2014年3月31日
#、為替、102.円。ユーロ、141.41円。
#、ダウ、16323.06ドル。+58.88ドル。ユーロ4155.75、+5.52。
#、日経前場円。円。後場14827.93円。+131.80円。
最近更新された名言
4.長谷部誠の名言3/31
生い立ち[編集]
静岡県藤枝市出身。祖父が「誠」と命名。3歳のときにサッカーアニメ「キャプテン翼」の大空翼に憧れてサッカーを始め、藤枝市立青島東小学校のスポーツ少年団、藤枝市立青島中学校サッカー部を経て、静岡県の名門藤枝東高校に入学。同期には岡田佑樹、金澤大将などがいる。2年の終わり頃からレギュラーとしてプレーした[2]。U-18日本代表候補への選出、全国総体準優勝などの実績はあるものの高校サッカー選手権出場は果たせなかった[3][4]。当時のコーチや対戦相手の監督からは能力は高いもののフィジカルが弱すぎると評価されていた。静岡県内のプロクラブへの入団を希望していたがオファーが届かず、県選抜でのプレーを見た浦和のスカウトから誘いを受け[4]、この他には名古屋からも興味を示されていた[5]。
浦和レッズ[編集]
エピソード[編集]
ゴールを決めたときに天に向かって人差し指を突き上げるゴールパフォーマンスをする。これはプロ1年目のときに亡くなった祖父を想ってのことである。祖父は長谷部が大学進学かプロ入りかを迷っていたとき、周囲がプロ入りに反対する中でも「男なら挑戦してみろ」と背中を押してくれたという[13]。
Mr.Childrenの大ファンでブログにて好きな曲ベスト10を発表しているほか[14]、長谷部を特集した2011年7月10日放送の「ソロモン流」の中で桜井和寿との対談が実現している。また、2012年4月から自身が出演するキリンビバレッジ 『大人のキリンレモン』のCMには、本人が大好きな楽曲であるという縁から、「youthful days」がCMソングとして起用された。[15]
ワールドカップ南アフリカ大会での活躍により、2010年7月に藤枝市スポーツ栄誉顕彰を授与された[16]。
2011年3月に幻冬舎から出版した自己啓発書『心を整える。』から得た印税は全額を同月に発生した東日本大震災の支援のために日本ユニセフに寄付することを決めた[17]。本は9月までに100万部を売り上げ、スポーツ選手の著書としては初のミリオンセラーとなった[18]。2013年3月のビルト紙によると、売上は140万部を超えており寄付額も180万ユーロに達している[19]。
高校卒業と同時に、浦和レッズに入団。1年目はほとんど出場機会がなかったが、2年目の2003年はトップ下やボランチの選手として年間通して出場機会を得た。そして、3年目の2004年はシーズン当初こそ山瀬功治に代わってトップ下で出場していたが、シーズン中盤以降は鈴木啓太とダブルボランチを組み、浦和の2ndステージ優勝などに大きく貢献した。この年はナビスコカップ・ニューヒーロー賞、Jリーグ・ベストイレブンに選出された。
2005年から2007年の間も鈴木啓太と中盤の底でコンビを組み、J1優勝やAFCチャンピオンズリーグ優勝をはじめとした浦和のタイトル獲得にレギュラーとして貢献した。2005年末に初めて日本代表に選ばれたが、2006年のワールドカップの代表メンバーからは漏れてしまう。その後、イビチャ・オシムが監督を務めると日本代表に復帰したが、2007年はシーズン序盤に負傷したこともあって代表戦の出場機会はなく、同年12月に代表監督に再任した岡田武史に選ばれるまでは日本代表から遠ざかっていた。
ヴォルフスブルク[編集]
競争を恐れない。むしろ歓迎する。
出典長谷部誠の名言 | 好きな言葉、名言で一日を始める【朝メール】
競争は自分を進化させてくれる。
出典長谷部誠の名言 | 好きな言葉、名言で一日を始める【朝メール】
次第にそう思うようになると競争が怖くなくなった。
当初は、「周りが自分をどのように見ているか」がとても気になった。でもね、よくよく考えてみると、誰も僕のことなんて気にしていないんですよ(笑)。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
常に結果を残し続けないと、次のステップに行けない。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
●「コミュニケーション」論
コミュニケーションにおいては、どちらも対等な関係であるべきだ。
出典長谷部誠の名言 | 好きな言葉、名言で一日を始める【朝メール】
たとえば、選手とサポーターの関係でも、どちらが偉いとかはなく、同じ目線で接するべきだと思う。
「上から目線」というのは、人と付き合ううえで、絶対にプラスにはならない。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
偉そうにしたり、知識を見せびらかしたり、自分を実際以上に大きく見せようとしたりすると相手は不快な思いをする。
相手に媚を売ったり、ゴマをすったり、下手に出るのは自分自身を貶めることになってしまう。
出典長谷部誠の名言 | 好きな言葉、名言で一日を始める【朝メール】
誰に対しても視線をフラットに保つ。そうすれば余分な軋轢も生まず、より安心して仕事に打ち込めるのではないだろうか。
出典長谷部誠の名言 | 好きな言葉、名言で一日を始める【朝メール】
●「メンタルを強くする」
無駄走りはすごく大切。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
本を読むのは、メンタルのトレーニングの要素はある。心の筋トレみたいなものかな。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
チームって個が集まってできるものだから、自分が、自分がってなったらダメだと思う。
出典チームって個が集まってできるものだから、自分が、自分がってなったらダメだと思う。(長谷部誠)
たくさん考えて悩んでやってそれでもダメだったら納得するけど、そういうのをやらないでダメとなったら凄く嫌だから。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
