
[あらすじ] 昨年10月から書を独習し始め、楽しみが嵩じて、
現代書道の父である比田井天来の故郷である長野県佐久市の望月を訪れ、
まずは天来の書が刻まれた石碑を見学して回った。
宝国寺辺り。
ここで私が見たかったのは「慰霊之碑」の碑陰つまり裏面である。
後で手に入れたガイドマップを見ても、さほど情報は詳しいわけでもないし、
現地に石碑へと案内する道標は、近くには無い。
事前には大雑把な位置しか調べがつかなかったので、30分くらい近辺を探し回り、
やっと見つけた。
寺の正面まで登って金子卓義書の門標を見てから左へ行く。
晴れていれば浅間を眺められる位置に、慰霊之碑はある。
この地の「医師岡田対山が、治療の甲斐なく他界した人々の霊を慰めるために天来に依頼した碑」
だという。
碑陽つまり表面には「慰霊之碑」と天来得意の木簡隷で書いてある。
木簡隷などという言葉は本来は無い。
木簡の隷書の特徴を持った書法のことを指すのだが、
木簡の隷書もひとことでは言えないほど様々な字がある。
木簡にはなんせ、ちゃんとした教科書としてのものから、役人の走り書きまであるからだ。
その中から、私は今年の書初めに、当時の漢字スピードラーニングである
『急就篇』を書いた。
http://blog.goo.ne.jp/su-san43/e/c61066d731cea6cb50883e90eb4445df
木簡の書を習い、こういう感じの字体を自分の書法として確立した
最初の人が天来だったのだ。
発掘したてホヤホヤの木簡に、二十世紀初頭の古典研究に熱心な日本の書家が飛びついたってわけだ。
亡くなる歳に書いたものだという。
力強く、堂々とした字だ。
ただ、今回の私のお目当ては、碑陰つまり裏側だった。
岡田先生がああしてこうして、という賛辞などを、行書約130字で書いてある。
私は行書をまだ練習していない。
興味の持てる手本をきっかけに、手を出そうと考えていた矢先なのだ。
この碑はそんな私を非常に惹きつける。
「慰霊之碑」は立派である。
2m以上ある石碑が、これまた2mほどある台座の上に立っている。
碑陰の字は、6cm角ほどの大きさだ。
克明な写真を撮るには、近寄りたい。
・・・
登るか。
台座は、直径数十cmといった石を積んで作ってあり、
一番上の石は出っ張らせてある。
高床倉のねずみ返しと言おうか、石碑に登ろうという愚かな無礼者を蹴落とすためなのだろうか。
オーバーハングにしてあるのだ。
なおかつ、森の湿気を含んでうっすら苔むしている。
モコモコと緑のが生えているわけではない。
なんとなく表面がうっすらと、赤茶色や黄色になっている。
地味だがよく滑るヤツだ。
正確には、コケではなく珪藻(ケイソウ)だろう。
下段の石に足を掛けてみるが、登山靴の厚く固い底は見事に滑る。
もっと柔らかい靴を履いて来れば良かった。
しかたないので、靴を脱ぐ。
靴下は脱がない。
これならしなやかに足が石の表面を捉えるし、
靴下が湿り気を吸ってより滑りにくいだろう。
降りる時は、飛び下りるしか無いか。
草地とは言え、枝などがあったら足の裏が痛くていやだな。
脱いだ靴を、台座の上に乗せておけば、飛び降りる時に履くことができる。
しかし台座も高い。
じゃあ靴を投げ上げてしまえばいいか。
いや、手の届かないところまで投げてしまったら、結局登れなかった、なんてな時に
ただの裸足の人になってしまう。
手の届く所になんとか靴を乗せて、いざ、モニュメント・クライミング。
手で掴める位置の石だって、滑る。
そもそも積んである石は、丸みの石が多い。
頼りになるのは一箇所くらいだったが、なんとか掴まって、
胴体を持ち上げ、足を高く上げて半身を台座の上に乗せ、
残りの体を引き上げる。
文で書くとあっという間だわね・・・。
台座の上も滑りやすいので、足元にヒヤヒヤしながら、行書の写真を撮る。
チャンスは今しか無い、もう一度登り直す気にはなれない。
後で手本にできるように、くっきり撮っておきたい。
さいわい、碑面は傷んでおらず、文字はきれいだ。
飛び降りる時も、踏み切る足元が滑るというのは怖いものだった。
まあ、下が「笹薮を最近刈ったばかり」なんてのじゃなくて良かった。
靴下もジーンズもジャンパーも、黄色く珪藻に染まった。
けど、なんか朝から達成感。
登った碑に手を掛けポーズを取って、記念撮影。
