世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析
斎藤環
自分の会社の先輩に非常にできる女性がいる。もうアラフォーの人なのだが、なんというか、あからまさにデキるのである。ただ、そのデキる、というのがいわゆる知識が豊富とか、データを読むに長けている、とかそういうことではない。
要するに、コミュニケーション力抜群なのである。社内外問わず、老若男女問わず、どんな相手だろうと仲良くなってしまい、相手を信頼させてしまう。場の空気の察知に長けているだけでなく、そこから新たな空気にもっていくさまも見事でもちろんアドリブもうまい。コミュニケーション的な運動神経が抜群としか言いようがない。
で、ここまでコミュニケーション力に秀でていると、仕事は成果を出せる。会社の上のほうからも後輩からも男女問わず非常に人気がある。もちろん仕事先の相手からも信頼が厚い。社会の仕事とはコミュニケーションでまわっているということをあからさまに証明している感じである。
決して美人なわけでも、かわいいわけでもない。いわゆる「女子力」的なものは高くない。なのに求心力抜群である。
正直いってこの人にはかなわないと思っていたのだが、あまりにも自分と行動様式もセンスも違いすぎて、むしろ正体をつかみ損ねていた。
本書を読んで、なるほどこの人は「ヤンキー」なんだとすごく合点がいった。
世の中の人は「ヤンキー」と「オタク」に二分されるといったのはナンシー関だが、その区分でいえば「オタク」であること間違いない私にとって、「ヤンキー」である彼女の正体がつかめるわけがない。
コミュニケーション抜群ということは「関係性」を構築することに長けている、ということであり、「関係性」にエネルギーを注ぐのは「ヤンキー」である、というのが本書の指摘である。また、その「関係性」構築と因果関係のあるものとして、「素の状態での情緒的コミュニケーション」を得意とし(記号的なお約束なやりとりをしない)、「気合い」が入っており、「過剰適応ともいえる順応性」をみせ、「徹底して現状肯定的」で、「実話志向」である。また、案外にも中身の革新性や深みには乏しいという特徴もある。
たしかに彼女にはすべてこれがあてはまる。それも極めつけだ。というのはここまで機を見るに敏だと、状況の本質がどこにあるかを瞬時に見抜く能力と、それをすごいスピードで対処する身体能力が備わっているということなのであって、本書の結論にもある圧倒的な「生存能力」なのである。
裏返すと、「オタク的資質」はこれの反対ということになる。オタク的気質は「関係性」よりは「所有性」に走ろうとする。「素の状態での情緒的コミュニケーション」は苦手で、むしろ記号的なお約束のやりとりに親和性を見出し、「気合い」よりは「低テンション」であり、順応よりは違和を作り出すほうが上手で、どちらかというと現状を批判的に見がちであり、理想主義ということである。革新や本質の追求にこだわるのもオタク的気質だ。生存能力に長けた性質とも言い難い。
しかし、社会というものが「関係性」で成立し、ことビジネスとか会社というものが「関係性」でまわっていくことを考えると、「ヤンキー」の資質を持つということがいかに重要であるかということになる。「オタク」には生きにくい歴然とした事実がある。
言うまでもないが、この「ヤンキー」というのは、決して不良だったとか、金髪だったとかそういう意味ではない。同様に「オタク」というのも、ひきこもりとかアニメを愛好するとか、そういう意味ではない。根源的な資質の問題である。どの人にも「ヤンキー的資質」と「オタク的資質」が何対何の割合で持っているといってよい。
しかし、根が「オタク的資質」である自分が、彼女のような「ヤンキー的資質」を身につけるにはどうすればいいのだろうか。
鈴と小鳥とそれから私。みんな違ってみんないい。とはいうけれど、彼女のような「順応性」や「現状肯定的」や「実話志向」は、持ち得るならば持ち得たいし、ならばどうすべきか。今更それを心掛けるにはあまりにも「批判精神」が身に付きすぎてしまっているようにも思うが(でなきゃこんなブログやらんわ)、目下しばらくこれをテーマにしたいと思うところである。