[あらすじ] 今春のテレビドラマ「ストロベリーナイトサーガ」で二階堂ふみさんを知り、
それから映画「私の男」を観た。
映画化の影響であろう、筋書きにいくつか疑問が有ったので原作を読もうとして、
桜庭一樹さんの『私の男』のちょいと前の作品から読むことにした。
[あらすじ] 恋人との行き違いの経緯を、まるで巻き戻したビデオを再生するかのように見る、
という夢を見たことがある。
それは見るだけで、過去に決して手出しはできない。
[というわけで] 『赤朽葉家の伝説』を読む。
ジェンダーに関わる表現が散見されて、興味を引く。
『赤朽葉家』の奥様は千里眼だ。
距離的時間的に離れたところを視る。
視ようとして視るのではなく、
何かの拍子に見えてしまう。
※
一部引用する。
―
わしらの生き方や、選択が未来をつくるかもしれん。
それまで万葉はそんなふうに考えたことがなかった。
働くのも、なにごとかを為すのも男たちの役割、責任で、
わしら女は、影の、また影。
そんなふうに感じながらのんびりと日々を生きていた。
しかし出目金(主人公の女友達:須山注)の、わしらもよぅく働いて、
もっと豊かな国になったら、子供や孫の時代はもっとよくなるという言葉が、
万葉に驚きと、天地がぐらつくような不思議な感覚を与えた。
―
「(略)男はよぅく働くのがいちばんじゃし、
女はよぅく産んで育てるもんでしょう。
わしはそう信じて生きちょったし、
そしたら、人が産んだ子でも、関係あるまいね!」
ぶわぁっ、と強い風が吹いて、蚊帳がもっと揺れた。
その風を万葉は不吉なものに感じた。
妻が語った人間の生き方が、自明の理ではなくなる、
そんな時代がいつかくるような不吉な予感が、
不意に万葉の浅黒いからだを貫いた。
―
この時代の大人にとっては、国家も家族も己を支えるぜったいのものであった。
しかし未来は、ちがうかもしれないという予感があった。
これもまた未来視であったのだろうか。
国家を信ぜず、家族をつくろうとしない、
そんな時代がやってくるような不吉な予感に、万葉は震えた。
―
私たちと作者は現代に生きていているので、
男女の性役割が作品の舞台当時である昭和前期とは
ずいぶん変化してゆくことを知っている。
女性たちがたくさん働き、市民の活動によって
社会は変わってきた。
保守反動的な人たちは今も多くいる。
彼らが叫び咬みつく時、
万葉の感じたような、「天地がぐらつく」「不吉な」感じが
理由なのかもしれない。
今まで安泰だと信じていたものが、実は絶対的なものではないと
思い知らされて怖いのだ。
※
奥様は、初産にかかった5時間で、長男の一生全てを視てしまう。
―
万葉の子はまたたくまに大きくなり歩きだした。
学校に通い、勉強に励み、恋をした。
恋をした相手はとなりの席に座る少年で、
つまりこの子は生まれ持っての同性愛者であったが、
家族も友も、誰もそれを知らぬままだった。
息子はどんどん大きくなる。その心には憂いがある。(略)
高校生になり、大学生になった。
息子は勉学には生真面目に、しかし日常では注意散漫に過ごし、
そうしてときおり、恋をした。
そのたび黙って思いを呑みこんだ。
やがて、遠い国から伝染性の病がやってくると、
同性愛者への差別意識がとつぜんの津波のように高まっていった。(略)
息子は、悪くないのに隠れて生きた。
社会への反発や、個人への憎しみが噴出することもあり、
万葉はそれを黒い波のようにざばりとかぶって、咳きこんだ。
息子は怒り、猛りながら生きた。
そうして、ある地点でそれはぷつりと途切れた。
息子は山に登っていた。前を歩く男を愛していた。
息子の視界が一度だけ揺れた。すべてが終わった。
万葉は、息子が死ぬことを知った。
―
母親が、息子が死ぬところを、産む前に視ている。
死ぬところを視た息子を、死ぬまで育て続ける。
それはどんな慈しみだろう。
母親自身の価値観では理解できない同性愛者であるということ、
またそのことで本人が苦しむことも、
すべてまるまる知っている。
知っているまま、知らされないで一緒に暮らしていく。
それはどんな距離感なのだろう。
性自認Xであり、同性愛者として育ってきた私としては、
この未来視シーンは胸に迫るものがあった。
隠して生きることの重苦しさを私は知っている。
そのことを知っていてくれる人がいたら、という思いでカムアウトをしてきた。
しかし、自分のすべてを知っている人がいる、というのはどんな感じだろう。
※
300ページあまりの作品の中の、133ページで初めて
「朽葉」という言葉が使われる。
―
毛毬の言葉は言葉でなく、音楽であった。
醜い少年が畏怖の念をもってこの年下の、
気性の荒い少女のかんばせをみつめ続けているうちに、
きらめく夏が終わり、秋がきた。
朽葉が赤く染まり天から舞い落ちてきた。
―
※
奥様は未来を視るが、
未来なのだから変えることはできない。
不幸な未来を知っているからといって、それを回避できるわけではない。
私は、なんとなく自分の見た夢のことを思い出した。
過去は変えられない。それは分かりやすい。
しかし、未来も触ることはできない。
私たちは現在いかに言動するかということしか持っていない。
そうして、時は流れる。
