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反脆弱性(上) 不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

2018年02月01日 | 哲学・宗教・思想

反脆弱性(上) 不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

著:ナシーム‣ニコラス‣タレブ 訳:千葉敏生
ダイヤモンド社


 「反脆弱性」とは、”事態が悪くなればなるほど、そのもの自身は強くなっていく”というものである。

 

 本書はこの新しい概念について、上下巻それぞれ400ページを越す大著として饒舌と多弁の限りを尽くして説明する。

 なんでこんなに膨大な説明になるかというと、この「反脆弱性」にあたる概念を言い当てたコトバが、英語にも日本語にもないからだ。コトバがないということは概念としてこの世の中に自立していないということである。「反脆弱」というのは、「脆弱の反対」という、つまり「脆弱」からの相対的な意味合いとして便宜的にそう呼んでいるに過ぎない。原本は英語なので「脆弱」にあたるfragileに、anti-の接頭語をつけたANTIFRAGILEというのがタイトルになる。つまり、英語でもこの概念を直接的に言い当てるコトバはないのである。

 コトバがない? 「脆弱」の反対は「頑丈」とか「頑強」とかそういうことなんじゃないの? と言いたくなるむきにはタレブはちゃんと説明をしている。「頑丈」は単に外部の衝撃に耐えているだけで、その結果それがより強くなったりはしないのだ。たとえば、鉄の鎧があってそれはさまざまな攻撃に耐える「頑丈」さを持つが、攻撃されればされるほどその鉄の強度が増す、とかそういうことにはならない。
 しかし、「反脆弱性」という概念は、この攻撃されればされるほど強度が増す鉄、みたいなものなのである。
 そんな材質あったっけ? とか、なにかメリットあるの? となってしまうのは、この「反脆弱性」が概念としてまだ輪郭がぼんやりしているからだ。くりかえすが、言い表すコトバがないということはその概念が世の中に自立していない。

 自立していないから、ひとつの概念を説明するのにこれだけの字数を必要とする。これだけまくしたてないと、本当のところで「反脆弱性」とは何かというものの正体の輪郭が描けない、と著者のタレブは考えたのである。
 だから”事態が悪くなればなるほど、そのもの自身は強くなっていく”という説明だけで、ははあ!っと膝をうつ察しのいいヒトならば、本書は前巻のプロローグ数ページだけで事足りてしまう。

 そしてここがたいへん重要なのだが、「反脆弱性」は新しい概念だからといって、この世の中に存在しないものではない。それどころか、自然の摂理にも人間の認知感覚や生理学的においても経済システムにおいても歴史からの学びにおいても、いたるとところで見受けられる力学なのである。
 それなのにコトバがないというのは、そのことに人間は気づかなかったということだ。なぜ気づかなかったかというと、人間は「脆弱性」のほうに気をとられていたからである。
 タレブの指摘で面白いのはこれで、実は「脆弱」こそが我々人間が普段の社会の営みにおいてむしろ「頑強」なつもりでいた、というものなのである。反対に、「脆弱」と思っていたものが実は「反脆弱性」を秘めていたのである。このパラドックスの暴露こそが本書の真骨頂だ。人間は「頑強」なものをつくることに気をとられ、その実「脆弱」を生み出していたのだ。

 たとえばこういうことだ。ここに超高性能の自動車があるとする。丈夫だし、スピードは出るし、車内空間も快適である。これにおいてこの自動車は「頑強」といってよい。それに比べて人間が足で歩くのは疲れるし、スピードは出ないし、夏は暑いし冬は寒い。つまり「脆弱」である。
 しかし、それはあくまで現在の平穏な社会が前提となっている。大地震が起きて街中で大渋滞を起こしたら、自動車での脱出などできなくなる。何かの理由でガソリンの供給が止まったら、とたんにその自動車は1ミリも動かなくなる。つまり、周囲の環境が悪くなれば悪くなるほど自動車は脆弱性が増してくる。
 一方「足」はどうか。ガソリンがなくなろうが、道路が渋滞しようが、それどころか道路がボコボコになろうが水びだしになろうが、前に進むことはできる。周囲の環境が悪くなればなるほど、実は相対的に足での移動というのは脆弱性を減らし、むしろ強みを発揮する。すなわち「反脆弱性」があるということになる。東日本大震災のとき、ぼくは都心の会社にいて、徒歩で千葉県の自宅まで帰ったが、このことを痛感した。
 これが「反脆弱性」の正体である。


