音の四季~風の彩

作曲家、しの笛・龍笛奏者、ジャズピアニスト、城山如水の徒然日記。
オカリナ、フルートの事も・・・・

憲法改正 靖国参拝 と 国際世論

2013年06月17日 | 裏読み 政治・経済

日本が本当に国際的に「強い国」になるためには、国際世論を味方につけることが何よりも必要なことであるのは、誰の目にも明らかだ。

これと全く逆に、国際世論を敵に回し続けているのが「靖国参拝」であることを日本の国会議員は気付いていない。

安部政権における、天皇元首とする憲法改正、靖国参拝、歴史認識が国際世論、とくに東アジアで全く相手にされないのには明確な理由がある。

総理は「国家神道」における「政教一致」とそれの反省から生まれた「政教分離」について十分な「認識」を持っているのだろうか。
このことは靖国参拝を繰り返す国会議員達にもいえる。

天皇を現人神とした「神社神道」が「軍国主義ファシズム」と結びついたものが「国家神道」であり、まさに「政教一致」であった。

これは「神道」の「国教化」であり、その結果「思想・信条・表現の自由、結社の自由、信教の自由」が奪われ弾圧された。

お国の為に死んで「軍神」となり「靖国神社」で再会しようと杯を酌み交わして、若者達は悲惨な戦場に送り出され、餓死、玉砕、特攻で悲惨な死に追いやられたのであった。

「国の為に死ぬ」とは日本人の武士道の心情に訴えやすいものではあるが、実は「軍国主義ファシズム」が「神道」という 日本人に根強い「宗教的死生観」を「利用」したものであると見ることができる。

そのために「国家神道」が戦争遂行の為の精神的支柱として利用されたのだった。

「利用された」という言い方は誤解を招く恐れがあるが、これは「神道の国教化」という事実を見ると、まさに軍国主義ファシズムが「天皇現人神とする神道」を「利用」したとしかいえないだろう。

そもそも世界における「自由の獲得」は「信教の自由」の獲得のための戦いに求められる。

しかし悲しいかな、島国・日本おいては幸か不幸か「自由を勝ち取った」という歴史を持たない。

敗戦により「与えられた」ものであった。

その為に国会議員達でさえ「自由民主主義」の「自由」の意味を理解していない。

おそらく安部総理世代の国会議員達に「信教の自由」「政教一致、政教分離」の理念は理解不能だと思われる。

なぜなら国際世論を敵に回す「靖国参拝」を何の考えも無く続けているからだ。

日本を悲惨な戦争に突入させた「国家神道、軍国主義ファシズム」のシンボルが「靖国神社」であるのだが。
それさえ「認識」していない総理はじめ国会議員達の不勉強ぶりは呆れるばかりだ。

安部総理がいくらアベノミクスを叫んでも、国際世論は極右政権を相手にしていない。

外国投機筋の執拗な売り浴びせは、天皇元首・憲法改正、靖国参拝、歴史認識で極右化する日本政府に対する国際的警告である、というのがチーフ・エコノミスト達の一致した見方だ。

つまり極右化が続く限り、外国投機筋はアベノミクスに見切りを付けるものと思われる。

極右政権が続く限り、株価乱高下と円高は続くとチーフエコノミスト達は分析している。

したがって安部総理が叫ぶ「強い日本を取り戻す」には国際世論を味方につけなくては、到底不可能だ。

これは皮肉なことに、天皇元首・憲法改正、靖国参拝、歴史認識の歪曲を打ち出す安部政権の退場なくしては達成できないことを意味している。

「自由民主主義」の根幹である「思想・信条・表現の自由」その根源である「信教の自由」の「認識」が無い政治家達には、「強い日本」を作ることは不可能であろうと思われる。

「国家神道」の政教一致の誤りを繰り返さない為に「国家権力」に対して縛りをかけているのが、現在の憲法の「政教分離の原則」なのだ。

こういった「精神の自由の根幹」について無認識な国会議員達が、憲法改正を論議することは全くのナンセンスといえる。

まして「議会制民主主義」の根幹である「立法・司法・行政」の「三権分立」を無視し続ける国家権力が「憲法改正要件」を三分の二 から 二分の一にしようとするなどは、全く幼児的思考のように思えてしようがない。

駄々っ子が、極右化に憲法を改正したいから、改正しやすいようにさせろと言っているようなものだ。

全くの逆だ。憲法は「国民が国家権力から自由・人権を侵されない為に、国家権力に縛りを掛ける」ものなのだから。

ともかく日本の国会議員達の国際的感覚の欠如は呆れるばかりだ。

このことはマーケットが的確に警告を発し続けると予想される。



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