「お前はお前だ。お前自身以外の何者でもない。」
「お前がお前でしかないことに絶対負けるな」
・・・というあまりといえばあまりに直接的なこのメッセージ。
青春映画の王道といえる、当たり前すぎるメッセージを声だかに大演説。
必要だったのか?
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塩田明彦は大好きな監督だ・・・と言っても今まで観たのは「月光の囁き」と「害虫」だけだが。
「ギプス」「どこまでもいこう」も観てない。観たい。
「黄泉がえり」は観る必要なしと判断(根拠 = 日本アカデミーで監督賞候補になってるから)。
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大人ほど明確に己を掴んでいない子供たち(と、大人が思ってるだけかも知れないが)は、行動にも言動にも矛盾がいっぱい。自分達なりの倫理観、道徳観、判断基準、ルールに則って行動しているのだが、すぐに矛盾にぶち当たる。そんな危うく脆く不安定な立場にある。
ユキは直感と感情を己のルールとして自分なりに咀嚼しているが、光一の場合は、家族への愛とカルト教団の教義とが同じくらいの比率で占めており、自己矛盾という闇の中に沈みそうになってもがいている。
ユキと光一。12才の男と女。お互いがお互いを刺激しあい、受け入れようとしつつ、自分への必要以上の干渉を拒み、そしてまた大人社会に否応なくさらされることも刺激となって次第に変化していく。
二人旅をしつつも孤独であった二人は、旅の果てにお互いかけがえのない存在となる。
「月光の囁き」「害虫」で孤独と闇から抜け出せ切れずにいた少年少女は、本作で明確に一歩踏み越えた。
文頭に戻ると、あの台詞は、やはり必要だった
この映画はオウム真理教による無差別テロを扱った映画ではない。あの事件を加害者なり元信者の視線で描こうとした野心的な社会派映画ではない。
青春映画なのだ。そこをはっきりさせたかったのだろうか。
メジャー映画で一応の成功を果たした塩田明彦は「アホな観客への配慮」を学んだのだろうか?
いや、独自のスタイルと娯楽性が絶妙にブレンドされつつあると見ていいだろう。彼自身、カナリアの主人公二人の様に不安定でそして変化を受け入れようとしているようだ。(むしろ文頭の台詞を語った元信者の男 = 価値観の破壊された大人。子供と違って柔軟性に欠け修復が難しく、そういう意味では光一以上に辛い)
ただし、その変化の結果として、ラストの光一の「髪の毛」が作られたのなら、いい変化ばかりではないかも(さすがにちょっと引いてしまったよ。あの銀髪。)
物語のゴール(最終目的) = 妹の奪還 というものを明確にし、ゴールをより強く意識させるためにロードムービーのスタイルを持たせて分かりやすく作った青春映画。
ふわふわとしてどこに飛んでいくか分からない10代の姿を追いかけることはそれだけでスリリングだ。
やはり塩田明彦はローティーンの映画を撮ると抜群にうまい。子供を大人と違う人間、大人と違う世界に住む人間として描きつつ、大人社会に放り込んで迷子にさせる。それこそが彼の神髄だ。「黄泉がえり」の原作者ともう一回組む必要なんてない(金儲けのためだとは思うが・・・ほんとやめてくれんかなぁ)
光一を演じた石田法嗣。ユキの谷村美月。光り輝いていた。いい役者になるだろう。
(なんかとりとめの無い文章で恥ずかしいな・・・っと)
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
「お前がお前でしかないことに絶対負けるな」
・・・というあまりといえばあまりに直接的なこのメッセージ。
青春映画の王道といえる、当たり前すぎるメッセージを声だかに大演説。
必要だったのか?