 本書のサブタイトルに注目されたい。
 「不確実な世界を生き延びる唯一の考え方」である。
 よく言われるように、現在の世の中は不確実性が増している。そんな中、未来を予測して対策するのは大変難しい。たとえば、将来はガソリン供給が不安定になると予測し、電気で動く自動車をつくったとしよう。そうしたらガソリン供給の前にまさかの大地震がきて長期間の停電が発生してしまい、充電ができなくて車は動かなくなってしまった。ならば大地震での停電に備え、蓄電性の高い電池で車をつくったとしよう。そしたら大地震でガレージが崩れてしまい、その自動車はおしゃかになってしまった。
 寓話みたいな例え話だったが、要するにこの不透明な時代に予測するというのはたいへん難しいのである。

 では少々の経済危機や天変地異がきても移動を確保するにはどうすればいいか。
 それは健脚になっておくことなのである。足を鍛えておくことである。つまり、リスクを予測して回避の対策を考えるのではなく、どんなリスクがきてもいいようにするのがこれからの世界を生き延びる術である。その秘訣が「反脆弱性」ということになる。


 では「反脆弱性」を会得するにはどうすればいいか。「脆弱性」を回避するにはどうすればいいか。
 本書にはもうこれでもかというくらい書いてあるが、ひとつだけ抜き出すとしたら、毎日直面する何かの選択と決断だ。買い物、ヒトとの約束、仕事の受注、今日は何を食べるか、など。また、何かをするかあるいは何もしないでおくか、という選択と決断もよくある。
 このときの選択は「非対称性」である、とタレブはいう。どういうことかというと、その選択が完全なトレードオフになることは実はあんまりなくて、「大きく何かを得るかちょっと何かを失うか」の選択、もしくは「大きく何かを失うかちょっと何かを得るか」の選択であることが多い、と彼は指摘する。
 そういうときは、プラスになるほうに常にチップを張るのが彼が言うところの正しい人生訓だ。場合によっては得るものがなくてちょっと何かを失うはめになるかもしれないが、そのようにリスクテイクをしていく経験値が、実は人生の反脆弱性をつくっていく。つねにリスク回避ばかりしていると一見「頑強」になるかもしれないが、社会環境の激変に破滅的な結果を招くこともあり得る。
 
 また、あまりにも複雑なものは脆弱に陥りがちだ。シンプルなもののほうが反脆弱性を担保しやすい。夢の高速増殖炉「もんじゅ」は、そのあまりにも複雑すぎる仕組みで、とうとう満足な運転もできないまま30兆円の国費を浪費することになってしまった。それならば1回の出力量は少なくとも、風の力でまわる風力発電のほうが環境変化にはずっと強い。同じように、複雑な仕組みのビジネスモデルや投資、屁理屈を重ねたような健康法や食事療法はじつは脆弱性がある。太古から人間がやっていたような商売や生活習慣のほうがずっと反脆弱性だ。必ずしも最新のものが正しいとは限らない。むしろ太古からずっと続いているものというのは、それなりの普遍的な力、幾多の環境変化、時代の変化を潜り抜けてきた反脆弱性があることの証である。


 というわけで「反脆弱性」。新しい概念をつかむことがこれだけ茫洋としてしまうということに改めてびっくりしたが、一見頑強と思われるものが実は薄っぺらいこともあるという目利きは大事なリテラシーかと思う。そして、AIだろうが異常気象だろうが少子高齢化だろうが、何がきてもそこそこ耐えきれ、むしろ強さを発揮できる生活力とは何かというのも考えなくてはならなそうだ。歴史にヒントがあるとタレブは言っている。

 というわけで下巻に続く。


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