それから映画「私の男」を観た。
映画化の影響であろう、筋書きにいくつか疑問が有ったので原作を読もうとして、
桜庭一樹さんの『私の男』のちょいと前の作品から読むことにした。
[あらすじ] 恋人との行き違いの経緯を、まるで巻き戻したビデオを再生するかのように見る、
という夢を見たことがある。
それは見るだけで、過去に決して手出しはできない。
[というわけで] 『赤朽葉家の伝説』を読む。
ジェンダーに関わる表現が散見されて、興味を引く。
『赤朽葉家』の奥様は千里眼だ。
距離的時間的に離れたところを視る。
視ようとして視るのではなく、
何かの拍子に見えてしまう。
※
一部引用する。
―
わしらの生き方や、選択が未来をつくるかもしれん。
それまで万葉はそんなふうに考えたことがなかった。
働くのも、なにごとかを為すのも男たちの役割、責任で、
わしら女は、影の、また影。
そんなふうに感じながらのんびりと日々を生きていた。
しかし出目金(主人公の女友達:須山注)の、わしらもよぅく働いて、
もっと豊かな国になったら、子供や孫の時代はもっとよくなるという言葉が、
万葉に驚きと、天地がぐらつくような不思議な感覚を与えた。
―
「(略)男はよぅく働くのがいちばんじゃし、
女はよぅく産んで育てるもんでしょう。
わしはそう信じて生きちょったし、
そしたら、人が産んだ子でも、関係あるまいね!」
ぶわぁっ、と強い風が吹いて、蚊帳がもっと揺れた。
その風を万葉は不吉なものに感じた。
妻が語った人間の生き方が、自明の理ではなくなる、
そんな時代がいつかくるような不吉な予感が、
不意に万葉の浅黒いからだを貫いた。
―
この時代の大人にとっては、国家も家族も己を支えるぜったいのものであった。
しかし未来は、ちがうかもしれないという予感があった。
これもまた未来視であったのだろうか。
国家を信ぜず、家族をつくろうとしない、
そんな時代がやってくるような不吉な予感に、万葉は震えた。
―
私たちと作者は現代に生きていているので、
男女の性役割が作品の舞台当時である昭和前期とは
ずいぶん変化してゆくことを知っている。
女性たちがたくさん働き、市民の活動によって
社会は変わってきた。
保守反動的な人たちは今も多くいる。
彼らが叫び咬みつく時、
万葉の感じたような、「天地がぐらつく」「不吉な」感じが
理由なのかもしれない。
今まで安泰だと信じていたものが、実は絶対的なものではないと
思い知らされて怖いのだ。
※
奥様は、初産にかかった5時間で、長男の一生全てを視てしまう。
―
万葉の子はまたたくまに大きくなり歩きだした。
学校に通い、勉強に励み、恋をした。
恋をした相手はとなりの席に座る少年で、
つまりこの子は生まれ持っての同性愛者であったが、
家族も友も、誰もそれを知らぬままだった。
息子はどんどん大きくなる。その心には憂いがある。(略)
高校生になり、大学生になった。
息子は勉学には生真面目に、しかし日常では注意散漫に過ごし、
そうしてときおり、恋をした。
そのたび黙って思いを呑みこんだ。
やがて、遠い国から伝染性の病がやってくると、
同性愛者への差別意識がとつぜんの津波のように高まっていった。(略)
息子は、悪くないのに隠れて生きた。
社会への反発や、個人への憎しみが噴出することもあり、
万葉はそれを黒い波のようにざばりとかぶって、咳きこんだ。
息子は怒り、猛りながら生きた。
そうして、ある地点でそれはぷつりと途切れた。
息子は山に登っていた。前を歩く男を愛していた。
息子の視界が一度だけ揺れた。すべてが終わった。
万葉は、息子が死ぬことを知った。
―
母親が、息子が死ぬところを、産む前に視ている。
死ぬところを視た息子を、死ぬまで育て続ける。
それはどんな慈しみだろう。
母親自身の価値観では理解できない同性愛者であるということ、
またそのことで本人が苦しむことも、
すべてまるまる知っている。
知っているまま、知らされないで一緒に暮らしていく。
それはどんな距離感なのだろう。
性自認Xであり、同性愛者として育ってきた私としては、
この未来視シーンは胸に迫るものがあった。
隠して生きることの重苦しさを私は知っている。
そのことを知っていてくれる人がいたら、という思いでカムアウトをしてきた。
しかし、自分のすべてを知っている人がいる、というのはどんな感じだろう。
※
300ページあまりの作品の中の、133ページで初めて
「朽葉」という言葉が使われる。
―
毛毬の言葉は言葉でなく、音楽であった。
醜い少年が畏怖の念をもってこの年下の、
気性の荒い少女のかんばせをみつめ続けているうちに、
きらめく夏が終わり、秋がきた。
朽葉が赤く染まり天から舞い落ちてきた。
―
※
奥様は未来を視るが、
未来なのだから変えることはできない。
不幸な未来を知っているからといって、それを回避できるわけではない。
私は、なんとなく自分の見た夢のことを思い出した。
過去は変えられない。それは分かりやすい。
しかし、未来も触ることはできない。
私たちは現在いかに言動するかということしか持っていない。
そうして、時は流れる。
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