これは本のタイトルです。私の現在の気持ちではありません、誤解なきよう...。
以前どこかで書いたようにちょっとずつ仕事が忙しくなってきて、それはそれでいいんだけど頑張っても嫌な思いをすることも時々あって、それが「ああ、前もこんなことあったよな」と古傷がうずくように懐かしく思うし、暇だったころが大変恋しくもあります。ないものねだりなんだな、結局。あっでも、ブログを書ける程度には暇です笑
さて本日紹介するのは、電車で読んでいると周囲から目をひそめられること請け合いの新書『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』。タイトルがすでにものものしいし、表紙に大きく「消えたい」とある。
でも内容はとてもよかった、橋本治の解説もぐっときた。さすがちくま文庫。とはいえ、わかりやすく描かれ過ぎていて少し物足りないというか、もっと読みたい、詳しく知りたい気持ちになったけど、まあ新書だしな。続きは専門書で、ということなのだろう。
本書は精神科医によって執筆されている。筆者が臨床を通じて、虐待を受けた人の人間としてのあり方、いわゆる「通常の家庭」で育ってきた人とどう違うのか、どんな痛みや苦しみがあるのか、世界をどんなふうに「認識」しているのか、症例に触れながら語られている。それがひとつの物語になっているため、読みやすいしわかりやすい。文体も簡素で飾ったところがないためするする読める(精神科医にありがちなのだが、もってまわった書き方をする人も結構いる。それが必要な表現であれば構わないけれど、そうでない場合も多々ある、残念)。
じゃあ内容もするする入ってくるかと言うと全然そんなことはなく。当たり前だけど「ひとりの人」の虐待の体験がいくつも描かれているわけだから、読んでいるとかなり苦しくなる。重松清の『疾走』とまでは言わないけれど、ある種の救いがたさ、「なにか他の方法はなかったんだろうか...」といったもどかしさ、「どうしてそうなってしまったんだろう?」という憤りや諦観の思い、そんな気持ちが自然と湧き上がってくる。でも残念ながら、自分にはどうしようもないことである。この「どうしようもなさ」を、虐待されていた人も無意識のうちに感じていたのかもしれない。
それから、こういう言い方が誰かを傷つけるかもしれないことは重々承知しているのだが、自分は幸福に育ってきたのだろうな、ということに思い至る。そりゃ多少なりとも傷つくことはあったけれど、爪を剥がれたり冬に外に出されて水をかけられたりすることはなかったから。自分の今の生活はどうなんだろうか?そういったことを振り返って考えるきっかけにもなる本だと思う。
全部ハッピーエンドに終わらないあたりもリアルだ。治療が進むにつれて今までの対人関係の持ち方を見直し立ち直っていく人もいれば、せっかく治療に結びついたかと思うと、人を信じることが出来なくて去っていく人もいる。結局、今まで身に着けたパターンを繰り返してしまっているのだ。それくらい虐待という行為が人間の根幹を揺るがす行為なのだろう。簡単に治るものではない。
日本の貧困が進むにつれて、たぶん虐待は少しずつ増えていくような気がする。経済的に不利な家庭ほど虐待のリスクが高まることが研究で示されている。その一方で、日本の子どもに対する手当などは先進国でも最低レベルらしい(阿部 2008)。オリンピックもいいけれど、そんなことしている場合なんだろうか。昔やってうまくいったことにしがみついている気がするのは私だけだろうか。
そういえば個人的に大変尊敬している児童精神科医が「子どもを大事にしない国に将来はない」と講演で話していたのが印象に残っている。少年の犯罪は減っているかもしれないけれど、そして「自己責任論」が大手を振って歩いているけれど、本当にそれでいいのだろうか。ある時期から急にはやり始めたけど、個人的に自己責任論は大嫌いである。人間ってそんな簡単に一人で生きていけない存在なんだから、完全に自分の責任だけで生きていけるわけないだろっていう。そういう風な考えが広まると、結局社会的弱者が野放しになるだけだと思うのだが。そうやって生きていく人が大半を占める社会は、なんだか寂しい気もする。こんな世の中でも人々は幸せになっていると言えるのだろうか。
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