答えがないようなことを延々と考えすぎて、迷いが生まれているときにどう切り替えるか。そういうときに僕は身近なところにいる「頑張っている人」を目にするようにしている。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」—長谷部誠の名言まとめ | ihayato.書店
勝てずとも、負けなければ、強い気持をかぶせていけば、技術を生かすことができる。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
「愚痴は言わない」
愚痴や言い訳は大嫌い。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
愚痴というのは一時的な感情のはけ口になって、ストレス解消になるのかもしれないけれど、あまりにも安易な解決策だ。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
努力や我慢は秘密にすべきだ。
なぜなら、周囲からの尊敬や同情は自分の心の中に甘えを呼び込んでしまうから。同情や心配は、心を乱す雑音になってしまう。
●「万全の準備」を
ドイツには「整理整頓は、人生の半分である」ということわざがある。日頃から整理整頓を心がけていれば、それが生活や仕事に規律や秩序をもたらす。
出典長谷部誠の名言: 心に響く名言集
だから整理整頓は人生の半分と言えるくらい大切なんだ、という意味だ。このことわざに、僕も賛成だ。
お気に入り詳細を見る 普段からやるべきことに取り組み、万全の準備をしていれば、運が巡ってきたときにつかむことができる。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
たぶん、運は誰にでもやってきていて、それを活かせるか、活かせないかは、それぞれの問題だと思う。
「最悪を想定する」
何が起きてもそれを受け止める覚悟。
大切なのは悪い時に自分がどう考えるか。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
最悪を想定するのは、「失敗するかもしれない」と弱気になるためではなく、何が起きてもそれを受け止める覚悟があるという「決心を固める」作業でもあるからだ。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
「自分の弱さ」を知る大切さ
僕自身、自分が未熟で弱い人間だ。
なぜこのように「心を整える」ことを重視しているのかというと、僕自身、自分が未熟で弱い人間だと認識しているからです。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
強がってばかりいてもすぐに一杯になってしまいますし、自分の弱さを知ってこそ、人は他人に優しくなれるのではないでしょうか
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
スポーツ、
第10日順々決勝。3月31日(月)
1. 第1試合 福知山成美(近畿) 対 履正社(近畿)
#、見どころ
ともに1、2回戦で計18得点と打線が好調で、投手陣の出来が鍵となる。緩急が武器の福知山成美・石原は直球にも球威が出て上り調子。初戦で溝田が完封した履正社は、2回戦は永谷がロングリリーフで好投。起用法も注目される。
福知山成美【京都】
1番遊 西田 6、 2 番右 木村典 9 、3番 捕 佐野 2
4番 三 前田 5 、5番 一 西元 3、 6番 左 藤田 7
7番 二 大村 12 、8番 中 木村宗 8、9番 投 石原 1
履正社【大阪】
1番 二 井上 4 、2番 三 辻 5 、3番 遊 吉田 6 、
4番 左 中山 7 、5番 右 西村 9 、6番 捕 八田 2 、
7番 一 絹田 14、 8番 中 立石 8、9番、 投 溝田 1 、
継投:
[福知山成美]石原 左腕、足立
[履正社]溝田悠人 右腕、永谷、
本塁打:
[福知山成美]
[履正社]
6対2で履正社勝利。
2.第2試合 豊川(東海) 対-沖縄尚学(九州)
#,見どころ
2試合計1失点の右腕・山城を中心に安定感抜群の沖縄尚学は、2回戦で12安打8得点と打線も上向いてきた。2試合連続2桁安打の豊川は、2回戦で3安打したリードオフマンの中村ら左打者が山城攻略の糸口をつかみたい。
【豊川】
1番 三 中村 5 、2番 中 杉浦 8、 3番 捕 氷見 2 、
4番 遊 高桑 6、 5番 一 伊藤 3、 6番 右 武市 9 、
【沖縄尚学】
1番 中 赤嶺謙 8、2番右 久保 9、 3番 左 西平 7、
4番 三 安里 5、 5番 一 上原康 3、 6番遊 砂川 6、
7 捕 伊良部 2 、8番 投 山城 1、 9番 二 中村 13、
先発、
【沖縄尚学】山城右腕、久保右腕、
【豊川】田中右腕、
6対2で豊川勝利。
3..第3試合 佐野日大(関東)対 明徳義塾(四国)
#,見どころ
ともに2試合続けて接戦を制した。打力は明徳義塾が上回るが、左投手に苦戦する試合が続いている。佐野日大の好左腕・田嶋をどう攻めるか。中1日の明徳義塾は、1、2回戦で計327球を投げたエース岸のコンディションも気掛かり。
【佐野日大】
1番遊 竹村 6 、2番 中 長沢 8、 3番 二 吉田 4、
4番 左 稲葉 7 、5番 右 小泉 9、 6番 一 田村 3、
7番 三 柿沢 5、 8番 投 田嶋 1、 9番 捕 佐川 2、
【明徳義塾】
1番 三 尾崎 5 、2番 右 真田 9、 3番 左 多田 7、
4番 一 西岡 11、 5番 投 岸 1、 6番 遊 安田 6
7番 二 森 4 、8番 捕 水野 13 、9番 中 大谷 8、
先発、
【明徳義塾】岸右腕、
【佐野日大】田島左腕、
延長11回7対5で佐野日大勝利。
4.第4試合 桐生第一(関東)対龍谷大平安(近畿)
#,見どころ
龍谷大平安は強打ばかりではなく、2試合で計11盗塁と機動力も発揮。攻守にすきがない。桐生第一は、8強で唯一の3日連戦。ここまで3完投の山田の疲労は否めない。今大会13打数6安打の柳谷をはじめとする打線の援護が欠かせない。
【桐生第一】
1番 左 吉田 7 、2番 二 石井 4、 3番 右 柳谷 9、
4番 一 山田 1 、5番 捕 小野田 2 、6番 中 久保 8、
