世襲監督などと揶揄される、巨匠の息子の監督作品。この映画、意外と好きだったりする。
原作は実家にあったが読んだ事ない。原作に関する記憶といえば、金子修介のガメラ2で本棚にしまってある資料を持ってきてもらおうとした水野美紀が「ゲド戦記の後ろに」みたいなこと言ってたのを思い出すくらいだ。
-----【表現力に乏しいと苦言から】-------
監督としての実力未知数の場合、原作ものというのは無難でよい選択だと思う。映画はストーリーだけで観るものではないと思うが、ストーリーは面白いに越したことはない。
で、やはり監督としての表現力について優れているとは思えない本作。
迫力不足のオープニングの嵐のシーン。タイトル前のプロローグとその後のタイトルの出し方にも趣もへったくれもない。
人が喋ってる時はその人の顔を映さなきゃいけない、映しときゃいいやと思ってそうなカット割とか構図とかカメラワーク(アニメの場合、なんて言えばいいの)。
父上ならもう少しいい映像にしたんでないかと思う。
-----【偉大なるお父上の作風のおさらい】-------
だが、この映画が偉大なる父上様の作品とは全く別なところを狙っているのだから、「もし父上が・・・」なんて仮定は意味なし。
父上は活劇作家であった。少女大好きのロリロリしたご趣味をお持ちの方ではあるが、娯楽活劇作家として類稀なテクニックをお持ちであられるため、ヒットメイカーにしてベルリンやオスカーも手にする巨匠におなりあそばしたのである。
父上の映画はいつもそれなりにメッセージ性を伴っているが、決して説教くさくはない。それも娯楽作家の技がメッセージより前面に出るからだ。
父上の映画のシナリオはハリウッドのセオリー通り、20分に一度程度のプロットポイントを準備し、特に序盤で主人公の目的を明確にすることで物語に観客を引き込む(トトロはそうでもなかったかも)。
映像面ではうごめく人人人というモブシーンみたいのを使い、観客たちはエネルギーの奔流に飲み込まれていく。空を飛ぶシーンをはじめスピード感溢れるシーンでも人々を魅了する。
ようするに活劇なのだ。
-----【父上と全く異なる作風】-------
で、その息子はど゛うしたかと言えば、最初のプロットポイントで父上との違いを明確にする。
アレンがハイタカと出会うシーン。ここが物語の方向性を決定付ける大事な場面であることは間違いない。しかしハイタカはここで自分の旅について「目的などない」と明言する。
目的を提示しないことで、父上の目指した娯楽活劇は狙わないことを宣言しているように思えた。
物語は方向性をはっきりさせないまま、展開する。
市場のシーンなどモブシーンもあるにはあるが、それほど力を入れない。奴隷救出のシーンなど用意して「活劇」っぽい展開にしながらも、アクション描写で盛り上げたりせず、ゆっくりおっとりと話を進める。
その後はしばらくエピソードらしいエピソードもない。
「畑仕事してたら豆がつぶれました」
とか
「テルーを呼びに行ったら、彼女が澄んだ声で歌ってて、それ聞いてたらなんか泣けてきました」
とか、その程度のどうでもよさげなエピソードが続く。(テルーの唄は素直にいい歌だったねと、普通に感動)
少ない登場人物ののどかな日常。動きのない風景画のような映像。
退屈であるはずのこの中盤に私などは心が癒される。何もすることがない日曜に低温のサウナにごろんとしているような弛緩。
音楽もやたらに扇情的な父上の専属作曲家を使わず、寺嶋民哉を起用。全編にわたり牧歌的なオーケストラにエスニックな楽器をフィーチャーしてこれも心に染みる。
そうやって癒されモードに入った自分にはハイタカやテルーの説教くさいメッセージも実に素直に聞くことができた。
そうかぁ・・・不死を求めるということは生を拒絶するってことなんだぁ・・・とバカみたいに素直にメッセージを受け入れる自分。