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塩田明彦は大好きな監督だ・・・と言っても今まで観たのは「月光の囁き」と「害虫」だけだが。
「ギプス」「どこまでもいこう」も観てない。観たい。
「黄泉がえり」は観る必要なしと判断(根拠 = 日本アカデミーで監督賞候補になってるから)。
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大人ほど明確に己を掴んでいない子供たち(と、大人が思ってるだけかも知れないが)は、行動にも言動にも矛盾がいっぱい。自分達なりの倫理観、道徳観、判断基準、ルールに則って行動しているのだが、すぐに矛盾にぶち当たる。そんな危うく脆く不安定な立場にある。
ユキは直感と感情を己のルールとして自分なりに咀嚼しているが、光一の場合は、家族への愛とカルト教団の教義とが同じくらいの比率で占めており、自己矛盾という闇の中に沈みそうになってもがいている。
ユキと光一。12才の男と女。お互いがお互いを刺激しあい、受け入れようとしつつ、自分への必要以上の干渉を拒み、そしてまた大人社会に否応なくさらされることも刺激となって次第に変化していく。
二人旅をしつつも孤独であった二人は、旅の果てにお互いかけがえのない存在となる。
「月光の囁き」「害虫」で孤独と闇から抜け出せ切れずにいた少年少女は、本作で明確に一歩踏み越えた。
文頭に戻ると、あの台詞は、やはり必要だった
この映画はオウム真理教による無差別テロを扱った映画ではない。あの事件を加害者なり元信者の視線で描こうとした野心的な社会派映画ではない。
青春映画なのだ。そこをはっきりさせたかったのだろうか。
メジャー映画で一応の成功を果たした塩田明彦は「アホな観客への配慮」を学んだのだろうか?
いや、独自のスタイルと娯楽性が絶妙にブレンドされつつあると見ていいだろう。彼自身、カナリアの主人公二人の様に不安定でそして変化を受け入れようとしているようだ。(むしろ文頭の台詞を語った元信者の男 = 価値観の破壊された大人。子供と違って柔軟性に欠け修復が難しく、そういう意味では光一以上に辛い)
ただし、その変化の結果として、ラストの光一の「髪の毛」が作られたのなら、いい変化ばかりではないかも(さすがにちょっと引いてしまったよ。あの銀髪。)
物語のゴール(最終目的) = 妹の奪還 というものを明確にし、ゴールをより強く意識させるためにロードムービーのスタイルを持たせて分かりやすく作った青春映画。
ふわふわとしてどこに飛んでいくか分からない10代の姿を追いかけることはそれだけでスリリングだ。
やはり塩田明彦はローティーンの映画を撮ると抜群にうまい。子供を大人と違う人間、大人と違う世界に住む人間として描きつつ、大人社会に放り込んで迷子にさせる。それこそが彼の神髄だ。「黄泉がえり」の原作者ともう一回組む必要なんてない(金儲けのためだとは思うが・・・ほんとやめてくれんかなぁ)
光一を演じた石田法嗣。ユキの谷村美月。光り輝いていた。いい役者になるだろう。
(なんかとりとめの無い文章で恥ずかしいな・・・っと)
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記事、興味深く拝読しました。
黒沢清監督の映画(『アカルイミライ』の藤竜也、『回路』の役所広司)もそうですが、
最近は映画のテーマをはっきりと台詞で説明してしまう映画が多いですよね。
私が学生の頃にそんな台詞を書いたら、講師に小一時間説教をくらったものですが……。
そのよしあしについては、判断保留といったところです。
今後ともよろしくお願いします。
塩田明彦はあきらかにそんな巨匠の後継者なんかではないけど、資質としては古典的手法を好むというか、自然とそうしてしまう人なのかもしれないです。
だから「黄泉がえり」みたいな企画も、きっちり作れる(観てないけど)のかも
黒澤清の場合は、テーマを台詞で語らせはしても、実はテーマを語るのが目的ではなくて、俳優の激情というかエモーショナルな部分を引き出すために語らせているような気がします。清の映画もそんなに観てないけど
ただ、オウムをモチーフにした映画では是枝監督の「DISTANCE」の方が良かったと思います。
説明はできませんが。
ただ、自分も光一の母親みたいになってしまう可能性はあるのだ、と考えさせられました。
劇場で流れる「海賊版撃滅キャンペーン」の映像に出演しているのは、彼女ではないか、と思っています。
>ゴールをより強く意識させるためにロードムービーのスタイルを持たせて分かりやすく作った青春映画。
なるほど~。
そう考えればいいんですか。
凄く明確になりました!
まあ、ロードムービーって全部そういうもんかもしれないですけどね
本当に、「黄泉がえり」が嫌いなんだね(笑)
当然、「この胸にいっぱいの愛を」なんて、ケっ!!でしょうねぇ。
僕はもう少し、博愛精神ありますんで(笑)
「この胸にいっぱいの愛を」の映評は既に書いてますが、実はそこそこ評価はしてるんですよ。ただ映像的に物語的に決定的にしょぼいと思うんですが。
メジャーで娯楽作撮ると途端に凡庸になる監督なんですね。「害虫」や「カナリア」撮ってる時はガラスの靴はいて舞踏会に出てるシンデレラなんです。