さざなみのよる
木皿泉
河出書房新社
この小説を読んでこんなことを思った。ネタバレを防ぐために内容には一切触れないが、読んだ人でないとなんでこんな話するのかわからないだろうとは思う。
わたしの妻の実家の家訓は「死んだ人より生きている人のほうに気を使え」である。
死んだ人、死せる人に心を砕いたり様々なエネルギーを使うよりは、あなたはその分を一生けん命生きること。そこに頭や金や時間を使うこと。これが死んだ人に対しての礼儀でもあるし供養でもある。
なので、妻のご先祖の戒名はみんな質素だ。漢字にして三文字。戒名料も申し訳程度だそうだ。葬式も法事もいたってシンプル。遠方にいる人、他に用事がある人は来なくてよい。それより自分のことを一生懸命やりなさいという考え。
実家の独特のこだわりというわけではなく、檀那寺がそういう思想なのだ。浄土真宗の寺である。
僕は、浄土真宗にも仏教にも明るくなく、法事の際にそこの住職から法話を聞いたり、義父母から耳にしたくらいなので、これが浄土真宗の教えなのか、その寺なりの解釈なのかわからないが、生きる人は一生懸命生きることがその人にできる亡くなった人への最大の礼儀なのだというこの考えは腑に落ちることもあって僕は大いに共感した。
親鸞の教えがしたためられているとされる歎異抄には、亡くなった人を生きている人が弔うことはできない、という趣旨のことが書いてある。そんな難しいことは阿弥陀様にしかできず、亡くなった人はちゃんと阿弥陀様に迎え入れられる。では生きている人は何をすればいいのか。努めよく日々を生きることである。
また歎異抄には「一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり」と親鸞が語ったとされており、いのちのつながりは、遠い過去からはるか未来まで連綿と続く相互のかかわりと波及の関係知にある。
「彼はあなたの中で生きている」というのはコトバとしては陳腐な表現になりさがってしまったが、でも本当に本当にそうなのだ。