研究日記

考えたこと、読んだ本、出席した集まりなどを残しておくためのもの。

市民自治用語の定義

2005-05-25 | Weblog
ここ最近書いてきた文章について、
一本の論文にまとめた。
5000字になった。
論文(PDF)

用語の整理

2005-05-23 | Weblog
ここで、言葉の意味を仮置きしてみる。最終結論を出すには、まだ調査が十分でないと思えるが、ある程度の定義であればできると思える。そこで、ここで仮に意味を置いてみることで、このあとの調査のための軸を作りたいと思う。つまり、今後文献を読んでいく中で、これまでと違った定義をしているものがあった場合、仮置きをしているほうがしてないよりも、そのズレが認識しやすいと思うからである。
言葉を定義するに当たって、現実を記述するために定義するか、理念を記述するために定義するか、という2つの立場がありえる。ここで扱われる「市民自治」「協働」などの言葉は、現実のある状況を指して「ああ、今日は市民自治だなあ」とか「協働したなあ」などと日常語として使われるよりは、論文や行政機関の文書などの中で使われることが多いので、理念として定義することとする。
次に、同じ言葉が広義と狭義で使われることがある。この場合、狭義のほうを採用することとする。広義と狭義の両方を許すと、きちんと意思疎通を図ろうと思えば、いちいち「今行った○○○○というのは、広義ですか?狭義ですか?」と確認しなければいけないはずである。それは煩雑であるため、片方のみとする。
市民について。(1)ある一定の地域に関係ある人。例えば、市民会議では、有権者<住民<通勤・通学者と幅を持って考えている。(2)ある意識を持った人。例えば、松下圭一は、「自由・平等という共和感覚をもった自発的人間型、したがって市民自治を可能とするような政治への主体的参加という徳性をそなえた人間型」と定義している。(2)は、住民と市民を分けて定義する人に共通する。
市民参加について。市民が行政の主導する政策過程に参加すること。計画段階から参加することを強調するために、参画、という言葉を使う。行政が市民の主導する政策過程に参加することを行政参加と呼ぶ。
市民主権について。主権とは、古典的な政治学に於いては、絶対的な命令権を指し、国民主権とは、国民にその命令権があることを指す。その主権が国民にあるという理念と、実際に権力を振るう政府という現実を仲介するために、国民が政府に信託している、という信託理論が生まれた。これに対して、松下圭一の言う市民主権の主権とは、絶対的な命令権を指さず、最終的な決定権を指している。古典的な定義を用いると、軍事力がないなどの問題が生じるため、松下圭一の定義を用いる。
協働について。ある主体間が、対等な立場で、共通の目的に向かって役割分担すること。この言葉については、森啓が1970年代に使い始めた。文化行政に対する疑念と批判に答えるために、「文化行政とは市民と行政との協働の営為である」と文脈で使い、「自己革新した行政と市民による協力」を指した。世古一穂は、行政とNPOの領域論の中で、(1)すべての領域を指す広義的な意味と、(2)行政とNPOが対等な領域のみを指す狭義的な意味の両方で使っている。この言葉は、行政と市民間のみならず、NPOと企業などでも使われる。また、最近見つけた珍しい例では、シナジーsynergy相乗効果の訳語として、「共働」という言葉を使っている例があった。キョウドウという音に、いろいろな思いを込めて、「共同」「協同」「協働」「共働」など漢字を当てはめているように感じる。
市民自治について。自治とは、自らのことは自らで決めること。市民自治とは、市民が自らのことは自らで決めること。協働のときの「役割分担」と同様に、「自らのこと」とは何か?という難しい問題を先送りしている言葉のように感じるが、その問題については後回しとする。この自治と言う言葉に、「自らですること」まで含める狭義の意味と、「決めることまで」とする広義の意味がある。後者とすると、信託理論までその範疇に含まれてくる。
 まず、補完性原理に基づいて、「市民自らできること」と「行政に任せること」が分かれるとする。市民自らできること及びその領域を広げようとすることを「市民自治」と定義する。その領域に、行政が参加し協力することを、「行政参加」とする。「行政に任せること」に、市民が参加し協力することを、「市民参加」とする。その中間の領域で、市民と行政の主導性・主体性が同等の領域で協力することを「協働」とする。「行政に任せること」の領域に置いても、最終的な決定権が市民にあることを示すために「市民主権」という言葉を使う。以上のように定義すると、かぶるところが少なく、誤解が生じにくいと思われる。ただし、一般的には「市民参加」「行政参加」も含めて協働と呼ばれることが多いし、「市民主権」「協働」も含めて市民自治と呼ぶことも多い。(1925文字)

