犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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三日坊主の十年日記の四月

2018年04月19日 | うつろい
親の何気ない言葉が子どもに刻まれる。
これが祟って、自己評価が低い人がいくらもいる。
若いうちは親の影響下にあってもまあまあ納得が行くような部分も有るが、
これが却って長じてくると気にかかるようになったりする。
四十代になって、友人の間でそんな話になることが有る。

子どもの頃を思い出してみると、例えば、
「あなたは三日坊主ね。」なんて言われた。
言われたら、そうなのか、と思った。
そんなものなのだ、と思った。
続かないんだ、と思った。

そう思っちゃ続くわけが無い。
そして、言ったとおりね、ということになる。

こんなものは一種の呪いである。
子育てどころか、子呪いだ。

言われる側の受け取り方も、よろしくない。
言われるがままである。
反発すりゃいいのに。
おそらく、そこまでの時点で、手なづけられているのだろう。

こんなことなら、親の権威なんぞ無いほうがマシに思えてくる。



殊に、日記はつらかった。
母親が日記帳を買って来る。
日記を付けろ、と言う。
毎日付けろ、と言う。

ありがちな事だが、母は自分が日記を付け続けたことが無いのを引け目に感じているのだ。
子どもの頃はそんなことには気付かなかった。
ただ自分が言われる事が重荷であって、それで精一杯だった。

書くことが有れば、書きたいと思えば、書くことは苦ではない。
書き記したいと思わなければ、書きゃしない。

ついでに書いておくと、父は日記にとりつかれていた。
開通してしばらくした時、気まぐれに北陸新幹線に乗って来た。
そこに日記帳を置き忘れて来てしまい、それっきり出て来なかった。
その時は、その日記帳の間の分は、生きていなかったかのような喪失感が有ったようだ。



どうもどちらもあほらしい。



何がどうめぐったか知らないが、毎日ブログを書く、ということを6、7年やっている。
これは日記とは異質である。
読む人が在ることが前提であり、記録ではなく、自分で読み返すことはほぼ無い。



友人Hが十年日記をやっている、と言う。
自分もやってみようと思って、厚めのノートを買ってきた。
1ページ30行を、3行づつ。
1ページを縦に四等分して、見開きで1週間。
一日の分量はほんのひと枡。これでいい。



自分の思いだのをこまごま書き綴るというのは性分でない。
自分で読み返すわけでもない。誰も読まないための物を書くというのが気味が悪いくらいだ。

中学生くらいの頃には筆の動きももどかしいくらいの勢いで自分の思いを綴った。
誰にも聞いてもらえないから書いたのだと思う。

後で読み返しても、もう自分はそこにはいない。
これは多分、今書いているブログにも当てはまる事だと思うが、
少し時間が経てば、思いも考えも気持ちも変わる。
読み返した時にはすでに、自分の書いた物であっても自分とは違う物になっている。

それを記録していくという趣向はあまり興味が無い。
辿ってきた道よりも、これから先どうしていくかという事に目が向く。

何?そう言うわりにゃぐだぐだ書いてるじゃねえかって?
うん、そう、だから、書いたそばから思いも考えも気持ちも変わるんだってば。



十年日記は、三日坊主ということも無かったが、一年続かなかった。
そして気になりながら月日が経った。
三年ばかりサボって、このごろ復活した。
またたのしからずや。



4月18日「雨 寒」
と書いて、サボり以前の一年目である真上つまり4年前の同日を見ると、やはり
「雨 寒」と書いてある。
同じような春雨で、同じように冷え込んだのだろう。
それしか書いていないことで、不活発になった様子も伝わってくるようだ。

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