息もつかせぬ娯楽活劇エネルギーに巻き込んでそちらに気をとられている隙にメッセージをこっそり刷り込んでくるある意味陰湿な父上と違い、癒しモードで素直な思考力ゼロ人間にしたところで正々堂々とメッセージを叩き込む息子。
方法論が全然違うから面白い。
終盤は悪い魔女との対決。魔女の家来が少ないとか、なにげに弱くて実は足手まといなハイタカ、とかけっこう突っ込みポイントはある。
壮絶アクションなクライマックスで大団円へと畳み掛ける・・・わけではなく、ここもダラダラと中盤までの雰囲気のまま展開。作風がぶれない。
真の名前とか微妙に意味わかんないけど、深読みなんかやめる。中盤同様、ただ流れに身をまかせると、ラストの竜の飛翔で素直に天を駆ける気分になってしまう。
-----【親子二代で黒澤をトレース?】-------
ふと思った。
父上は娯楽活劇の人であり、それはモノクロ時代の黒澤の系列なのだ。「もののけ姫」で「隠し砦の三悪人」のまるパクシーンがあったのを思い出す。
それに対して息子の映画はまるでカラー時代の黒澤だ。物語より美しい絵画のような映像をじっくりと描く。「夢」に似たカットがあったりもするし。
父上が次第にこういう作品にスイッチしていくのと違い、その息子が父上のさらに30年後くらい(そのころにはお亡くなりになってるだろうが)の姿を現出させているのでは・・・と思ったりもする。
-----【液体人間の映画史】-------
ところで、クモさんであるが、見ていて思い出したのは、父上の過去作品のキャラというより、T-1000型ターミネーターである。最後にぼわーっと焼かれたりしてるのを見て液体人間は熱に弱いという映画の鉄則(「美女と液体人間」~「T2」~「ゲド戦記」)に映画史的浪漫を感じたりするのは感じすぎである。
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原作は実家にあったが読んだ事ない。原作に関する記憶といえば、金子修介のガメラ2で本棚にしまってある資料を持ってきてもらおうとした水野美紀が「ゲド戦記の後ろに」みたいなこと言ってたのを思い出すくらいだ。
-----【表現力に乏しいと苦言から】-------
監督としての実力未知数の場合、原作ものというのは無難でよい選択だと思う。映画はストーリーだけで観るものではないと思うが、ストーリーは面白いに越したことはない。
で、やはり監督としての表現力について優れているとは思えない本作。
迫力不足のオープニングの嵐のシーン。タイトル前のプロローグとその後のタイトルの出し方にも趣もへったくれもない。
人が喋ってる時はその人の顔を映さなきゃいけない、映しときゃいいやと思ってそうなカット割とか構図とかカメラワーク(アニメの場合、なんて言えばいいの)。
父上ならもう少しいい映像にしたんでないかと思う。
-----【偉大なるお父上の作風のおさらい】-------
だが、この映画が偉大なる父上様の作品とは全く別なところを狙っているのだから、「もし父上が・・・」なんて仮定は意味なし。
父上は活劇作家であった。少女大好きのロリロリしたご趣味をお持ちの方ではあるが、娯楽活劇作家として類稀なテクニックをお持ちであられるため、ヒットメイカーにしてベルリンやオスカーも手にする巨匠におなりあそばしたのである。
父上の映画はいつもそれなりにメッセージ性を伴っているが、決して説教くさくはない。それも娯楽作家の技がメッセージより前面に出るからだ。
父上の映画のシナリオはハリウッドのセオリー通り、20分に一度程度のプロットポイントを準備し、特に序盤で主人公の目的を明確にすることで物語に観客を引き込む(トトロはそうでもなかったかも)。
映像面ではうごめく人人人というモブシーンみたいのを使い、観客たちはエネルギーの奔流に飲み込まれていく。空を飛ぶシーンをはじめスピード感溢れるシーンでも人々を魅了する。
ようするに活劇なのだ。
-----【父上と全く異なる作風】-------
で、その息子はど゛うしたかと言えば、最初のプロットポイントで父上との違いを明確にする。
