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映像作品とクラシック音楽 第84回 『戦艦ポチョムキン』ショスタコーヴィチ版

2023-03-09 23:27:00 | 映像作品とクラシック音楽
#映像作品とクラシック音楽
#ショスタコーヴィチ
#エイゼンシュタイン

皆様こんにちは
今回取り上げるのは『戦艦ポチョムキン』です。

あまり大きな声で言いたくないのですがコロナにかかっちゃいまして、1日寝てるだけなのも辛いもので暇つぶしに見たのが、DVDコレクション棚から10年以上ぶりに取り出した『戦艦ポチョムキン』でした。

『戦艦ポチョムキン』 は1925年のセルゲイ・エイゼンシュテイン監督のソ連映画です。社会主義プロパガンダ映画には違いないのですが、そうした思想性を凌駕する美しさと面白さがみなぎる映画史に残る傑作です。

エイゼンシュテインは「モンタージュ理論」を実践するように本作を作りました。モンタージュとは語弊を恐れず大雑把に言えば「フィルム編集」のことです。映画にチョー詳しい奴からは違うだろって秒でツッこまれるところですがそんなキモいオタク野郎ほっとくことにします。それまでアメリカのD.W.グリフィス監督などがなんとなく上手く使っていた技法を、エイゼンシュテインやソ連の映画作家が体系的にまとめたのです。
カットごとに見ればなんの思想性も持たない画であってもカットのつなぎ方次第で思想性を持たせることができる。うまい演技なんかなくてもモンタージュで感情を揺さぶることができる、とそんなことを言っているわけです。
その考えに100%賛同し世界一のモンタージュ使いになったのがヒッチコックだと思います。彼は俳優が芝居することを嫌っていました。
黒澤明はモンタージュ理論のことを「とんでもない欠陥理論」と批判してました。人を人と思ってない理論だよ、社会主義ってそういうところあるでしょ…みたいに言ってました(たしか宮崎駿との対談で言ってたような記憶があります)。ただし黒澤がどんなにモンタージュ理論を批判しても、彼のモンタージュもまた世界最高峰のうまさでありました。

エイゼンシュテインがそんな理論を語ったのも革命直後のソ連にロクな役者がいなかったから、とも言われますし、たしかにポチョムキンを見ると誰1人ちゃんとした芝居はしていないように見えます(ただ1人胡散臭い聖職者に扮したエイゼンシュテイン本人を除いて)

戦艦ポチョムキンは怒涛のクライマックス、オデッサ(オデーサ)の階段のシーンが有名です。現代の映画から見ればずいぶんおとなしいカット割ですがそれでも次々と差し込まれるカットが怒涛の迫力を産んでいます。そして何より、一枚一枚の画が強烈なんですね。兵に虐殺されるオデーサ市民の顔顔顔が印象派の絵画のように強烈に心に刺さってきます。

さてこの映画の音楽の話です。
1925年ということでその頃の映画はサイレントでした。映画館で生演奏しながらの上映だったのです。
戦艦ポチョムキンという映画は内容が内容だけにソ連と敵対する国、まして厳しい検閲のあった戦時中の軍国主義国家(うちがそうですけど)では完全な形で上映されることは少なかったそうです。それどころかソ連国内においてさえ政治的な問題でカットされたりと、時を経てズタボロになっていきました。

私の持ってるDVDに特別収録されていた淀川長治さんの解説では、淀川さんの語るオデーサの階段シーンのストーリーが本編と明らかに異なっていました。淀川さんは「軍艦が大砲を撃って市民が大混乱になって逃げ惑う」と言っていましたが、実際には市民を虐殺する帝国の軍隊から逃げ惑う市民を守るために軍艦が砲撃するのです。
これは淀川さんの記憶違いなのかもしれないし、あるいは淀川さんが見たバージョンではそのように編集されていたのかもしれません。だとしたら、それこそモンタージュ理論のなせる技です。
ちなみに淀川さんは生涯で最も好きな映画はチャップリンの黄金狂時代だけど、2番目はポチョムキンだと仰ってました。

話を戻しまして、それで何とか散らばった様々なカットを見つけて公開当時のエイゼンシュテインのディレクターズカットに近い形に復元したバージョンが1970年代に作られました。
この時オリジナルには本来なかった劇伴音楽が付加されたのですが、そこにはショスタコーヴィチの交響曲の数々があてられました。そこに付けられたショスタコーヴィチの交響曲はムラヴィンスキー指揮のものとされていますが真偽のほどはわかりません。(4番はコンドラシンじゃないかな)

