読書の記録

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新世界より (下)

2012年12月26日 | 小説・文芸

 

新世界より (下)   完全にネタばれあり
貴志祐介


 というわけで全部読んだ。中巻までの感想はこちらである。

 中巻まで読んだ限りでの僕の予想は、悪鬼と化した真理亜と、業魔と化した瞬が相討ちして共倒れ、人類は辛くも救われるというものだったが、全然ちがった
 それはともかく。

 

 この小説は、3つの視点から読むことができる。

 1つは、もっとも順当な読み方で、主人公である渡辺早季の手記の通り、早季と1班のメンバーの人たちにふりかかるドラマの話である。
 その限りでも、本作はウェルメイドな伝奇SFホラーとして十分に面白い。


 一方で、この小説がずしんとくるのは、最後にバケネズミの正体が明かされるからである。
 バケネズミの正体が「呪力を持たない人間」の改造された姿だったことから、単なるエンターテイメントにとどまらず、本作は多角的な見方ができるようになったのである。

 というわけで、もう1つの見方としては、教育委員会に代表される大人たちの神栖66町における治世と崩壊の物語である。

 「呪力をもつ人間」は、徹底した管理社会を築き上げ、一見きわめて清潔で安全な都市運営を行っている。
 しかし、この町の本質は、不安と疑心暗鬼に満ちた相互不信の社会である。「呪力をもつ人間」の既政者は基本的に人民を信用しておらず、「呪力をもたない人間」におびえて抵抗要素をそぐことに腐心する。
 現実社会においても、慢性的な疑心暗鬼は、ちょっとしたことで恐怖感に駆られた暴走状態になり、虐殺的な行為に走りやすい。人種、民族、宗教が異なるだけで人間はおそるべき残虐性を発揮してきたことは歴史が証明している。ヒットラーやスターリンのような独裁者の悪政をまずは思い浮かべるが、これに限らず、普段は善良だった市民があるきっかけで暴走してしまう例だって多いのである。ボスニアの虐殺やルワンダの内戦、日本でも関東大震災後の朝鮮人虐殺という例がある。
 虐殺者は、自分たちの方が正しいのだ、と納得したいがために、その裏返しとして相手を「だから正しくないことをされるのだ」というロジックで虐殺的行為に及ぶ。その行為が残忍であれば残忍であるほど、自分の正しさはより強化される。ここまでしないと、相手に対する恐怖心がぬぐえないのである。

 神栖66町の大人たちのふるまいも基本これと同じである。
 「呪力をもつ人間」は、「呪力を持たない人間」の抵抗力を殺ぐために圧政をしき(醜悪なネズミに姿を変えさせ、なんと焼き印を推して個体管理をするのだ)、いっぽうで「呪力をもつ人間」同士においては愧死機構をもりこんで内乱のリスクを減らす。そして「『予測不能な』呪力をもつ人間」を出現させないよう、一切の多様性を排除し、不安分子は情け容赦なく芽摘んでいく。

 興味深いのが彼らにおける「知識」のマネジメントである。
 神栖66町では「知識」は徹底的に公開が制限される。生きる上で最小限必要なこと以外は知らなくてよい、という方針をとり、余計な知識を得たものは粛清の対象となる。
 これは独裁者が行う政治の常とう手段で、まず初めから存在する知識層はすべて排除し(その究極なのがポルポト。ちなみに神栖66町は貨幣が存在しないが、これもポルポトがやろうとしたこと)、あとは既政者が、どの知識はどの階層までオープンにしていいかをコントロールしていく。(実は日本の大企業もこの傾向があるのだが)
 これは、けっきょく既政者側が人民を信用していない、という原則から始まっている。いつ寝首をかかれるかわからないため、余計な知恵をつけさせないようにしているのである。

 この緊張状態は、野狐丸率いるバケネズミ軍および悪鬼の少年の攻撃によって街ごと崩壊していくわけだが、なまじ知識が制限されていただけに、神栖66町は街のつくりも人の采配も戦略観を持てず、鏑木と日野という2人の強力な呪力使いに頼らざるを得ない脆弱性を露呈されてしまうのである。


 さて、3つ目の見方が、このバケネズミの反乱の側からこの物語を俯瞰する場合である。
 神栖66町の虐殺シーンだけでなく、やたらと醜悪さが悪目立ちする野狐丸や塩屋虻コロニーも、これが実は長い年月「呪力をもつ人間」からのいわれなき圧政に苦しんできた「呪力を持たない人間」の抵抗と闘争の物語である、と見立てれば、おのずと別種のカタルシスが出てくる。
 しかもその宿願は達成されず、コロニーは全滅させられ、野狐丸は「呪力をもつ人間」の復讐心によって無間地獄の刑におとされる。

 この小説では、冒頭部分に注意深く述べられているように、主人公「早季」の視点で主観的に描かれているから、その描写や評価には相当な偏りがあることが前提となる。反体制側の英雄が、体制側に極悪人として描かれることはよくある話である(もちろん逆もまたある)。
 それをふまえると、野狐丸は野卑で狡猾どころか、きわめてすぐれたリーダーであった可能性もある。少なくとも、近隣のコロニーを掌握し、大局観と戦術論を併せ持つ不世出の「呪力をもたない人間」であった。

 それをうかがわせるのが女王制を廃し、民主主義と議会制を導入したことである。

 野狐丸は図書館(ミノシロモドキ)の捕獲で「知識」を得た。
 この「知識」を独占してバケネズミとして君臨することもできたはずだが、「呪力をもたない人間」の解放を大義に、民主主義と議会制を導入したのである。これは私利私欲でできないことである。
 なぜなら、民主主義と議会制は、人民への信頼が原則となるからである。そして、議会制を機能させるには「知識」の普及が必要でもある。全員の情報レベルが同じにならないと、議会制はうまくいかないからである。
 バケネズミの議会制がうまくいっていることの状況証拠として、塩屋虻系のコロニーが戦闘を伴わずに順次拡大していることにある。なにしろ野狐丸が育てた悪鬼はバケネズミを攻撃できないし、長年に渡って非常に統率のとれた個別バケネズミ軍の動きは、モラルとモラールがなければ完遂しないレベルのものである。烏合の衆と化した「呪力をもつ人間」と対照的である。

 早季の手記においてはほとんど触れられていないが、じつは野狐丸は「呪力を持たない人間」の間では慕われていたカリスマ的存在だったのだろう。少なくともバケネズミ戦闘軍は、この戦闘の目的と目標が何であったかを全員知っていたと思われる。

 もういっぽうのバケネズミの勇である「奇狼丸」は、人情的に感情移入しやすいが、野狐丸ほど大きな世界を描けなかった。30年前に東京地下で核兵器を発見できていれば、野狐丸と同じ行動に出ていたと思われるが、彼が守りたい世界はあくまで女王の世界だった。


 けっきょく、この長大な小説はエンターテイメントにあふれたSF伝奇ホラーなのだが、一方で人類史の寓話でもあるのだ。
 
1000年後という舞台設定。
 ひるがえって、1000年前の世界はなんであったか。
 実はここにあの悪名高き十字軍の遠征が始まる。
 そして、現代に至る1000年のあいだ何で行われてきたかをふりかえれば、まさに旧世界は、この新世界と同じような歴史だったのである。

 


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