アレンがハイタカと出会うシーン。ここが物語の方向性を決定付ける大事な場面であることは間違いない。しかしハイタカはここで自分の旅について「目的などない」と明言する。
目的を提示しないことで、父上の目指した娯楽活劇は狙わないことを宣言しているように思えた。
物語は方向性をはっきりさせないまま、展開する。
市場のシーンなどモブシーンもあるにはあるが、それほど力を入れない。奴隷救出のシーンなど用意して「活劇」っぽい展開にしながらも、アクション描写で盛り上げたりせず、ゆっくりおっとりと話を進める。
その後はしばらくエピソードらしいエピソードもない。
「畑仕事してたら豆がつぶれました」
とか
「テルーを呼びに行ったら、彼女が澄んだ声で歌ってて、それ聞いてたらなんか泣けてきました」
とか、その程度のどうでもよさげなエピソードが続く。(テルーの唄は素直にいい歌だったねと、普通に感動)
少ない登場人物ののどかな日常。動きのない風景画のような映像。
退屈であるはずのこの中盤に私などは心が癒される。何もすることがない日曜に低温のサウナにごろんとしているような弛緩。
音楽もやたらに扇情的な父上の専属作曲家を使わず、寺嶋民哉を起用。全編にわたり牧歌的なオーケストラにエスニックな楽器をフィーチャーしてこれも心に染みる。
そうやって癒されモードに入った自分にはハイタカやテルーの説教くさいメッセージも実に素直に聞くことができた。
そうかぁ・・・不死を求めるということは生を拒絶するってことなんだぁ・・・とバカみたいに素直にメッセージを受け入れる自分。
息もつかせぬ娯楽活劇エネルギーに巻き込んでそちらに気をとられている隙にメッセージをこっそり刷り込んでくるある意味陰湿な父上と違い、癒しモードで素直な思考力ゼロ人間にしたところで正々堂々とメッセージを叩き込む息子。
方法論が全然違うから面白い。
終盤は悪い魔女との対決。魔女の家来が少ないとか、なにげに弱くて実は足手まといなハイタカ、とかけっこう突っ込みポイントはある。
壮絶アクションなクライマックスで大団円へと畳み掛ける・・・わけではなく、ここもダラダラと中盤までの雰囲気のまま展開。作風がぶれない。
真の名前とか微妙に意味わかんないけど、深読みなんかやめる。中盤同様、ただ流れに身をまかせると、ラストの竜の飛翔で素直に天を駆ける気分になってしまう。
-----【親子二代で黒澤をトレース?】-------
ふと思った。
父上は娯楽活劇の人であり、それはモノクロ時代の黒澤の系列なのだ。「もののけ姫」で「隠し砦の三悪人」のまるパクシーンがあったのを思い出す。
それに対して息子の映画はまるでカラー時代の黒澤だ。物語より美しい絵画のような映像をじっくりと描く。「夢」に似たカットがあったりもするし。
父上が次第にこういう作品にスイッチしていくのと違い、その息子が父上のさらに30年後くらい(そのころにはお亡くなりになってるだろうが)の姿を現出させているのでは・・・と思ったりもする。
-----【液体人間の映画史】-------
ところで、クモさんであるが、見ていて思い出したのは、父上の過去作品のキャラというより、T-1000型ターミネーターである。最後にぼわーっと焼かれたりしてるのを見て液体人間は熱に弱いという映画の鉄則(「美女と液体人間」~「T2」~「ゲド戦記」)に映画史的浪漫を感じたりするのは感じすぎである。
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ふと、『花よりもなほ』でアレン・・じゃなかった岡田くんを叱責するチャンバラトリオ南方英二さんの役を思い出してしまいました。
法事に行くと、いるいる、あんな親戚のおじさん(笑)。
てなわけで、TBりあがとうございました。
親父と違う=ダメとは思いませんが、まあ、親父の方がやっぱりうまいっちゃうまいですよね
だからって完全にまねしなくて良かったです