<行政参加>と言う言葉について。

2005-05-22 | Weblog
 最近参加した研究会で、ある人が「住民参加は古い。これからは行政参加だ」と言っているのを聞いたが、雑誌で、NPO法人アサザ基金代表理事の飯島博と言う人が、<行政参加>と言う言葉を使っているのを発見した。引用すると「住民参加はもう古い。21世紀は行政参加の時代です。」「住民参加という言葉は、ピラミッド型社会から生まれた言葉です。21世紀はネットワーク型社会です。」とある。具体的内容は、アサザ基金が展開するいろいろな事業ごとに、国、地方自治体、大学、小学校などを参加させている、というもののようである。「市民が企画する事業に、必要に応じて行政を参加させる」という意味で、<行政参加>という言葉が使われるのが分かる。ただし、感じたのは、アサザ基金は大きく力ある団体で、そういう団体だからこそ大きな事業を企画して、行政を参加させることができるようにも思った。力関係や場面によって、行政参加と住民参加は切り替わるように思う。一概に、「住民参加は古い。これからは行政参加だ」と言うのは、言葉のみの進化だと思う。(450文字)
*「ネットワーク型社会は行政参加で行こう!」『職員研修』2005年6月号

市民会議記録

2005-05-22 | Weblog
札幌市の自治基本条例の市民会議が、
この間、5月17日に第13回があったのに、
ホームページ上の記録が、
2月16日の第 8回で止まっているのが気になる。
3月 5日 第 9回
3月19日 第10回
4月14日 第11回
4月26日 第12回
5月17日 第13回
はどうしたのだろう?

市民自治を進める市民会議(傍聴)

2005-05-17 | Weblog
 札幌市の自治基本条例について検討している市民会議を傍聴した。本日は、自治基本条例に入れる項目を検討していたのだが、一点思ったことがあった。
 「4者の協働」と言う題名で、「市民、議員・議会、市長、職員は、この条例で定める役割に基づき、相互の協力、連携を図らなければならない」という内容の項目を検討していたときに、委員の一人が「協働と言うのは市民と行政の公共二分論の中で使われることが多いが、それと選挙で選ぶ市長と議員を同時に論じるのはいいことなのか」と疑問があがった。
 これについては、私は次のように考える。協働と信託において、そこに表れる主体の関係は以下のようである。
  協働=対等な当事者間における関係
  信託=寄託者と受託者の関係
 後ろの寄託者と受託者の関係に於いては、受託者に寄託者に対する報告の義務が一方的にあったりするため、対等な関係とはいえない。委員の指摘はもっともとであると言える。これは、まず「市長と議員に信託と協働の二面性を認めるか」という問題であり、次に「認めるとしたら同じ条文に入れ込むか」という問題である。信託という面を強く感じる人は、対等を強調される「協働」と呼ぶのは嫌がる。(494文字)

基本用語の意味について

2005-05-15 | Weblog
「市民主権」「市民自治」「市民参加」などの言葉の意味について考えてみたくなったのは、まず私自身が具体的にそれが何を示す言葉なのか分かっておらず、人にも説明できない、というのがある。それに加え、周りの人間も同様な状態であるように感じたのだ。私も、「だいたい」、「何となく」、「ぼんやり」とは何を指す言葉なのかは分かっている気がする。しかし、人と話していて、「相手も同じような状態ではないか?」、と感じることが多い。
 これは危険な状態である。私はこれまでの経験から、「核となる言葉をあいまいなままにしておくと、抽象的に議論しているうちは良いが、具体的問題に直面したときに困る」ということを学んだ。例えば、Aさんの考える市民自治と、Bさんの考える市民自治が違う意味だとする。しかし、抽象的に議論している段階では、AさんはBさんも自分と同じ意味で「市民自治」という言葉を使っていると思うので、「あなたも市民自治に賛成ですか。私も賛成です」と、違いが表面化しない。ところが、「ゴミをきちんと捨てない人がいる」といった具体的問題に直面して、それを「市民自治」的に解決することになった場合に、具体的に提案される解決方法がAさんとBさんで全く違う、ということが起きる。違いが表面化するのである。
 これは笑い事ではなく、へたに議論の段階でお互いに理解しあっている気分になっているために、具体の場面での相手の行為が裏切りに感じられてしまう。議論の段階で違いが表面化したときよりも、信頼関係が崩れることになる。これが、行政と市民の間で起きたときには目も当てられない。
よって、私は最初に掲げた言葉について意味を考えたい。ただし、言葉は生き物だと思うので、「これがこの言葉の正しい意味です」と言うつもりは無い。「この言葉をこういう意味で使えば、有意義な議論ができるのではないですか」という提案をしたい。そしてそのために、抽象をさけ、できるだけ具体を目指したいと思う。(820文字)