7番 三 久保田 5 、8番 遊 高橋 6 、9番 投 東宮 11、
【龍谷大平安】
1番 中 徳本 8、 2番 右 大谷 9 、3番 二 姫野 4、
4番 一 河合 3、 5番 左 中口 7 、6番 三 常 5 、
7番 遊 石川 6 、8番 捕 高橋佑 2、9番 投 元氏 18、
先発、
【龍谷大平安】元氏怜仁左腕、田中、高橋圭二左腕、
【桐生第一】東宮万左腕、糸井右腕、高野左腕、山田智輝右腕、
延長10回5対4で龍谷大平安サヨナラ勝利。
2. 楽天、13安打で4年ぶり開幕3連勝!西武は35年ぶり開幕3連敗
スポニチアネックス 3月30日(日)16時42分配信
楽天、13安打で4年ぶり開幕3連勝!西武は35年ぶり開幕3連敗
<西・楽>開幕3連勝を喜び合う楽天ナイン
◇パ・リーグ 楽天7―1西武(2014年3月30日 西武D)
楽天が9回を除く毎回の13安打を放って7―1で西武を下し開幕3連勝。09年に開幕4連勝して以来の快勝発進となった。先発の辛島は5回1/3を投げ3安打、1失点で今季初勝利。
楽天は初回、四球と敵失にボークも絡んで2死二、三塁とし、前日に来日1号を放ったユーキリスが中前へタイムリーを放って2点先制。2回にも嶋の右前打と失策などで築いた2死二塁で、岡島が左越へタイムリー二塁打を放ち加点。
6回に1点を返されたが、7回にも藤田が左中間への二塁打、銀次が四球の一死一、二塁でジョーンズが左翼線へタイムリー二塁打を放ち2点を加えた。8回にも嶋の四球と聖沢、岡島の連打で1死満塁とし、藤田、牧田の適時打で7―1と大量リードした。
西武は序盤、四球などで好機を作るが得点にできず。ようやく6回に浅村が左中間へ今季1号を放つがそこまで。西武は開幕3連敗。所沢に移転した79年に開幕12連敗して以来の足踏み発進となった。初先発の新外国人レイノルズは6回を投げ、7安打3失点(自責0)で初黒星。
3. 絶好調の内川が決勝2号ソロ!ソフトバンク開幕3連勝
サンケイスポーツ 3月30日(日)17時35分配信
絶好調の内川が決勝2号ソロ!ソフトバンク開幕3連勝。
(パ・リーグ、ソフトバンク3-2ロッテ、3回戦、ソフトバンク3勝、30日、ヤフオクドーム)ソフトバンク・内川聖一外野手(31)が、ロッテ戦の八回に決勝の2号ソロを放った。主軸の連日の活躍で、チームは開幕3連勝を飾った。
「前の回に岡島さんがああやって(三者凡退)で締めてくれたので、塁に出ればなんとかなると思いました」
2点を先制したが六回に2-2の同点に追いつかれ終盤へ突入。絶好調の内川が、八回からマウンドに上がったロッテの3番手、カルロス・ロサの代わりばな、2ボールからの3球目を捉え、左中間最深部まで運んだ。
チームは開幕3連勝。内川自身も打率・667(12打数8安打)2本、5打点という強烈な働きっぷりを見せている。
4. “赤っぱG”1敗…阿部、タッチプレー怠るミスで決勝点献上
九回、タッチプレーを怠った阿部。三走・上本も驚いた?(撮影・山田俊介)
(セ・リーグ、巨人3-5阪神、2回戦、巨人1勝1敗、29日、東京ドーム)悪夢のタッチミス…。巨人は29日、阪神2回戦(東京ドーム)の同点で迎えた九回に2点の勝ち越しを許し、3-5で敗れた。決勝点は無死満塁から阿部慎之助捕手(35)がタッチプレーを怠るミスで献上し、原辰徳監督(55)も「ジャイアンツは二度とああいうプレーは起こしません」と苦言。打線も16安打を放ちながら、拙攻の連続で、永遠の宿敵から36年ぶりとなる開幕連勝を逃した。
壮大な球団創設80周年の記念セレモニーが開催された前日28日の開幕戦を上回る4万5028観衆。G党も、虎党も、きつねにつままれた。伝統の一戦。同点で迎えた阪神の九回の攻撃で信じられないミスが起きた。
問題のプレー。無死満塁から阪神の3番・西岡の一ゴロをさばいたロペスはそのまま一塁ベースを踏んですかさず、本塁へ送球。ロペスの素早い身のこなしで、誰もが併殺だと思った…。ところが、阿部はロペスの送球を受けると、すぐに一塁へ返球。球場全体が??? 一瞬の静寂の後に、タッチをされていない三走・上本の本塁生還が認められた。
左翼席の虎党は狂喜乱舞、G党からは深いため息が漏れた。ロペスが一塁を踏んだ時点で打者走者はアウト。本来は阿部が三走にタッチアウトしなければならないが、このプレーには一年に一度あるかないかの偶然と大きな勘違いがあった。
「見えなかった? そうね。確認できなかった。申し訳ない。ベースも見えなかった…」と阿部。西岡が放った打球は一塁線に転がり、ロペスは半身で捕球。本塁に背を向けながらベースを踏んだため、その様子を阿部は確認できなかった。「それしか考えていなかった」と併殺を狙い、一塁へ転送したのだ。
一方のロペスは「一塁ベースがすぐそこにあったので、自分では正しい選択だったと思う。(声をかける?)4万5000人もいるわけだから、言っても聞こえないよ」と振り返った。このミスを防げるとすれば、阿部が一塁塁審のジャッジをしっかり確認することと、送球したロペスが大声とジェスチャーでタッチプレーを促すこと。昨年のゴールデングラブ賞を獲得した両者がそれを怠り、痛い決勝点を与えた。
これで1978年以来、36年ぶりとなる阪神からの開幕連勝を逃し、1勝1敗。202人の球団OBが駆けつけた前夜の余韻も覚めた。原監督も険しい表情で「あのプレーは起こしてはいけないプレー。ジャイアンツは二度とああいうプレーは起こしません」と引き締め直した。
試合後には阿部、ロペス、コーチ陣が集まり、このプレーを再確認した。失敗を糧に残り142試合を戦う。(桜木理)
三走で生還した阪神・上本
「ロペスが一塁ベースを踏んだのは見えた」
打者走者の阪神・西岡
「僕はロペスが(ベースを)踏んだか分からなかったけど、全力で走った」
★公認野球規則7・08
次の場合、走者はアウトになる。(略)
(e)打者が走者となったために、進塁の義務が生じた走者が次の塁に触れる前に、野手がその走者またはその塁に触球した場合。
ただし、後位の走者がフォースプレーで先にアウトになれば、フォースの状態でなくなり、前位の走者には進塁の義務がなくなるから、身体に触球されなければアウトにはならない。
5. <センバツ>履正社が4強1番乗り 福知山成美降す
毎日新聞 3月31日(月)10時12分配信
<センバツ>履正社が4強1番乗り 福知山成美降す
