい音楽を享受する者として浮上し、楽譜販売、演奏会開催などが活発になり、これが音楽家の独立につながった。

このような社会的変化に加え、ベートーヴェンは自らの音楽と音楽家の価値を高めた。
著作権の概念なしに楽譜が販売されていた状況だったが、作品に番号を付けて正当な権利を確保し、貴族たちに後援を受けながらも彼らに絶対的に服従することはしなかった。

ベートーヴェンを熱烈に後援したリヒノフスキー公爵がフランス将校のための演奏を頼むと、ベートーヴェンはこのような言葉を投げ捨てて出て行ってしまう。 「貴族は数千人だがベートーヴェンはたった一人だ!」



写真出典: Sascha Engst/Bundesstadt Bonn

音楽の聖人、楽聖ベートーヴェン

後世の音楽家たちはベートーヴェンの音楽の壁を越えなければならないというストレスを抱いたまま、彼が残した挑戦的な音楽様式に多くの影響を受け、ロマン主義音楽にへと進んだ。

ベートーヴェンの音楽が誕生して200年余りが経った今も、ラジオや売り場など時間と場所を問わず流れる彼の音楽は依然として強力な生命力を持ったまま私たちと共にいる。 




ミュージカル「ベートーヴェン」にはベートーヴェンの音楽がどのように溶け込んでいるのだろうか。

 「すべてのナンバーはベートーヴェンの原曲に基づいている。原曲にはベートーヴェンの魂と感情が込められているため、観客が彼の感情とキャラクターに移入できる地点を探すためには原曲を使わなければならないと考え、必要な時はメロディーを作曲し自然につながるようにした。

このような過程を通じてクラシック音楽が現代的な感性と出会えるようにしたかった。観客がベートーヴェンという人物を今日のロックスターのように感じて頂けたらと思う」 
作曲家SYLVESTER LEVAY




ピアノソナタ第8番ハ短調《悲愴




ピアノソナタ第14番ハ短調《月光》




《ベートーヴェン:Beethoven Secret》
Based on Beethoven's Original Music 

「私はベートーヴェンの音楽に対する絶対的な尊敬と献身で音楽を作曲した。」
作曲家SYLVESTER LEVAY

ベートーヴェン
MUSICALBY MICHAEL KUNZE & SYLVESTERLEVAY
芸術の殿堂オペラ劇場 
WORLD PREMIERE

お知らせ

2022-11-30 13:30:00 | パク・ヒョシン
ヒョシンくんのお誕生日と同時にリニューアル発表かと思ったら、延期のようです。



こんにちは。MARRAMです。

オンラインショップのリニューアルを心待ちにされていた方々、申し訳ありません。

より安定したサービスを提供する為にもう少し準備期間を設けることに致しました。

オンラインショップのリニューアルとCSサービス開始日程はインスタフィードまたはカカオトークチャンネルで後日お伝え致します。

日程変更でご迷惑をお掛け致します。
皆様の期待に応えるオンラインショップとしてすぐに復活致します。



『ベートーヴェン』人物列伝 〜人生〜

2022-11-28 23:00:00 | ベートーヴェン




ベートーベンが幼少期を過ごした家 
写真出典:Beethoven-Haus Bonn

1770 〜 幼年期 〜 1792
家庭暴力の中で花開いた才能

1770年12月17日ドイツ・ボンで生まれたルードヴィヒ·ヴァン·ベートーヴェン! 

ボンの宮廷音楽家だった祖父と父の影響を受け、ベートーヴェンも音楽の才能を見せた。

ベートーヴェンが初めて出場した1778年の演奏会。彼の父親は8歳のベートーヴェンをモーツァルトのような神童にしようと年齢を6歳と偽り演奏会へ送り出した。

しかしベートーヴェンは大きな反応を得られず、暴力的な父親にムチ打たれ続け、厳しい音楽教育を受けなければならなかった。



1783年のベートーヴェン肖像画
写真出典:Beethoven-Haus Bonn

1770 〜 幼年期 〜 1792
ベートーヴェンは師匠だったボンの宮廷オルガニスト「クリスチャン·ゴットロープ·ネペ」の助けで1782年から宮廷礼拝堂で無給の補助オルガン奏者として働き本格的な音楽活動を始め、実力が認められ2年後には金を受け取って演奏するプロ演奏家になる。

しかし、17歳で母親を亡くした後、2人の弟とアルコール依存症の父親を扶養する家長となったベートーヴェンは、演奏とピアノ教習で金を稼ぎ、豊かとは言えない生活を送る。 



ウィーン 初期のベートーヴェンの肖像画
写真出典:WIKIPEDIA

1792 〜 初期 〜 1802
ウィーンを虜にした新進音楽家

1792年、ベートーヴェンはバルトシュタイン伯爵の後援を受け、音楽の勉強をするためオーストリア·ウィーンへ発った。

ウィーンでベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵の積極的な後援とハイドンの教えを受けながら音楽の勉強をし、ピアノ演奏対決では優れた実力で貴族たちを魅了し、名声は日々高まっていった。

1795年3月、ブルク劇場でピアノ協奏曲第2番の
初演を行い、ウィーンでのデビュー舞台を成功裏に終えたベートーヴェン!
以後、最初の作品楽譜集を出版しながら作曲家としての立場を確立していく。




ハイリゲンシュタットの遺書
写真出典:WIKIPEDIA

1802 〜 中期 〜 1812
絶望を克服して向き合った全盛期

ベートーヴェンの聴力損傷は1790年代後半から徐々に進行した。治療のためにあらゆる民間療法を試したが症状は好転せず、これを隠すためにベートーヴェンは他人との交流を減らしていく方法を選ぶ。