市民主権とは何か(4)

2005-05-14 | Weblog
 よって、君主主権とは、簡単に言えば、王様が自国の領域内の人の生殺与奪の権を持っていることを指す。そして、国民主権とは、国民がその生殺与奪の権を持っていることを指す。さて最近「市民主権」という言葉を聞くことが多くなった。しかし、私はこの用法に違和感を覚える。上記で述べたように、主権とは生命に関する命令を含む最高の命令権である。ところが、市民主権にはそれが含まれていない。
 「市民」という言葉も多義的な言葉であるが、ここで言う市民主権の市民とは、国家よりも狭い領域における人々と考えておく。例えば、札幌市の住民である。札幌市には警察力も軍事力も無い。その札幌市の権力を指して「主権」と呼ぶことは、主権という言葉に重さを感じる私には違和感が生じるのである。こういった使われ方をしだしたのは、おそらく信託理論を自治体に適用したことから生じているのであろう。つまり、国民主権と信託理論が結びついているため、自治体に信託理論が適用されるなら「市民主権」もあると推測されたのであろう。(436文字)「 」を多用しすぎていると思ったので直した。


市民主権とは何か(3)

2005-05-13 | Weblog
 さて、前述の研究書によれば「主権そのものを君主の手から人民の手に取り返そう」というのが人民主権である(p307)。王様主権が、こうして国民主権になっていくのである。
 また戻って、「主権」とは何かについて考えてみる。先に、「絶対権力者が持つ権力」と述べた。そこで「絶対権力者がしていること」を考えてみた。まず浮かんだ俗っぽいイメージ――金銭や女性や美食などを手に入れることなどは、しかし主たるものでは無いと思われる。主権を考え出した思想家たちもそのつもりで無かったことは述べたし、もしそうだとすると国民主権というのはどういう状態なのか分からなくなる。ここで思うのは、「武力」である。つまり、おおよその人間にとって、最高の宝は命である。よって、最大に絶対的な権力は、人に対して「死ね」と命令できる権力であろう。武力とは、警察力や軍事力である。人を捕まえて死刑にしたり、死地におもむかせることができる力である。このことは、絶対主義王政のあとに夜警国家の思想が生まれたことも証明している。(439文字)

市民参加と市民自治研究会

2005-05-12 | Weblog
 今回は、平成15年に行われた1000人ワークショップにおける投票とその結果の利用について報告があった。そこでは、設定された設問に対しどれに賛成するかという投票が行われ、「案Aに賛成な人○%」というような結果がその場で大画面に映し出された。4つの設問があり、(1)今の計画で推進18%、(2)計画推進と市民意見採用の中間51%、(3)大幅な市民意見の採用17%、(4)事業の中止8%、という結果であった。市は、それを(1)と(2)を合わせて、「計画推進に賛成な市民が約70%」と総括したが、はたしてそれは適切であったかどうかとの問題提起があった。
 私が最も関心を持ったのは、あいまいな設問についてである。(2)の設問があいまいであるのも原因とされていた。であるならば、なぜ事前にそれを除けなかったのだろうか。市だけで設問をつくった、というわけでもなく、事前に市民も含んだ懇談会で検討を重ねたそうである。また、社会調査の経験者もいたようだ。何度か質問したが、結局答えは分からなかった。当事者は気づかない、ということかもしれない。あいまいな設問は、その結果の評価をめぐって、必ず立場の違う人たちの間に争いが生じるので、注意が必要である。(514文字)