研究日記

考えたこと、読んだ本、出席した集まりなどを残しておくためのもの。

公共の問題

2005-08-30 | Weblog
「デートのとき男性がおごるべきだ」と主張する女性と、
「デートのときは割り勘すべきだ」と主張する女性と、
両方にあったことがある。

この問題に関しては、
私自身は特に考えが無かったので、
社会の大勢に従おうと思っていたのだが、
どちらも正当化する論拠を聞いたことが無く、
他方に肩身が狭い思いさせるほど、
“常識”になりえていないようである。

「男性がおごるのは常識でしょ」と、
男性である私に主張する女性はいたが、
その女性が
「割り勘が常識」と思っている女性を説得するところを見たことが無い。

逆に「割り勘が常識」と思っている女性が、
「男性がおごるのが常識」と思っている女性を、
説得するのを見たことも無い。

女性が複数いる場で、
両派が混在していることが分かっても、
特に議論になったことを見たことが無い。

これはつまり、
この問題が公共の問題として考えられてない、ということである。
個人の問題として考えられているということである。

「それぞれの個人がどちらを選ぶかは個人の自由であり、
どちらを選んでも他人から非難されることは無い」
そう考えられているので、
他人を説得する行動が起きないのである。

他人を説得する行動が起きないので、
論拠が示されたりしないし、
社会の大勢が決まったりしないのである。

無駄づかいをなくす

2005-08-30 | Weblog
「無駄づかいをなくす」とは
よく聞くが、
問題はそれを言う人が、
何を無駄と考えているかであろう。

つまり、
みんな自分に関係のあることは、
無駄だと思ってないのである。

「無駄」という言葉自体に、
「なくすべきもの」の意があるから、
「無駄づかいはなくす」は当たり前で中身の無い言葉だ。

「何を無駄と考えているか」を言って、
初めて意味ある議論ができる。
ただしそれは軋轢を生むのは必至なので、
怖くて言えないのだろう。

市役所改革セミナー

2005-08-25 | Weblog
横浜市の横浜火種の会の前田さんと、
名古屋市の行政経営室の佐藤さんを招いて開かれた、
市役所改革セミナーに参加した。

横浜火種の会は、
上杉鷹山に感動した職員が発端となって始まったらしい。

実は「上杉鷹山」という人のことは良く知らない。
が、よく名前を聞く。
一度読んでおこうと思った。

名古屋市のほうは業務改善の発表大会をしているという話だったが、
目を引いたのは、
●全職員による投票をしているが投票率が3分の1
ということだった。
つまり、
投票するにはエントリーした業務改善を読まなければいけないけど、
それだけ多くの職員が読んでいる、
ということだ。

と書きながらも、
実は私の最近の関心は、
(いうなれば)
行政学的なことよりも哲学的なことにあるので、
「隠者を目指して、
世から徐々に引いていこう」
ということをもっぱら考えていたのであった。

匿名の掲示板

2005-08-25 | Weblog
市長の職員向けのメールに、
庁内のイントラに、
仮名で書き込める電子掲示板を復活させることが
書かれていた。

現在ある電子掲示板は、
実名のみであるが、
以前、ニックネームの使用ができる掲示板があった。

書き込みの量を比べると、
圧倒的に仮名のほうが多かった。

私は常に実名を使うので、
その感覚は分からないが、
仮名のほうが書き込みやすいのだろう。

これは一般の掲示板にも見られる傾向なので、
特に職員だからということはないのだろうが。

仮名は「発言に対する責任」など、
いろいろ失うものもあるのだが、
活発な掲示板は札幌市を特色付けるものだと思っていたので、
その復活は喜ばしい。
(私は違いがあるほうが好きだ)

ただし、
(1)一度死んだ盛り上がりが、また戻るのか
(2)利点が欠点を上回るか
という心配はあるのだが。

公共の範囲の練習問題

2005-08-21 | Weblog
公共の範囲を考えるのに、
良い練習問題を思いついた。

「公共空間にゴミ箱を設置するか」

最近、
駅や役所、公園などに、
ゴミ箱が設置されなくなってきたが、
ゴミを持ち帰ると言う個人の自治にまかせるか、
行政がゴミ箱を設置するか。

これの問題を考えるとき、
個々人のモラルの高さや、
他者への信頼も考慮しなくてはいけない。

それらの検討事項は、
他の公共の範囲の問題を考えるときにも、
応用されるものになるだろう。

公務員としての適性

2005-08-16 | Weblog
「私は公務員としてどうなのか」という問題に対して、
これまで説明しようの無い嫌悪感を持っていたが、
今日、その嫌悪感の理由の一つが分かった気がする。

私は「私は人間としてどうなのか」という問題を常に抱えているので、
その先にある「公務員として」を考えるのが嫌なのだ。
それは(1)を飛ばして数学の証明問題を解くようなものだ。

端的に言えば、
公務員としてだめな前に、
人間としてだめなのではないか
ということである。

「人間として」の方は今後も考えていくことになろう。
それが済まない限りは、
「公務員として」の方は考えないだろう。

ところで、
公務員としての適性について人と話していた際、
「駄目なら公務員辞めて欲しい」と言われたが、
人間として駄目だった場合はどうすればいいのだろう?

『2050年のわたしから』

2005-08-02 | Weblog
金子勝『2050年のわたしから』を読んだ。

「日本は破綻するのではないか」という
ぼんやりとした不安感は持っていたが、
より具体的にどうなるのかイメージできてなかった。

この本は、
その像をはっきりと示している。

デストピアとユートピアを両方示している。