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読書の記録

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死ぬ瞬間 死とその過程について

2014年04月24日 | 哲学・宗教・思想

死ぬ瞬間 死とその過程について

著:E・キューブラー・ロス 訳:鈴木晶

 

 先だって知人と話していて、キューブラー・ロスの「死の受容の5段階プロセス」の話になった。
 これは、人が死を宣告されたときの態度変容のことで、「1.否認→2.怒り→3.取引→4.抑鬱→5.受容」と推移していく。

 この「死の受容の5段階プロセス」ってどのくらい知られているのだろう。
 その知人はわりとこのあたりに明るく、ちゃんと知っていた。で、近くにいたもう一人も詳しくは知らないが、おおむねの概要は掴んでいた。
 僕も概要はつかんでいたつもりだったが、実はしっかりと知っていたわけではない。ネットで調べたり、他の本の引用に触れていたくらいである。

 僕が初めて知ったのは、明橋大二の「子育てハッピーアドバイス」で紹介されていたものを読んだときだ。
 もっとも、その本で扱われていた内容は「死の受容」の考え方を援用したもので、自分の子供がひきこもりになったときの親の反応を扱ったものだった。

 また、小説家の高橋源一郎が、自分の次男が難病に罹って重い障害が残るリスクが宣告されたとき、やはりこの心理過程をたどった(ただし一晩で)ということをエッセイで書いていた。

 つまり「死の受容の5段階プロセス」は、「死」という巨大なインパクトを持つものと向き合ったときの考察だが、実は「死」に限らず、自分が信じたくないとてつもないものをつきつけられたときの反応、と読みかえることもできる。なんとなくリアリティもある。

 そういう意味では、「死の受容の5段階プロセス」を知っておくことは、教養でもある。

 というわけで、意外にも周囲の人も聞きかじっていたことを知って、生半可な知識は危ないなと思い、中公文庫のを手にとった次第である。いちおう原典を知っておこうと思ったのである。

 

 で、読んでみて。
 まず、想像していたよりもずいぶんていねいに考えられている。末期患者のインタビューを200人重ねてつくられたもので、決してキューブラー・ロスの想像のたまものではない。
 一方で、患者はみな60年代のアメリカ人であり、いくぶんキリスト教という背景をおった人だからこその反応という点も見受けられる。 

 ひとつ大きな誤解をしていたのは「受容(acceptance)」というところだ。
 「受容」という訳語は、どちらかというと前向きにすべてを受け入れる感がある。
 つまり自分の死を受け入れる、というのは、自分の人生はこれでよかったんだ、と受け入れる、ようなニュアンスを僕は「受容」という言葉から解釈していたのだが、本書を読んでみるとどうもそう単純なものでもなくて、やや「諦観」にも似た具合なのである。
 ただ「諦観」というと、もうどうにでもなれ、というややネガティブめいた開き直りも感じとれたりもするのだが、本書をつぶさに読むとそうではなく、ここにキリストが十字架にかけられる前にゲッセマネの園でつぶやいた「我が意にあらずして御意の成らんことを願う」的な「受容性」を関連づけている。
 このあたりを的確に日本語であらわすのがどうも難しい。「意にそぐわないが、これもまた(神の意思による)必然であり、意義あるものなのだ」とみる感じだろうか。

 しかし、日本人はこのような「受容」ができるのだろうか。「意にそぐわないが、これもまた必然であり、意義あるものなのだ」という見方は、やはり「我慢」とかむりやりな「自分への言い聞かせ」を感じてしまうのだが、これはやはりキリスト教のココロを会得していないからだろうか。

 むしろ日本人的には、この「死の受容5段階プロセス」は、「『かなしみ』の受容」の道のりかもしれない。
 古来から日本の芸能や文芸で扱われてきた「かなしみ」というのは、英語に訳すことが難しいニュアンスであるらしい。竹内整一の「『かなしみ』の哲学」の言葉を借りて解題すれば、

 「みずから」の有限さ・無力さを深く感じとる否定的・消極的な感情であるが、しかし、そうしたことを感じとり、それをそれとして「肯う」ことにおいてこそ、そこに「ひかり」(倫理、美、神、仏)が立ち現われてくる、肯定への可能性をもった感情」

 というものである。つまり、自分の無力を知り、それをそれとして、まあそういうものだよね、という「達観」である。
 「自分の力の及ばないところがあることを是として受け入れる」というものの見方は東洋的なものだ。

 キューブラー・ロスいうところの、この「受容」の具合をつかまえるのはなかなか単純ではない。

 

 それから、読む前は知らなかったのだが、実は重要ではないかというのが「希望」である。
 「死の受容」は、基本は5段階で構成されるが、一方で「希望」という因子が併走することをキューブラー・ロスは指摘している。

 この「希望」とは、“とはいえ自分は生きながらえるかもしれない”という「希望」である。
 それは「怒り」のステージでも「取引」のステージでも、あるいは「抑鬱」や「受容」のステージでも間欠的に顔を出す。
 そして、この「希望」がみとめられた患者とそうでない患者は、心理状態や生活態度がずいぶん異なる。この「希望」の有無が死期の長短をも左右するといってもいいくらいだ。

 この、「希望」を失わないことの重要性は、V・フランクルの「夜と霧」なんかでも大事な要素となっている。

 「死の瞬間」でインタビューされた患者の多くは本当に末期患者であったが、実際は「死」がたとえ蓋然性が高くても未確定な場合だったり、あるいは先の例のように「死」以外のものだった場合は、この「希望」の維持はことのほか重要なのではないかと思う。

 

 というわけで、原典(といっても和訳だけど)を知れば、またいろいろと発見があったり、あるいは事前に想定していたようなそう単純なものでもなかったり、ぜんぜん違うものと話がつながったりする。
 まとめ情報だけで安心してはならんのだね、という点でも勉強になった。

 


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