【福知山成美・履正社】一回裏履正社1死二塁、吉田が中越え適時三塁打を放つ=阪神甲子園球場で2014年3月31日、山崎一輝撮影
第86回選抜高校野球大会は第10日の31日、準々決勝4試合。第1試合は福知山成美(京都)と履正社(大阪)が対戦。履正社の3番・吉田の4打点を挙げる活躍などで福知山成美を6-2で降し、準決勝にコマを進めた。履正社の4強入りは83回大会(2011年)以来3年ぶり。
【写真で見る福知山成美・履正社】履正社の吉田、2打席目も三塁打
履正社は初回、吉田の中越え三塁打で、四球で出塁した二走の井上を迎え入れ先制。二回にも満塁の走者を一掃する吉田の2打席連続三塁打など5安打で4点を加えて突き放した。福知山成美は八回に代打・中島の中前適時打など3安打を集め2点を返したが反撃もここまで。
履正社は2回戦の駒大苫小牧戦に続く、溝田、永谷の継投。両投手とも変化を決め球に、ストライク先行の打たせて取る投球で、計7安打を打たれながらも福知山成美に大量得点を許さなかった。
6. <センバツ>佐野日大が延長の熱線を制し春夏通じ初の4強
毎日新聞 3月31日(月)15時47分配信
<センバツ>佐野日大が延長の熱線を制し春夏通じ初の4強
【佐野日大・明徳義塾】力投する佐野日大の先発・田嶋=阪神甲子園球場で2014年3月31日、宮武祐希撮影
第86回選抜高校野球大会は第10日の31日、準々決勝4試合。第3試合は佐野日大(栃木)と明徳義塾(高知)が対戦し、佐野日大が7-5で延長十一回の接戦を制して、春夏を通じて初の甲子園4強を決めた。大会屈指の左腕・田嶋が打たれながらも要所を締め、バックも堅守でもり立てた。
【第3試合の詳報】佐野日大VS明徳義塾 熱戦をワンプレーずつお届けしています
実力校同士が互角の好勝負を展開した。先制したのは佐野日大。一回1死二塁から吉田野タイムリーで1点を奪った。その裏明徳義塾は2死二塁で西岡がセンター前にはじき返して、同点に。佐野日大は2回二塁から佐川がタイムリー打。再び勝ち越した。佐野日大は三回にも田村、柿沢の連続タイムリーでリードを広げた。
佐野日大の左腕・田嶋に五回まで1安打に抑えられていた明徳義塾打線だが、六回に火を噴いた。西岡から水野まで5連続安打で同点。さらに併殺崩れの間に1点を奪い勝ち越した。しかし佐野日大は七回に稲葉の犠牲フライで同点に追いついた。
試合はそのまま延長戦となり、佐野日大が十一回に2死満塁から稲葉、小泉が連続タイムリーで2点を勝ち越し。力投の田嶋がその裏の明徳義塾の攻撃を抑え、逃げ切った。
第1試合は履正社(大阪)が福知山成美(京都)を、第2試合では、豊川(愛知)が沖縄尚学(沖縄)を、それぞれ破って準決勝に進出、1日の準決勝第1試合で対戦する。
7. 豊川 全国制覇まであと2勝 今井監督「目標はそこです」
スポニチアネックス 3月31日(月)13時6分配信
◇第86回選抜高校野球大会準々決勝 豊川6―2沖縄尚学(2014年3月31日 甲子園)
春夏通じて初出場の豊川(愛知)が、昨秋の明治神宮大会覇者・沖縄尚学(沖縄)を下してベスト4入りを果たした。
初回に4安打で3点、2回に2安打で2点を奪い、沖縄尚学のエース山城をKO。3回から登板した相手の2番手・久保からも3回に1点を奪い、序盤の6点リードを右腕エース田中が9安打を浴びながら2失点に抑えて逃げ切った。
今井陽一監督(48)は「本当に選手諸君が一生懸命粘り強く戦った結果だと思います」と笑顔で、「バットをひと握り短く持って、球速に負けないようにコンパクトに振るように指示した。ファーストストライクからフルスイングしよう、打席で悔いのないようにと言いました」と振り返った。
守りでは、右腕エース田中が延長13回で186球を投げた1回戦の日本文理(新潟)戦から3試合連続の完投勝利。「仲間が点を取ってくれて楽に、冷静に投げられた。準決勝まで進出できて素直にうれしい」と声を弾ませれば、捕手として田中を好リードする一方で打者としても初回の先制打を含む3安打と大活躍の氷見は「(先制の場面は)迷うことなくバットが出た。田中は僕の要求通りに内角を突いてくれました」とし、「練習から甲子園で日本一を取ろうと臨んでいます」と初出場での頂点獲りを宣言。
今井監督も、「前の試合でも言いましたが、センバツに出場する以上、日本一への挑戦権を得たと思っている。目標はそこです」と、堂々と「あと2勝」を誓った。
ニュース、
1. 2014年3月1日
創業者。
30.住友商事、田路舜哉3/1
概要[編集]
戦前の住友には独立した商事部門がなく、住友商事は、戦後発足した商事会社であることから「遅れてきた商社」と呼ばれていた時代があった。これは、住友第三代総理事鈴木馬左也によって1921年(大正10年)に言い渡された「商社設立禁止宣言」のためで、これ以降、住友では「商社の開設」は禁句となった。
しかし、第二次世界大戦の敗戦で住友本社の解体が決定的となり、住友本社職員および日本各地、外地からの引揚者のために職場を開設することが緊急課題となり、さし当たって大資本を必要とせず、大量雇用も可能な商事会社の設立案が浮上した。しかし、戦後の経済情勢で独立の商社設立が困難なため、不動産・建設会社で資産内容が良好な住友土地工務に商事部門を併設することになった(このため、住友商事の法人設立日は、住友土地工務の前身である大阪北港の設立日である)。
この商事部門の統轄責任者として田路舜哉が就任し、社名を日本建設産業と改め1945年(昭和20年)に商事活動をスタートした。ただ、戦前商事会社がなかった住友には、商事に熟達した人材がおらず、さらに住友の禁を破って設立された商事会社であることから、住友グループ内からも異端児扱いされ厳しい船出となった。このような状況下で、田路社長時代の積極拡大路線によって1957年(昭和32年)には年間売上高でベストテン入りを果たし、第四代社長植村光雄時代には、「ビッグ・スリー アンド ベスト・ワン」(売上高第三位、利益第一位)を全社ビジョンとし、1983年(昭和58年)に利益第1位となった。
住友商事は、長年に渡って大阪に本社を構えていたが、1970年(昭和45年)11月に大阪・東京の2本社制に再編し、その後2001年(平成13年)の組織再編により本社は東京のみとなった。住友グループの企業の特徴として、住友財閥が大阪を拠点(住友村)にしていたことから大阪・東京の2本社制の特徴がある。