現代書道の父である比田井天来の故郷である長野県佐久市の望月を訪れ、
まずは天来の書が刻まれた石碑を見学して回った。
宝国寺辺り。
ここで私が見たかったのは「慰霊之碑」の碑陰つまり裏面である。
後で手に入れたガイドマップを見ても、さほど情報は詳しいわけでもないし、
現地に石碑へと案内する道標は、近くには無い。
事前には大雑把な位置しか調べがつかなかったので、30分くらい近辺を探し回り、
やっと見つけた。
寺の正面まで登って金子卓義書の門標を見てから左へ行く。
晴れていれば浅間を眺められる位置に、慰霊之碑はある。
この地の「医師岡田対山が、治療の甲斐なく他界した人々の霊を慰めるために天来に依頼した碑」
だという。
碑陽つまり表面には「慰霊之碑」と天来得意の木簡隷で書いてある。
木簡隷などという言葉は本来は無い。
木簡の隷書の特徴を持った書法のことを指すのだが、
木簡の隷書もひとことでは言えないほど様々な字がある。
木簡にはなんせ、ちゃんとした教科書としてのものから、役人の走り書きまであるからだ。
その中から、私は今年の書初めに、当時の漢字スピードラーニングである
『急就篇』を書いた。
http://blog.goo.ne.jp/su-san43/e/c61066d731cea6cb50883e90eb4445df
木簡の書を習い、こういう感じの字体を自分の書法として確立した
最初の人が天来だったのだ。
発掘したてホヤホヤの木簡に、二十世紀初頭の古典研究に熱心な日本の書家が飛びついたってわけだ。
亡くなる歳に書いたものだという。
力強く、堂々とした字だ。
ただ、今回の私のお目当ては、碑陰つまり裏側だった。
岡田先生がああしてこうして、という賛辞などを、行書約130字で書いてある。
私は行書をまだ練習していない。
興味の持てる手本をきっかけに、手を出そうと考えていた矢先なのだ。
この碑はそんな私を非常に惹きつける。
「慰霊之碑」は立派である。
2m以上ある石碑が、これまた2mほどある台座の上に立っている。
碑陰の字は、6cm角ほどの大きさだ。
克明な写真を撮るには、近寄りたい。
・・・
登るか。
台座は、直径数十cmといった石を積んで作ってあり、
一番上の石は出っ張らせてある。
高床倉のねずみ返しと言おうか、石碑に登ろうという愚かな無礼者を蹴落とすためなのだろうか。
オーバーハングにしてあるのだ。
なおかつ、森の湿気を含んでうっすら苔むしている。
モコモコと緑のが生えているわけではない。
なんとなく表面がうっすらと、赤茶色や黄色になっている。
地味だがよく滑るヤツだ。
正確には、コケではなく珪藻(ケイソウ)だろう。
下段の石に足を掛けてみるが、登山靴の厚く固い底は見事に滑る。
もっと柔らかい靴を履いて来れば良かった。
しかたないので、靴を脱ぐ。
靴下は脱がない。
これならしなやかに足が石の表面を捉えるし、
靴下が湿り気を吸ってより滑りにくいだろう。
降りる時は、飛び下りるしか無いか。
草地とは言え、枝などがあったら足の裏が痛くていやだな。
脱いだ靴を、台座の上に乗せておけば、飛び降りる時に履くことができる。
しかし台座も高い。
じゃあ靴を投げ上げてしまえばいいか。
いや、手の届かないところまで投げてしまったら、結局登れなかった、なんてな時に
ただの裸足の人になってしまう。
手の届く所になんとか靴を乗せて、いざ、モニュメント・クライミング。
手で掴める位置の石だって、滑る。
そもそも積んである石は、丸みの石が多い。
頼りになるのは一箇所くらいだったが、なんとか掴まって、
胴体を持ち上げ、足を高く上げて半身を台座の上に乗せ、
残りの体を引き上げる。
文で書くとあっという間だわね・・・。
台座の上も滑りやすいので、足元にヒヤヒヤしながら、行書の写真を撮る。
チャンスは今しか無い、もう一度登り直す気にはなれない。
後で手本にできるように、くっきり撮っておきたい。
さいわい、碑面は傷んでおらず、文字はきれいだ。
飛び降りる時も、踏み切る足元が滑るというのは怖いものだった。
まあ、下が「笹薮を最近刈ったばかり」なんてのじゃなくて良かった。
靴下もジーンズもジャンパーも、黄色く珪藻に染まった。
けど、なんか朝から達成感。
登った碑に手を掛けポーズを取って、記念撮影。
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