読書の記録

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あなたは、なぜ、つながれないのか ラポールと身体知

2019年02月17日 | 生き方・育て方・教え方

あなたは、なぜ、つながれないのか ラポールと身体知

高石広輔
春秋社

 なかなか難しいことを伝えようとしている本である。身体感覚を研ぎ澄ますことのコミュニケーション論とでもいおうか。世阿弥の「離見と見」みたいな話といえば当たらずも遠からずか。自分自身がどのようなふるまいをしているかを自覚できていないと、そのふるまいは制御不能の暴走と変わりない。だからといってうまくやってやろうと過剰に意識するとわざとらしくなって底の浅さが割れる。そこまで斟酌して自分は何をいまやっているかを冷静に見る第三の自分が必要になる。浅利慶太に指導を受けたという元劇団員のヒトが言うには「演じようとするな、降りてくるものをやれ」みたいなことを言われたそうで、どういう意味なのかずいぶん煩悶したそうである。このへんも「うまくやろうとする」ことが見え透いてしまうことの戒めなんだろうか。

 近年、他人とのコミュニケーションというものが妙に技法的なものとほのめかされ、一種の世渡りスキルのようになっているのは確かである。平田オリザの「わかりあえないことから」でも、昔のように「口下手だけどいいやつ」というのは残念ながら通用しにくい社会になっていることを指摘している。平田オリザは日本語が宿命的にもつ言語コミュニケーションの限界を指摘したうえで、演劇を援用したコミュニケーションのワークショップをあちこちで行っている。

 

 閑話休題。精神医の斎藤環は、著書「世界が土曜の夜の夢だったら」の中で、ヤンキー気質とオタク気質のコミュニケーションの特徴の違いを述べている。「気質」なのであって、ベタなヤンキーとオタクの比較論ではないことに留意が必要だ。我々は両方の気質を宿しており、その配分が個性である。ざっくり言うと、ヤンキー気質はその場その場の勢いで一回限りの固有的で再現不能な会話を行い、オタク気質は予定調和で記号的な会話をする。へんにお約束で類型的な言い回しをするのはオタク気質の特徴であるし、その予定調和や記号の意味合いが共有されていることがオタクのコミュニケーションの条件となる。

 これは、ヤンキー気質は、本書の表現を借りれば“自分の予想通りに会話が展開することを望むのではなく「どうなるか分からないけど、どうなるか楽しみだ」と相手との関係が自然と展開していくことを楽しみにする”ということに近しいのだろう。それに対し、オタク気質は”過剰な緊張からパターンが生まれる”ということになる。

 逆説的だが、昨今のコミュニケーションスキルの注目は、オタク気質を推し進めていると言ってよい。本書曰くの”大勢の飲み会などでは、パターンの反応がいかに速いかを競い合っていることの方が多い”という指摘がまさにそうだ。技法を自覚化し、形式化するのはオタク的気質の特徴のひとつではある。

 

 この両者の違いは、相手とどういう関係になりたいかに起因しているように思える。「相手からいいように思われたい」という自分へのポジション獲得にねらいが強い人は「オタク気質」型になりやすい。「コミュニケーションができている」というのは「自分の売り込みがうまい」というのと同義とも言える。自分の売り込みがうまくないと生きていけないのが現代社会だというのは確かな側面だろう。

 しかし、「売り込みがうまい」ことと「通じ合える」ことはまったく別である。大勢の飲み会での速射砲的コミュニケーションで、相手と信頼を持って通じ合えるような仲になることはなかなかない。刹那的な売り込みはうまくいっても、長続きする通じ合える関係には至らない。

 これに対してヤンキー気質のコミュニケーションは、必ずしも自分を売り込んでいるわけではない。ただその場でのやりとりの空気(ラポール)を尊重しているだけである。さらにいうと相手の人格を評価も操作もせず、そのままにしているということである。この「ねらっていない」ことが”結果的に”相手との通じ合う関係の糸口になる。ただ、目の前の相手の人格を無限抱擁する。予見や操作を封じ込め、ひたすら無限抱擁する。

 

 「コミュニケーションに長けている」ということと「相手と通じ合える関係になる」は別物である。前者は技術だが、後者は能力である。後者は人間に限らず、動物も本来持っている能力だ。身体に宿された感覚である。

 しかし、今日は前者に汲々してしまって後者の感覚を失いつつある。また、前者と後者を混同してしまったり、「コミュニケーションができている」ので「通じ合える関係」になれていると勘違いするケースもある。

 相手と通じ合える関係になるには、現代社会が迫る頭でっかちな技術論ではなくて、動物として本来持つ能力である身体知をいまいちど覚醒するしかない。これは言語以前の感覚といってもよい。(そういう意味で著者が書籍の執筆という形で趣旨を伝えようとすることは悲劇的といってもいいほどのチャレンジングな取り組みだとも言える。)

 冒頭にあげた3人、世阿弥・浅利慶太・平田オリザ。これらみんな演劇に関係がある。ねらっていたわけではない。本書を読んでぽっぽっぽと直観的に連想したものがこの3人だったのだが、これは偶然ではないだろう。身体感覚というものと演劇は切っても切り離せない関係にある。演劇こそは言語以前の身体感覚と身体表現に敏感で、そこから「通じ合える関係」を模索する試みをずっと続けてきた。コトバ回しでも予定調和でもない刹那の連続を許せる関係こそが「通じ合える関係」だ。 

 梅沢富美男は歌った。恋はいつでも 初舞台。

        

 


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