かつては十大商社(三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、兼松、ニチメン、安宅産業)の一角を占めた。
沿革[編集]
沿革[編集]
1919年(大正8年)12月 - 大阪北港株式会社(資本金3500万円)として設立。
1944年(昭和19年)11月 - 株式会社住友ビルディングを合併して、住友土地工務株式会社と改称。
1945年(昭和20年)11月 - 新たに商事部門への進出を図り社名を日本建設産業株式会社と改称し、商事会社として発足する。
1949年(昭和24年)8月 - 大阪・東京・名古屋の各証券取引所に株式を上場。
1950年(昭和25年)7月 - 日建設計工務株式会社(現:日建設計)を新設。
1952年(昭和27年)6月 - 社名を住友商事株式会社と改称。
1955年(昭和30年)6月 - 福岡証券取引所に株式を上場。
1962年(昭和37年)12月 - 大阪・東京の営業部門を一体とし商品本部制を実施、鉄鋼・非鉄金属・電機・機械・農水産・化成品・繊維・物資燃料・不動産の9本部を設置。
1970年(昭和45年)11月 - 本社および東京支社の名称を廃止し、大阪本社および東京本社と改称。
1973年(昭和48年)11月 - フランクフルト証券取引所に株式を上場。
1978年(昭和53年)7月 - 英文社名としてSUMITOMO CORPORATION (SUMITOMO SHOJI KAISHA, LTD.) を採用。
1979年(昭和54年)6月 - 営業部門制を実施、商品本部を鉄鋼・機電・非鉄化燃・生活物資の4営業部門とする。
1996年(平成8年)6月 - トレーダーの非鉄金属部長の浜中泰男が銅地金の不正取引で同社に2,850億円の損害を与えたことが発覚。さらに直後の株主総会では役員退職慰労金に関する株主の質問をさえぎって議事進行を強行。そのため株主代表訴訟および総会決議取消訴訟に発展した。
1998年(平成10年)2月 - 経営理念・行動指針を制定。
2001年(平成13年)4月 - 大阪本社および東京本社の名称を廃止し、6グループのコーポレート部門と9事業部門28本部の営業部門からなる本社に再編。関西、中部および九州・沖縄地域においてブロック制を導入。
2001年(平成13年)5月 - 千代田区一ツ橋から中央区晴海一丁目に本社移転。
2007年(平成19年)10月 - ベトナム住友商事を設立。
2008年(平成20年)4月 - 同社と昭和シェル石油は、LPG事業の経営会社を統合し、エネサンスホールディングスとする。
2010年(平成22年)4月 - 営業部門に新産業・機能推進事業部門を新設する一方、金融・物流事業部門を同事業部門に統合・廃止(7事業部門・25本部体制に変更なし)。
歴代社長[編集]
初代 - 田路舜哉、第二代 - 津田久、第三代 - 柴山幸雄、第四代 - 植村光雄
第五代 - 伊藤正、第六代 - 秋山富一、第七代 - 宮原賢次、第八代 - 岡素之
第九代 - 加藤進、第十代 - 中村邦晴
2. 2014年3月2日
創業者。
31.伊藤忠商事、伊藤忠兵衛3/2
伊藤忠兵衛 (いとう ちゅうべえ)、天保13年7月2日(1842年8月7日) - 1903年(明治36年)7月8日)は日本の商人、実業家。伊藤忠商事・丸紅という2つの大手総合商社を創業し、多角的経営によって伊藤忠財閥を形成した。
会社概要
[写真] 伊藤忠商事株式会社は、1858年初代伊藤忠兵衛が麻布の行商で創業したことにはじまり、一世紀半にわたり成長を続けてまいりました。
現在は世界66ヶ国に約130の拠点を持つ大手総合商社として、繊維、機械、金属、エネルギー、化学品、食料、住生活、情報、保険、物流、建設、金融の各分野において国内、輸出入及び三国間取引を行うほか、国内外における事業投資など、幅広いビジネスを展開しております。
3. 2014年2月3日
創業者。
32.丸紅、伊藤忠兵衛3/3。済
歴史[編集]
1858年、初代伊藤忠兵衛が麻布の「持下り」行商を開始したことをもって創業としている。そのため、同業の伊藤忠商事株式会社(以下「伊藤忠」)とは同根。その後、いったん伊藤忠と分割されたものの、戦時中に再度合併(大建産業)、戦後の財閥解体措置により再度両社は分割され、1949年に現在と直接つながる丸紅株式会社が設立された。
社名は、創業者の伊藤忠兵衛が、「紅は高貴な色である」として実家の屋号「紅長」から1文字をとった「紅忠」という商号を使用して、○の中に紅という文字を入れた印を暖簾や半纏に使ったことに由来する。
1960年代から1970年代前半には三菱商事・三井物産と並んでスリーエムと称される総合商社トップ3の一角であったが、その後伊藤忠が安宅産業を合併して力を付けたことや、住友商事の台頭、さらにはロッキード事件の影響などもあって、現在では総合商社(三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅、豊田通商、双日)中、第5位に甘んじている。
1997年のアジア通貨危機によって各商社は甚大な負債や不良債権を抱え、それによって丸紅も一時倒産の危機に直面したものの、中期再建計画である@ction21 A Planに沿って業績のV字回復を達成する。その後は、他商社とともに「商社夏の時代」を謳歌している。特に丸紅は、伝統的に電力部門や紙・パルプ部門、食料部門に強みを持っている他、空前の資源高の恩恵、またはリスク・マネジメントの強化などもあって、2013年3月期は2期連続で過去最高益を更新した。
かつては十大商社(三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、兼松、ニチメン、安宅産業)の一角を占めた。
旧大阪本社(旧本店)は、本店・本社機能を東京へ移転して支社へ格下げされた。
沿革[編集]
1858年5月 伊藤忠兵衛が麻布類の卸売業として大阪に創業。
1872年1月 紅忠(べんちゅう)を創立する。
1914年12月 伊藤忠合名会社に改組する。
1918年12月 伊藤忠合名会社を株式会社伊藤忠商店(丸紅の前身)と伊藤忠商事株式会社に分割する。
