読書の記録

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テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代史を辿る

2014年05月24日 | 民俗学・文化人類学

テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代史を辿る

厚香苗

 祭りにいくと、屋台な縁日が連なっている光景をよく見る。この屋台にいる人たちがいったいどこからやってくるのかいつも疑問だった。
屋台の中にいるのはおじさんや若い金髪兄ちゃんだけでなく、太ったおばさんが座っていることもあるし、中学生か高校生くらいのお姉ちゃんが店番していることもある。後ろの方で子どもが手伝っていることもある。

 この人たちの生活はどうなってるのだろう。この子どもたちは学校とかどうしているのだろう、とは素朴な疑問だった。
 まさか、いまどき旅芸人のように全国の祭りを追いかけて旅しているわけではあるまいが、我々とは異質の世界に身をおく人々という感じはありありとする。
 いささか不気味でもあり、あまり深入りしないほうがよさそうでもあり、でも興味ある。ワイドショー的な野卑た根性であることは認めなければならない。
 

 さて本書は、著者のテキヤに対する愛情と民俗学的探求のあいだにある本である。
 本来、民俗学的探求に余計な「愛情」はあってはならない。観察対象に対して肯定で否定でも評価的態度をとらないことが民俗学では大前提となる。

 だから、本書に本格的なテキヤの生態の解明を期待すると、食い足りなさを感じる。著者のテキヤに対しての親身ないし同情的態度がしばしば現れ、それが情報の取捨選択につながっているからである。

 たとえばテキヤという職業集団がどのような歴史的背景をもって現代に至っているのかはわりと詳しく書かれているが、では、そのテキヤを構成する人々が生来どこの何者で、どういう流れでこういう商売をするようになったのかはけっきょく本書では知らされない。もしかしていくつかの事例は知りえたのかもしれないが、本書では扱われない。むしろ「どこの何者であるか」はテキヤの慣習では「重要ではない」という結論を本書は導く。

 また、テキヤは「7割商人、3割ヤクザ」と、テキヤ自身のコメントを得ても、その「3割ヤクザ」には踏み込まない。
 むしろテキヤの信仰する「神農道」と、ヤクザの「極道」は違う、と強調する。


 それでも、いくつかのことがぼんやりとわかった。
 まず、彼らの多くは「近所から来ている」ということ。そうか。彼らは定住者なのか。なんだかすごく安心した。あの子ども達は学校へ行っているんだ。
 また警察署や保健所にまめに届けを出さなければならない関係上、その身元はかなりはっきりしている、ということ。


 一方で、テキヤは個人商店ではなくてかなり堅固な社会関係の中にいる集団であること。
 しかも「サンスン」だ「コロビ」だ、という響きの隠語や、親分子分関係がつくる閉鎖的な秩序関係、ならびに文献を残さずに口碑を中心に伝承されていくその社会形態は、やはり彼らが我々からみれば異質な世界の住人であることをうかがわせる。


 本書を読んで思ったのは、もしかしたら著者はテキヤが何者かを世の中にわからせてやろう、などとは考えていないのかもしれないということだ。むしろ、わからないままそっとしておいてあげてほしい、というのが著者の本音なのかもしれない。暴力団の件だけでなく、行政の面でも衛生観念の面でもテキヤをめぐる環境は厳しくなるばかりである。そういう意味ではテキヤは先のない商売であり、そこに著者の同情をみる。

 本書のタイトルは珍しモノみたさ、物見遊山的な読者の興味をひくに抜群だが、そんな好奇心の視線からかばおうとする著者の心情もまた感じる。聞くところによると新書のタイトルは必ずしも著者の案によるものではなく、むしろ編集部に決定権があるらしい。本書のタイトルも、ひょっとすると著者にとっては忸怩たるものがあるのかもしれない。


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