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ペスト (ネタバレ)

2020年04月05日 | 小説・文芸

ペスト (ネタバレ)

アルバート・カミュ 訳:宮崎嶺雄
新潮社


 世界中が大変なことになって。で、本書がたいそう売れているそうなのである。

 この小説は、ペストによって封鎖された街を描いている。とはいっても、文学的に表わしていることは抑圧と不条理にさらされた人間というもっと抽象レベルのものであるが、とはいえ、いま現在の特殊な状況下でこの小説を読むことは、平時とはかなり異なる読書体験ではあった。

 

 この小説は、フランスの植民地であったアフリカはアルジェリアのオランという港町を舞台にしている。この町にペストが流行し、町が封鎖されてしまい、市民は市外に出れなくなってしまう。もちろん外部の人間が市内に入ることもできない。閉ざされた街中でペストが猛威をふるう。町の封鎖は10か月に及ぶ。

 主人公は、この町の医師リウーということになるが、小説を全体的に眺めればこれは群像劇といってよい。様々な特徴的な人物が登場する。第2の主人公と言えるのは物語の途中まで正体が謎の、やがて苦悩の過去を持つことが判明するタルーだ。さらに、生きることに不器用な下級役人のグラン、信仰の自縄自縛に苦しむパヌルー神父、虚栄心がセルフコントロールできないコタール、たまたま取材にこの町にやってきてそのまま出れなくなった新聞記者ランベール等等が、この閉ざされた町でうごめく。したがって誰に感情移入するも自由である。凡夫な僕は、リウーの透徹した精神に敬服はしても、実際に気持ちがシンクロするのは、突然降ってわいた不条理に抗おうと利己主義に走るランベールあたりだ。

 10か月にわたってオランの町は封鎖されるが、だからといってこの10か月の間にドラマチックにさまざまな事件が起こってオランの町が北斗の拳の世界のようになるとかそんなことはない。この小説はフィクションだけれど、かなりのリアリズムが意識されていて、パンデミックによって封鎖された町の日常というのは徹底的に単調なのだということを見抜いている。このあたり、まさに今現実にわれわれは目の当たりにしている。

 つまり、この「ペスト」という小説の主題は、ペストによるパニックのあれこれではなく、登場人物たちの「心」の推移にある。登場人物だけではない。オランの市民すべての感情の推移こそ、がこの小説の見どころだ。10か月にわたる封鎖下で、鬱々と感染者データだけが増え、淡々と一日が過ぎていく。それが人々の気持ちをむしばんでいく。


 で、僕はこの「ペスト」を読みながら、一方で現実の「コロナ」のさなかにありながら思ったのは、この気持ちはキューブラー・ロスの「死の受容」プロセスそのものではないかということなのである。

 キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」は、自分が死ぬとわかったときに人はどのような感情の推移をたどるか、ということを考察した名著だ。この本で挙げられる「死の受容」プロセスが偉大なのは、単に「死」ということではなく、「人が、あまりにも受け入れがたい現実をつきつけられたときにとる態度の推移」にまで敷衍できる内容だからだ。子どもの非行、老親の痴ほう、自らの老い、などすべてにあてはまる。

 そのプロセスは「否定」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」というものである。

 この小説「ペスト」においては、オランの人々は、まずは「これはたいした病気じゃない」とか「自分は感染しない」という態度をとる。これが「否定」である。やがて、その否定が効かなくなると、行政の不首尾や、町の外に出してもらえない不条理への「怒り」となる。そして「裏ルート」探しや、あるいは神父の教えや民間の占いなどで難を逃れようとする「取引」へと至り、そのいずれも効かないとなると、みな「抑うつ」になる。他人への同情も、いつかは門が開くという期待もしなくなる。日々の生活がなげやりになっていく。
 しかし、何人かの人物がこの現実を是とした上で自分が何をするのが幸福かという動きに出るようになる。「受容」である。

 このプロセスにかかる速度は人それぞれである。
 医師リウーは、超人的といってよい透徹さでほぼ中間がないがごとく「受容」に到達している。それは彼の「医者」という立場と、市民のほぼすべてを診てきたことによる特殊な客観性によると本人自身が述懐している。また、それがこの小説の立脚の根拠となっている。
 タルーは自らに課したアジェンダーー人は不条理に抗う責任があるというーーが大きすぎて「受容」に至る前、悪戦苦闘の「取引」あたりの段階で、自らがペストに感染して亡くなってしまった。
 パヌルー神父は、一度はこの災禍を神の恩寵の一環として「否定」するが、少年の壮絶な死を目の当たりにして「抑うつ」のステータスになる。逡巡の末にやがて彼は「受け入れがたいが受け入れるべきなのだ」という「受容」の域に達するが、一方で「聖者が医者に診てもらうことの矛盾」を克服することができず、いわば「受容」半ばにして感染して亡くなる。
 新聞記者ランベールは、市街への脱出という「取引」にもがき、あまりのうまくいかなさに「抑うつ」のステータスになっていくが、「自分一人が幸福になるということは恥ずべきことかもしれない」という心境に達し、このオランの町の境遇を「受容」して、リウーらと行動をともにするようになる。ペストが収束し、ランベールが最後に恋人と再会するところは、本書「ペスト」において唯一ドラマツルギーと言えるところだろう。

 

 そして思うのは、いま僕らがこの「コロナ」に対して思う気持ちもこの「死の受容」のプロセスをたどるのではないかということだ。社会心理としても僕個人の気持ちとしても。
 あれは一部の人しか重篤にかからず、多くの人は無症や軽症で済むという「否定」、当初西洋諸国に見られたあれはアジアのほうで起こる病で西洋は関係ないという「否定」。政治が悪い、中国が悪い、買い占める老人が悪い、出歩く若者が悪いという「怒り」。BCGが効くのかもしれない、家の中にいれば大丈夫という「取引」。オリンピックを来年の7月なら大丈夫だろうという打算も「取引」の一種だ。そしてこの閉塞感が「コロナ鬱」に至るのは時間の問題だ。

 僕個人としても「否定」から入った。「大騒ぎしているけどあれは、要するに「風邪」なんじゃないの?」という感覚から入った。そして、あんなに外国人観光客を受け入れるようにしたからだ、とか成田の検疫はザルだとかという「怒り」になった。桜が咲き始めると、これくらいなら外に遊びに行っても大丈夫だろうとか、いろいろコロナについて調べてみたりと「取引」にいそしむ。そしてコロナ疲れ、自粛疲れを自覚している。「抑うつ」なんだと思う。

 大事なことははやく「受容」に到達することなのだ。「受容」しなければ心は病んでいくのである。「受容」以外にこれに打ち勝つ精神状態はないのだ。しかし「受容」に至るには、「否定」「怒り」「取引」「抑うつ」を経由しないと辿り着かない。ならば、意識して、前4段階をさっさと突破し、「受容」の境地に至らなければならない。そうしなければ、体より前に心が負ける。

 この「ペスト」では、オランが閉鎖されたのは10か月間だ。「10か月」というのはそれなりのリアリティな重みがある。
 武漢で騒がれだしたのが1月中旬、日本や韓国での感染が騒がれだしたのが2月。そして3月に世界的なロックダウン。ここまでまだ3か月である。京都大学の山中教授も「長期戦」を指摘していたが、大事にしなければならないのは我々の「心」である。感染対策ももちろんだが、我々は「長期戦」を見込んで自分の心のコントロールもしなければならない。「怒り」や「取引」や「抑うつ」でうろうろしている場合ではない。はやく「受容」の心境に到達しなくてはならないのである。

 


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