ショスタコーヴィチはエイゼンシュテインの『十月』(の復刻版)のためにオリジナル音楽をつけた事もありますが、『戦艦ポチョムキン』のために音楽をつけたわけではないし、エイゼンシュテインもショスタコーヴィチの音楽を想定していたわけではありません。2人とも望んでいたわけではないバージョンとして完成してしまったわけです。

もともとは初公開当時のドイツでエドムンド・マイゼルという作曲家が伴奏音楽として作曲したものをエイゼンシュテインが高く評価していたことがわかり、後に音楽マイゼル版が作られたとのことです。

…といったようなことを、以前に何かの理由で戦艦ポチョムキンについて調べていた時に知りました。
だいぶ前に入手した私のDVDコレクションのポチョムキンは誰版だろう?と思って久しぶりにポチョムキンをかけてみたら、映画が始まるやいなやショスタコーヴィチの5番の第一楽章の冒頭部分がかかるじゃないですか!
昔見た時はショスタコーヴィチのことほとんど興味なかったのですが、今ショスタコーヴィチ大好き人間になってから観ると、それはそれはあちこち新しい面白さがあるわけです。

さて、このショスタコーヴィチ版でどの曲がどう使われるのか、以下ざっと書いてみます

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【第1章 人々とウジ虫】
タイトルが終わり、黒海沿岸に激しく打ち付ける波の映像に重ねて第5番の第一楽章の冒頭部が流れます。
その後、軍艦内で若い水平がマヌケな上官に叩かれて悔しがるあたりまで第一楽章が、まるでこの映画のために作られた劇伴音楽のように続きます

朝になり、食事用の肉にウジがたかってると水平たちが文句を言うが上官が問題ないと一蹴するあたりでは交響曲11番の第二楽章が使われます。11番の副題は「1905年」で、ポチョムキン号の事件が起こったのも1905年なので、ここはどうしても使いたかったのでしょう

腐った肉で作ったスープを兵たちが拒否するあたりは第10番の3楽章が使われます

【第2章 甲板上のドラマ】
ポチョムキン艦長が甲板にあがり、スープに満足したものは前に出よと言うが下級の兵のほとんどが前に出ない。出ないものはマストに吊るすぞと艦長が叫ぶ
水兵たちは反発し皆で砲塔部に集まる…という緊迫した場面で、第10番の第一楽章のクライマックス部が、これまたこの映画のための曲のようにピタリとハマってます
そして反抗した兵たちの銃殺を止めようと水平たちが反乱を起こすあたりでは10番の4楽章が使われます
ちなみにこの辺のくだりで得体の知れない怪しさ爆発なエセ聖職者みたいのを演じてるのがエイゼンシュテイン本人です。

反乱した兵たちが士官たちを次々と海に放り投げ反乱は成功するものの、反乱の第一声をあげたワクリンチュクが将校に撃たれるところまでを、これまたこの映画のために書かれた劇伴音楽のように交響曲第4番の第3楽章が盛り上げます

そして撃たれて命を落としたワクリンチュクを兵たちがタグボートに乗せ追悼する場面で第11番の第1楽章が厳かに奏でられます

【第3章 死者の呼びかけ】
そして舞台はオデッサ(オデーサ)へ
「ひとさじのスープのために」とというメッセージとともに港のテントに安置されるワクリンチュクの遺体
オデーサ市民が続々と弔問に集まってくる
そこにショスタコーヴィチにしては妙にメロディの立った葬送行進曲みたいな曲。こんなのあったっけ?と思ったら11番の3楽章でした。(実は11番そんなに聞いてなかったんです)
途中から曲は11番の第4楽章に移行し、専制政治倒すべし!といきり立つオデーサ市民がポチョムキン号と合流。

【第4章 オデッサの階段】
市民が小舟の帆船を繰り出してポチョムキン号の周りに集まり、ポチョムキン号に続々と食糧などの物資が届けられるところで第5番第2楽章。これでウジまみれのスープ飲まずに済むね
沿岸の巨大な階段にあつまり、沖に停泊するポチョムキン号にやんややんや喝采を送るオデーサ市民を第2楽章が賑やかに楽しげに彩ります。
「すると突然」という字幕とともに、音楽は突然11番第2楽章の後半部のスネアドラムの連打が始まります。ロシア帝国軍が民衆を虐殺した血の日曜日事件を描出したと言われるこの曲がかかるのですから、それはもちろん相当大変なことが起こるのです。

ロシア帝国軍の軍隊があろうことか自国民の市民に向けて銃撃を始めました。階段の上から下に向かって整然と並んだ軍隊が市民に発砲します。逃げ惑う人々。子供が撃たれて倒れ逃げ惑う人々に踏まれます。その子の母親と思しき女性が子を抱えて軍隊の前に立ち、「お願いです、撃つのをやめてください」と言うのですが、目の前の母と傷ついた子供を前にしても軍隊は躊躇せず発砲します…ってあたりまで11番2楽章