1921年3月 伊藤忠商店と伊藤長兵衛商店(伊藤忠兵衛の兄の六代伊藤長兵衛が創立)が合併して、株式会社丸紅商店となる。初代社長には七代伊藤長兵衛が就任する。
1941年9月 丸紅商店、伊藤忠商事、岸本商店の3社が合併して、三興株式会社となる。
1944年9月 三興、大同貿易、呉羽紡績の3社が合併して、大建産業となる。
1949年12月1日 大建産業が過度経済力集中排除法の適用を受け、4社(伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績、尼崎製釘所)に分割され、丸紅株式会社として設立される。
1955年9月 貿易会社の高島屋飯田株式会社(高島屋系)と合併し、商号を丸紅飯田株式会社に変更する。
1966年4月 東通株式会社(旧・浅野財閥)を合併する。その際に管理本部機能の殆どを大阪本社から東京支店に移した。
1972年1月 商号を丸紅株式会社に変更する。
1973年1月 株式会社南洋物産を合併する。
2001年10月 伊藤忠商事株式会社と鉄鋼製品部門を統合し、伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社が発足する。
2003年6月 本店を大阪市中央区から東京都千代田区に移転する。
歴代社長[編集]
丸紅株式会社発足後。名前の後ろは在任期間。
市川忍:1949年12月~1964年5月
檜山廣:1964年5月~1975年5月
松尾泰一郎:1975年5月~1981年5月
池田松次郎:1981年5月~1983年4月
春名和雄:1983年4月~1987年6月
龍野富雄:1987年6月~1992年8月
鳥海巖:1992年8月~1999年4月
辻亨:1999年4月~2003年4月
勝俣宣夫:2003年4月~2008年4月
朝田照男:2008年4月~2013年4月
國分文也:2013年4月~(現職)
4. 2014年2月4日。
創業者。
32.NEC、日本電気、岩垂邦彦
岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857年10月2日) - 昭和16年(1941年)12月20日)は技術者、日本の実業家。日本で最初の外資との合弁企業である日本電気株式会社の創業者。勲五等。
来歴[編集]
豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町、旧・豊津町)に小倉藩士・喜田村修蔵の次男として生まれる。修蔵は岩垂家から喜田村家に婿養子として入ったが、岩垂家の後嗣がなかったため、邦彦が岩垂家を継ぐこととなった。1868年(明治元年)[要検証 – ノート]に修蔵が東京で暗殺されたため、仇討ちを志して兄とともに上京した。しかし、国家に尽くすことが真の孝行と考えて仇討ちを断念し、豊津に戻ると1870年(明治3年)[要検証 – ノート]に小倉藩が開校した育徳館およびその分校である洋学校で学ぶ。1875年(明治8年)に再度上京して同年10月工学寮の予備教育校に入学。翌年4月に工学寮(在学中に工部大学校に改組)に官費入校した。1882年(明治15年)に工部大学校電信科(現:東京大学工学部)卒業後、工部省の電気技師として従事する。1886年(明治19年)に横浜にあるフレーザー商会の紹介状を手に渡米し、エジソン・マシンワークス(現:ゼネラル・エレクトリック)に入社。テスティング・ルームと呼ばれるトーマス・エジソンの施設で勤務する。
1888年(明治21年)に大阪電燈(関西電力の前身企業の一つ)の設立にあたり、技師として招聘を受けるとともに発電機の調達を求められる。この際、当時の電流戦争でエジソンが直流を主張していたにもかかわらず、岩垂は交流を支持。エジソン・マシンワークスと対立するトムソン・ウェスタンから交流発電機を調達した。帰国後、大阪電燈の技師長に就任。その後、大阪電燈が発電機などを自社生産する動きを見せると、トムソン・ウェスタンが合併したゼネラル・エレクトリック(GE)との信義にもとるとして退社。1894年(明治27年)、岩垂電気商店を設立した。GEは日本での販売代理権を岩垂に与え、岩垂電気商店はGE製品の輸入販売を手がけた。
1895年(明治28年)、ウェスタン・エレクトリック(AT&Tテクノロジーからルーセント・テクノロジーズを経て現・アルカテル・ルーセント)の販売代理権を得て営業代理に配属。これを期に岩垂とウェスタン・エレクトロニック社とパートナーシップを結ぶことになった。1898年(明治31年)3月、ウェスタン・エレクトリックは、沖電機工場(現・沖電気工業)に合弁会社の設立を申し入れ、日本での代理人であった岩垂は、沖牙太郎の申し出により仲介者として交渉に当たったが[1][2]、条件が折り合わずに交渉は不成立となる[2][3]。決裂理由として沖が技術国産主義に拘ったなどの説がある[1][4][5][6][7]。これを受け、岩垂は自ら会社を興して合弁の受け皿とすることを申し出て新会社が同年8月に発足した。その翌年、日本及び欧米諸国間の条約が改正されて合弁会社設立へとなり、1899年(明治32年)7月17日に日本電気株式会社を設立、取締役専務に就任した。
1926年(大正15年)に取締役会長に就任し、1929年(昭和4年)に退任した。1934年(昭和9年)、これまでの功績が称えられ、勲五等瑞宝章を受章した。
2009年11月、故郷のみやこ町にある福岡県立育徳館中学校・高等学校(育徳館の後身)に記念碑が建立された。
概要[編集]
有線・無線通信機器(IP電話網、携帯電話基地局、テレビジョン放送設備、ITS、鉄道無線、船舶無線、航空無線、宇宙通信等)、コンピュータ(パーソナルコンピュータからメインフレーム、スーパーコンピュータまで)およびITサービスを主力事業としている。
日本のマイコン、パーソナルコンピュータ市場では黎明期より手がけ、1976年(昭和51年)のTK-80のリリースで、日本のマイコン市場の活性化に努めた。