1802年、医師の助言により休養のために訪れたハイリゲンシュタット。 そこで死を考えたベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの遺書」で知られた手紙を書く。 



田園交響曲を作曲するベートーヴェン
写真出典:WIKIPEDIA

1802 〜 中期 〜 1812
遺言が込められたこの手紙は、弟たちに渡されずに保管さ書かれたれていたが、ベートーヴェンの死後に発見される

私と一緒にいる人は遠くから聞こえてくるフルートの音を聞くことができるのに私には何の音も聞こえず、他の人には聞こえる牧童の歌もまた私は全く聞くことができなかった。
そんな時、私は絶望の深淵に転がり落ちて死にたいとしか思わなかった。
そんな考えから私を救ってくれたのは芸術、ただ芸術だけだ… 
- ハイリゲンシュタット遺言の一部 -

難聴の絶望を克服し、再び創作活動に没頭したベートーヴェンは、むしろ音楽形式に新しい試みをして新鮮で偉大な音楽を誕生させた。

交響曲第3番「英雄」(1805)、交響曲第5番「運命」(1808)などベートーヴェンが残した9曲の交響曲のうち6曲がこの時期に作られた。



左:1819年のベートーヴェン肖像画 
右:1823年のベートーヴェン肖像画
写真出典: WIKIPEDIA

1812 〜 後期 〜 1827
難聴の闇の下で

しかしベートーベンの難聴はさらに深刻になった。

演奏活動がほとんど不可能な状況に達し、手帳を通してのみコミュニケーションが可能な状態だった。 

弱り目にたたり目で、彼を後援していた貴族たちの没落で安定的な収入が期待できず、弟のカスパー·ヴァン·ベートーヴェンが亡くなった後、甥の養育権をめぐる法的争いまで続いた。

不安定な状況の中のベートーヴェンが以前のように多くの作品を書くことは難しかったが、荘厳ミサ(1823)、交響曲第9番「合唱」(1824)など重みのある傑作を誕生させた。 



左:臨終を迎えるベートーヴェン
右:ベートーヴェン追悼行列
写真出典:WIKIPEDIA

1812 〜 後期 〜 1827
壮大な葬儀

1827年3月26日、雷がウィーンの乾いた空を震撼させた瞬間、健康悪化で昏睡状態に陥っていたベートーヴェンは息を引き取った。

3日後、ウィーンで行われた葬儀には2万人余りの追慕客が集まり、音楽家の最後の道を盛大に追悼した。葬儀の人出は音楽家には類を見ない規模だった。ベートーヴェンは去ったが、ベートーヴェンが残した偉大な音楽は200年以上の間、私たちと共にしている。



1810年代初め、聴覚障害の絶望の中
音楽と愛に対してベートーヴェンの苦悩が込められた
《ベートーヴェン:Beethoven Secret》
2023年1月12日、Coming Soon!

ベートーヴェン
MUSICAL BY MICHAELKUNZE & SYLVESTERLEVAY

芸術の殿堂オペラ劇場 
WORLD PREMIERE


'ベートーヴェン', 彼は何者? 

2023年1月、ワールドプレミアを控えたミュー
ジカル「ベートーヴェン」の主人公、「ルードヴィヒ·ヴァン·ベートーヴェン」の足跡をたどる✨
⚜️ベートーヴェンの人物列伝-人生編⚜️

1810年代初め、聴覚障害という絶望の中
音楽と愛に対するベートーヴェンの苦悩が込められた
「ベートーヴェン; Beethoven Secret」

苦難から歓喜に向かう波乱万丈なベートーヴェンの旅! 
開幕を待ちながら、興味深く有益な人物列伝シリーズと共に。

全世界を戦慄させる不滅の音楽
あなたが待っていたたった一つのマスターピース! 
#ミュージカル #ベートーヴェン WORLD PREMIERE 
2023.1.12~3.26 #芸術の殿堂_オペラ劇場 

Musical Beethoven by Michael Kunze and Sylvester Levay Based on Beethoven's Original Music



チョサンウンさんの

2022-11-26 22:00:00 | 韓国ミュージカルとか
1stコンサートに行って来ました。


穏やかなお人柄がうかがえるほっこりしたコンサートでした。(日本語べらべらなので言葉の壁は全くありませんでした。)

芸能人に憧れたのは小学校時にご飯を食べながらTVを見ていた時に鏡に映った自分を見た時に「あれ?僕でもいけるかも?」と思ったのだと。ミュージカル俳優目指したのは、軍隊にいた時にチョスンウさんのジキハイを聴いてからだと

ミュージカルデビューはライオンキング🦁で、シンバをやりたくてオーディションを受けたんだけど、配役されたのはサイ🦏の足で、それでも嬉しかったと。

歌は《時が来た》で始まり、アンコールの《君の夢の中で》まで、ミューペン馴染みの曲で構成されていました。
ゆくゆくはジャンバルジャンをやりたいそう。



演奏はカラオケとバンドだったりが混ざっていて、カラオケの音はあんまり良くないかな〜と思ったりもしましたが、歌のパワーに引き込まれ、没入感半端なかったです。

最後の方にポゴシプタを歌われたんですが、独唱のポゴシプタは初めて聴きました
2番はマイクレスで。パワーボイス炸裂
韓国のミュージカルスターは聞き応えがあるよね〜。

ミスサイゴンチームは仲良しみたいで、ゲストに昆ちゃんと東山くんが来てくれて花を添えてくれました。





個人的にはエアポートベイビー聞けて良かったです。ジェリムくんの印象が強いのですがサンウンくんも演じてたのですね〜

いや〜、空っぽのSuの頭とハートをフル充電🔋してくれたコンサートでした。