ものごとには必ず原因が有る。
と、インド人は考える。
と、サンスクリット文法の先生が解説する。
結果としての現実が目の前に有って、
その原因は何だったのじゃらほい、と考える。
考えた末にひねり出す'原因'というのは、あくまで考え出したものであって、
その'原因'が現実の結果に至る様は誰も見たわけではない。
間違っているかもしれない。
でも、ある一面から見た場合だと、さも本当の事のように見える。
でもでも、ただの思い込みなのかもしれない。
目の前の現実にとっての原因を探ろうとして、このように帰納的に考えると、
間違うおそれがある。
※
鍼灸治療なんぞやっていると、こういう問題によくぶつかる。
目の前の症状が、なぜ起きているのか、原因をあれこれ考える。
他の症状を集めてみたり、経緯を見てみたり、様々な角度から証拠集めをして、
原因を探る。
原因が分かれば、対処ができる。
原因を解消するような治療を施す。
ここで、原因を見誤っていれば、どんなに治療行為をしたって、
的外れなのだから効果が出るわけがない。
※
90年代くらいに、ゲイになるのは胎内でホルモンシャワーを充分に浴びていないから、
といった説が有った。
同性愛は脳に原因が有る、という説である。
自分はなぜこう(同性愛)なんだろう、と思い悩んでいた人にとって、
これは一つの答えとなり得た。
しかし反面、「同性愛者は脳の異常が有る」というレッテルを貼ること(スティグマ)にもなる。
原因が有るならそれを取り除くというふうに、「治療」の対象とされる、
ということも起き得る。
これがいけない。
それにそもそも「男性同性愛者は完全に男性になっていない者」と扱っているところに
間違いが有る。
胎内でのホルモンシャワーが不充分ということが原因で起こることに、
性分化疾患が有る。
性分化疾患はそれこそ原因も結果も様々で、何十種類もの病態が知られている。
ゲイ化ホルモンシャワー説を取ると、性分化疾患の人はゲイであるという
間違った結論も導いてしまう。
※
見てもいないことを推測だけで言ってはいけない。とは言っていない。
多くの哲学は成果をあげてきたし、
見ていないことを推論できるから、人間は科学を発展させてきた。
分子、原子だのニュートリノだの、物理学でも天文学でも生物学でも、
見えない物の存在を推測して、実験で実証してきた歴史が有る。
また、人権的・社会学的な見方や、倫理的・人道的な捉え方や、
自然科学的・生理学的な観察では、視点も基準も異なると思う。
良いか悪いかは別として、社会や文化のあり方が科学的な視点に影響を与えることは
これまた歴史を見れば明らかだ。
※
何が正しいか、は社会や時代で変わる。
けれど、何が本当か、というのは変わらぬ事実だと思う。
自分の観察が、文化や思想に左右されないわけもないとは思うけれど、
慎重でありたい。
と、インド人は考える。
と、サンスクリット文法の先生が解説する。
結果としての現実が目の前に有って、
その原因は何だったのじゃらほい、と考える。
考えた末にひねり出す'原因'というのは、あくまで考え出したものであって、
その'原因'が現実の結果に至る様は誰も見たわけではない。
間違っているかもしれない。
でも、ある一面から見た場合だと、さも本当の事のように見える。
でもでも、ただの思い込みなのかもしれない。
目の前の現実にとっての原因を探ろうとして、このように帰納的に考えると、
間違うおそれがある。
※
鍼灸治療なんぞやっていると、こういう問題によくぶつかる。
目の前の症状が、なぜ起きているのか、原因をあれこれ考える。
他の症状を集めてみたり、経緯を見てみたり、様々な角度から証拠集めをして、
原因を探る。
原因が分かれば、対処ができる。
原因を解消するような治療を施す。
ここで、原因を見誤っていれば、どんなに治療行為をしたって、
的外れなのだから効果が出るわけがない。
※
90年代くらいに、ゲイになるのは胎内でホルモンシャワーを充分に浴びていないから、
といった説が有った。
同性愛は脳に原因が有る、という説である。
自分はなぜこう(同性愛)なんだろう、と思い悩んでいた人にとって、
これは一つの答えとなり得た。
しかし反面、「同性愛者は脳の異常が有る」というレッテルを貼ること(スティグマ)にもなる。
原因が有るならそれを取り除くというふうに、「治療」の対象とされる、
ということも起き得る。
これがいけない。
それにそもそも「男性同性愛者は完全に男性になっていない者」と扱っているところに
間違いが有る。
胎内でのホルモンシャワーが不充分ということが原因で起こることに、
性分化疾患が有る。
性分化疾患はそれこそ原因も結果も様々で、何十種類もの病態が知られている。
ゲイ化ホルモンシャワー説を取ると、性分化疾患の人はゲイであるという
間違った結論も導いてしまう。
※
見てもいないことを推測だけで言ってはいけない。とは言っていない。
多くの哲学は成果をあげてきたし、
見ていないことを推論できるから、人間は科学を発展させてきた。
分子、原子だのニュートリノだの、物理学でも天文学でも生物学でも、
見えない物の存在を推測して、実験で実証してきた歴史が有る。
また、人権的・社会学的な見方や、倫理的・人道的な捉え方や、
自然科学的・生理学的な観察では、視点も基準も異なると思う。
良いか悪いかは別として、社会や文化のあり方が科学的な視点に影響を与えることは
これまた歴史を見れば明らかだ。
※
何が正しいか、は社会や時代で変わる。
けれど、何が本当か、というのは変わらぬ事実だと思う。
自分の観察が、文化や思想に左右されないわけもないとは思うけれど、
慎重でありたい。
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