日本において「NEC」という名称で親しまれているものに、パーソナルコンピュータ(PC)がある。長らくNECおよびその関連企業によって製造がおこなわれてきたが、2011年7月にレノボとの合弁で発足したレノボNECホールディングス(NECの出資比率は49%)の子会社であるNECパーソナルコンピュータに移管された[9]。ただし、国内市場では引き続きNECブランドのPCが製造販売され、企業向けPC(Mate・VersaPro)についてはNECパーソナルコンピュータが製造、日本電気本体が販売を担っている。携帯電話および半導体集積回路(IC)事業は、それぞれNECカシオ モバイルコミュニケーションズおよびルネサスエレクトロニクスに分社化され、NECはこれらの会社の筆頭株主となっている。
また、ITとネットワーク(NW)の融合を掲げ、成長市場であるクラウドコンピューティングによるITサービスやプラットフォームの提供、NGNやスマートグリッドなどのキャリアネットワークや社会インフラの構築にも力を入れている。
ブランドステートメントは「Empowered by Innovation」である。
5. 2014年3月5日。
創業者。
36.東芝、田中久重3/5
田中 久重(たなか ひさしげ)、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)1月11日)は江戸時代から明治にかけて「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した日本の発明家である。筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)生まれ。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。
...
東芝のルーツ
東芝のルーツは、「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重と、「日本のエジソン」としてその名を知られた藤岡市助の遺伝子が結びついたことにはじまります。彼らから連綿と息づく「飽くなき探究心と熱い情熱」は東芝の「今」に継承されています。
継承
万般の機械考案の依頼に応ず
東芝の歴史は、田中久重が銀座に開いた工場兼店舗に掲げたこの看板の文字から始まりました。
からくり儀右衛門と呼ばれた田中久重は江戸時代を代表する偉大な発明家の一人でした。
また電気の父、藤岡市助は日本のエジソンとしてその名を知られていました。
後にこの二人の巨人が一緒になることにより、東芝の前身「東京芝浦電気」が生まれたのです。彼らの「飽くなき探究心と熱い情熱」、「イノベーションへの挑戦」は現在の東芝に引き継がれています。
東芝のあゆみ
久重が興した重電機製造の流れと、市助によるエレクトロニクス分野の流れを年表で紹介します。
田中久重ものがたり
日本近代の幕開けの時代、モノづくりへ挑戦し続けた発明家・技術者の生き方にせまります。
6. さらばジャンボ 就航44年、最後の1機きょう退役
産経新聞 3月31日(月)7時55分配信
さらばジャンボ 就航44年、最後の1機きょう退役
「ジャンボジェット」の愛称で親しまれたボーイング747 =東京・羽田空港(小野淳一撮影)(写真:産経新聞)
「ジャンボジェット」の愛称で親しまれ、大量輸送時代を支えたボーイング747が31日、日本の民間旅客機として初就航して以来約44年にわたる歴史に幕を下ろす。最後の1機を保有する全日空の那覇発羽田行き126便がラストフライトとなる。機体の老朽化と燃費性能の悪さが退役の理由だが、それでも往年の花形機種との別れを惜しむ航空ファンらの声は少なくない。
◆日本100機以上を導入
ジャンボを国内で初めて導入したのは日航だった。昭和45年7月1日、1番機は羽田発ホノルル線を飛行し、47年8月には国内線にも就航。全日空も一足遅れて54年に国内線で、61年には国際線でそれぞれ運航をスタートした。
左右の翼には計4基の大型エンジンが搭載され、客席は2階を含め500超。導入数は日航が最大で112機、全日空も47機と世界有数の「ジャンボ大国」となった。
ジャンボは、かつて高価だった海外旅行を身近なものに変えた。従来の機材の3倍近い座席数を保有するジャンボでは1座席あたりのコストが下がり、大幅な団体割引運賃が導入されたからだ。44年に49万人だった海外旅行者数は45年に66万人、47年には139万人に上り100万人の大台を一気に突破した。
旅行会社ジャルパック(東京都品川区)の二宮秀生社長は「ジャンボが海外旅行の大衆化に大きな役割を果たしたことは間違いない」と振り返る。
海外旅行ブームを牽引(けんいん)し花形機種として乗客らに親しまれたジャンボ。しかし、導入から15年後の60年、群馬県の御巣鷹山に日航機が墜落し、単独事故としては航空史上最悪の520人が犠牲となった。
◆「油食い虫」経営圧迫
近年の燃油高騰によって燃費の悪さから「油食い虫」と呼ばれた機体の維持は経営を圧迫するようになり、軽量で燃費性能の高い新鋭機に道を譲ることに。平成23年3月に日航は国内と国際線、全日空は国際線からそれぞれ引退した。
全日空は国内線の最終運航を控え各地でジャンボの記念運航を行っているが、別れを惜しむファンらでいずれも盛況。31日のラストフライトは予約受け付け開始とほぼ同時に満席に。31日の126便は那覇空港を午後0時35分にたち、羽田空港に午後3時ごろ到着予定。全日空広報部は「想像以上の反響で驚いている。感謝の気持ちを持ち、最後までしっかり運航したい」としている。
#、為替、102.円。ユーロ、141.41円。
#、ダウ、16323.06ドル。+58.88ドル。ユーロ4155.75、+5.52。
#、日経前場円。円。後場14827.93円。+131.80円。
最近更新された名言
4.長谷部誠の名言3/31
生い立ち[編集]
静岡県藤枝市出身。祖父が「誠」と命名。3歳のときにサッカーアニメ「キャプテン翼」の大空翼に憧れてサッカーを始め、藤枝市立青島東小学校のスポーツ少年団、藤枝市立青島中学校サッカー部を経て、静岡県の名門藤枝東高校に入学。同期には岡田佑樹、金澤大将などがいる。2年の終わり頃からレギュラーとしてプレーした[2]。U-18日本代表候補への選出、全国総体準優勝などの実績はあるものの高校サッカー選手権出場は果たせなかった[3][4]。当時のコーチや対戦相手の監督からは能力は高いもののフィジカルが弱すぎると評価されていた。静岡県内のプロクラブへの入団を希望していたがオファーが届かず、県選抜でのプレーを見た浦和のスカウトから誘いを受け[4]、この他には名古屋からも興味を示されていた[5]。