階段の下にはコサック騎兵が待ち構えて人々を蹴散らします。
有名な乳母車階段落ちのシーンでは曲は5番の3楽章アダージョの後半部に変わっています
ポチョムキン号は市民を守るため政府軍の基地になっている劇場を砲撃します。

【第5章 艦隊との遭遇】
ポチョムキン号内では乗組員たちが大激論。
一刻も早く市民と合流すべきか?いや反乱した俺たちを海軍が放っとくはずがない、追撃艦隊を迎撃すべきだ!
リーダーがいないからまとまらない…と思いきやそこは「社会主義」なのか、みんなの話し合いでなんか知らんけどまとまりまして政府艦隊に警戒して出航することになります。そして不安な夜がすぎ
…ってあたりまでにかかる曲ですが、ショスタコーヴィチに違いないのですが、何番なのかわかりません。
ネットで探すと、あるブログで、ここは4番の3楽章だと書かれてましたが…絶対に違います。その人は第2章の明らかに4番3楽章のところも4番1楽章だと書いてるし多分4番あんま聞いたことない人なんだろうと思います。(所詮は後付け音楽なのでその人の見たのと私の持ってるのとでは曲が違うのかも知れませんが)
ともかくこの第5章のこのあたりの曲、少なくともショスタコーヴィチの2番、4〜12番ではありません。
私の聞いたことない1、3、13〜15か、あるいは交響曲以外から持ってきたのか、気になるところです。
ただ5章のわりと前半のあたりはちょっと10番の1楽章っぽくはあるのですが…でもちょっとちがうんですよね…

さて、ポチョムキン号は前方に艦影を複数発見。エンジン出力を上げ急加速します。エンジンのピストンが激しく動くのに合わせて、8番の3楽章が素晴らしく映像にマッチして響いてきます。
艦隊に近づきます。敵か?!味方か?!この緊迫感を8番3楽章がいやが応にも盛り上げます。

ついに前方の艦隊が射程距離に入りました。どちらかが砲撃を始めてもおかしくない、という状況で音楽は5番の4楽章のだいぶ終わりの方に変わります。
曲を知ってるとこの後の音楽的展開から物語展開もネタバレなんですが、予想通り!前方の艦影のマストにはためいていたのはポチョムキン号への連帯を示す赤旗でした!
「兄弟だ!」の叫びとともに、わかっちゃいたけど5番4楽章の終曲部に移行すると、それはもう見事なまでに人民と労働者と兵士たちの勝利を祝福したくなってしまうわけです。
曲の締めくくりのとこの、ドンッ!ドンッ!ドンッ!ドンッ!とゆっくりじっくりたたかれるティンパニが映画のラストっぽくていいですね。
バーンスタインみたいにドンドコドンドコとノリノリで叩かれると少なくとも映画のラストにゃ合わんですよ。

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てな感じのショスタコーヴィチ版ポチョムキンでした。
淀川長治さんは、「エイゼンシュテインは革命の映画撮る人でしょなんて思うかも知れませんが、とんでもない!エイゼンシュテインこそ映画の本当の魂を持った人でしたね」などと仰っておりました。私もそう思います。
ポチョムキンは社会主義プロパガンダ映画ではあるけれども、そのリズム、映像、緊迫感、意外とユーモアなどなど、やっぱり語り継がれるべき傑作なのです。
そうはいっても共産主義の映画なんてなあ…って思うかも知れませんが、ショスタコーヴィチ版に関して言えば、これはもうショスタコーヴィチ交響曲PVのように楽しむこともできます。

第2章の10番1楽章、第3章、第4章の11番、第5章の8番3楽章とかこれでもかってくらいに最高すぎます。
そして、ポチョムキンを再見することで、それまで私の中で評価の低かった11番の再評価につながりました。
今11番のCDを聴くと、もうポチョムキンのサントラにしか思えないくらいで、勝手にオデーサの階段シーンが脳内再生されてしまいます。
無慈悲に鳴るスネアやパーカッションが殺戮の描写を思い浮かべさせます。

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最後になりますが、ポチョムキン号の事件から約120年がたった今、オデーサの街はやはりロシア軍の攻撃を受けて市民が殺されています。
本当にプーチンよいい加減にしなさい、お前がやってることは『戦艦ポチョムキン』で我が子を抱き上げて銃撃をやめてと言う母親に向けて発砲を命じる映画の中の政府軍と同じだぞ

再びオデーサの地と黒海が平和になることを願って、今回はこの辺で

それでは、また素晴らしい音楽と映画でお会いしましょう!

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