現代仮名遣いは、発音された音をそのまま表記すれば良い、
という考え方が基にある。
言わば、話し言葉を書き記すための表記法とも言えるかもしれない。
そこに矛盾があるのだろう。
旧仮名遣いを用い続ける必要がある、と強く感じた一件がある。
ずいぶん前に、老母が話してくれたことだ。
「水と緑は同根ね。」
水という語と緑という語は由来するところが同一だ、と言うのだ。
「ミドゥとミドリでしょ。」
うわあ。
それは気付かなかった。
《ミズ》《ミドリ》と書いているから、こんなことに気付かない。
本当は、「ミヅ」「ミドリ」だったんだ。
日本の風土の特徴である、水と緑。
同じ「mid-」という語から生まれている。
では、この「mid-」とは何だろう?
「mid-」こそが、日本の潤いある自然のモトなのだろうか。
こういったことを感じ取ることが、旧仮名遣いからなら発展し得る。
現代仮名遣いは、歴史と風土を捨て去ってしまっているように思う。
旧仮名遣いを知って、言葉の持つ意味をもっと感得したい。
という考え方が基にある。
言わば、話し言葉を書き記すための表記法とも言えるかもしれない。
そこに矛盾があるのだろう。
旧仮名遣いを用い続ける必要がある、と強く感じた一件がある。
ずいぶん前に、老母が話してくれたことだ。
「水と緑は同根ね。」
水という語と緑という語は由来するところが同一だ、と言うのだ。
「ミドゥとミドリでしょ。」
うわあ。
それは気付かなかった。
《ミズ》《ミドリ》と書いているから、こんなことに気付かない。
本当は、「ミヅ」「ミドリ」だったんだ。
日本の風土の特徴である、水と緑。
同じ「mid-」という語から生まれている。
では、この「mid-」とは何だろう?
「mid-」こそが、日本の潤いある自然のモトなのだろうか。
こういったことを感じ取ることが、旧仮名遣いからなら発展し得る。
現代仮名遣いは、歴史と風土を捨て去ってしまっているように思う。
旧仮名遣いを知って、言葉の持つ意味をもっと感得したい。
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