犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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自他ばた

2022年02月19日 | 椰子の実の中

[あらすじ] 東大仏教青年会のオンライン講座「チベット仏教入門」の中で
講師の先生がどんどん問答をふっかけてくるよ。
私というものは存在するのか。
どこに存在するのか。
死んだらどうなるのか。
魂はどこにいるのか。

そういったことについて、私自身の考えを書いた。
「私個人」という感覚は、肉体が引き起こしているものである。
死は肉体の終わりである。
だから、死んだら「私個人」ということが終わる。
死んだら自分も他人も無い。自他とかどうでもいい世界になる。
https://blog.goo.ne.jp/su-san43/e/bc6966ca8220e7f79c288b266241f8bb

「利他」という考え方が有る。
どうやら、大乗仏教の言葉らしい。

生きていると苦しみだらけだけれど、そこから脱するにはどうしたらいいのか、
ということをブッダは知って、それを説いたという。

修行して自分自身が苦しみから解放されるのはいいけれど、
そんなんじゃ利己的じゃないか、他の存在にも役に立つような生き方をせえよ、
っていうようなことが利他なんだろうか。よく知らない。

なにやら、
「利他が大事だ。」
「いやもともとブッダはそんなことを説いてはいない。」
というようなことが議論になるらしい。

私の考えは違う。

ブッダの言う四苦つまり生老病死はすべて、肉体として現世で味わう苦しみだ。
死んだら問題にならない。
死んでしまえば死すら問題ではなくなる。
どうでもいい。

死んだら肉体から離れ、つまり自分だその他だということは問題ではなくなる。
「自分のために」の「自分」のところに意味が無くなる。
「利他」の「他」のところに意味が無くなる。
どちらも意味の違いが無くなる。
どうでもいい。

ただ、私たちはこの世で肉体を持って個人として生きているから、
そこいらへんのことすべてが問題になってしまっている。

人間関係に頭を悩ます。
私が個人であるように、相手も個人であるのも、
それぞれに自分の一個の肉体を持っているからだ。
死んだらその個分けの状況は無くなるので、
自分が他人が、ああ言ったこう言った、何したかにした、
あの人のおかげで私のせいで、
といったことは一切の垣根が無くなる。
どうでもいい。



「大乗」とか「利他」とか「原始仏教では」とかいったことを
こねくり回さなくてもいいんじゃないかな、
という気がしてきた。

そういう気がしてくるまでには、
ああだこうだの意見やどうだと問われたりする時間も
必要であったので、
何が無駄とか言うことも無い。

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