浦和レッズ[編集]
エピソード[編集]
ゴールを決めたときに天に向かって人差し指を突き上げるゴールパフォーマンスをする。これはプロ1年目のときに亡くなった祖父を想ってのことである。祖父は長谷部が大学進学かプロ入りかを迷っていたとき、周囲がプロ入りに反対する中でも「男なら挑戦してみろ」と背中を押してくれたという[13]。
Mr.Childrenの大ファンでブログにて好きな曲ベスト10を発表しているほか[14]、長谷部を特集した2011年7月10日放送の「ソロモン流」の中で桜井和寿との対談が実現している。また、2012年4月から自身が出演するキリンビバレッジ 『大人のキリンレモン』のCMには、本人が大好きな楽曲であるという縁から、「youthful days」がCMソングとして起用された。[15]
ワールドカップ南アフリカ大会での活躍により、2010年7月に藤枝市スポーツ栄誉顕彰を授与された[16]。
2011年3月に幻冬舎から出版した自己啓発書『心を整える。』から得た印税は全額を同月に発生した東日本大震災の支援のために日本ユニセフに寄付することを決めた[17]。本は9月までに100万部を売り上げ、スポーツ選手の著書としては初のミリオンセラーとなった[18]。2013年3月のビルト紙によると、売上は140万部を超えており寄付額も180万ユーロに達している[19]。
高校卒業と同時に、浦和レッズに入団。1年目はほとんど出場機会がなかったが、2年目の2003年はトップ下やボランチの選手として年間通して出場機会を得た。そして、3年目の2004年はシーズン当初こそ山瀬功治に代わってトップ下で出場していたが、シーズン中盤以降は鈴木啓太とダブルボランチを組み、浦和の2ndステージ優勝などに大きく貢献した。この年はナビスコカップ・ニューヒーロー賞、Jリーグ・ベストイレブンに選出された。
2005年から2007年の間も鈴木啓太と中盤の底でコンビを組み、J1優勝やAFCチャンピオンズリーグ優勝をはじめとした浦和のタイトル獲得にレギュラーとして貢献した。2005年末に初めて日本代表に選ばれたが、2006年のワールドカップの代表メンバーからは漏れてしまう。その後、イビチャ・オシムが監督を務めると日本代表に復帰したが、2007年はシーズン序盤に負傷したこともあって代表戦の出場機会はなく、同年12月に代表監督に再任した岡田武史に選ばれるまでは日本代表から遠ざかっていた。
ヴォルフスブルク[編集]
競争を恐れない。むしろ歓迎する。
出典長谷部誠の名言 | 好きな言葉、名言で一日を始める【朝メール】
競争は自分を進化させてくれる。
出典長谷部誠の名言 | 好きな言葉、名言で一日を始める【朝メール】
次第にそう思うようになると競争が怖くなくなった。
当初は、「周りが自分をどのように見ているか」がとても気になった。でもね、よくよく考えてみると、誰も僕のことなんて気にしていないんですよ(笑)。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
常に結果を残し続けないと、次のステップに行けない。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
●「コミュニケーション」論
コミュニケーションにおいては、どちらも対等な関係であるべきだ。
出典長谷部誠の名言 | 好きな言葉、名言で一日を始める【朝メール】
たとえば、選手とサポーターの関係でも、どちらが偉いとかはなく、同じ目線で接するべきだと思う。
「上から目線」というのは、人と付き合ううえで、絶対にプラスにはならない。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
偉そうにしたり、知識を見せびらかしたり、自分を実際以上に大きく見せようとしたりすると相手は不快な思いをする。
相手に媚を売ったり、ゴマをすったり、下手に出るのは自分自身を貶めることになってしまう。
出典長谷部誠の名言 | 好きな言葉、名言で一日を始める【朝メール】
誰に対しても視線をフラットに保つ。そうすれば余分な軋轢も生まず、より安心して仕事に打ち込めるのではないだろうか。
出典長谷部誠の名言 | 好きな言葉、名言で一日を始める【朝メール】
●「メンタルを強くする」
無駄走りはすごく大切。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
本を読むのは、メンタルのトレーニングの要素はある。心の筋トレみたいなものかな。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
チームって個が集まってできるものだから、自分が、自分がってなったらダメだと思う。
出典チームって個が集まってできるものだから、自分が、自分がってなったらダメだと思う。(長谷部誠)
たくさん考えて悩んでやってそれでもダメだったら納得するけど、そういうのをやらないでダメとなったら凄く嫌だから。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
答えがないようなことを延々と考えすぎて、迷いが生まれているときにどう切り替えるか。そういうときに僕は身近なところにいる「頑張っている人」を目にするようにしている。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」—長谷部誠の名言まとめ | ihayato.書店
勝てずとも、負けなければ、強い気持をかぶせていけば、技術を生かすことができる。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
「愚痴は言わない」
愚痴や言い訳は大嫌い。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
愚痴というのは一時的な感情のはけ口になって、ストレス解消になるのかもしれないけれど、あまりにも安易な解決策だ。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
努力や我慢は秘密にすべきだ。
なぜなら、周囲からの尊敬や同情は自分の心の中に甘えを呼び込んでしまうから。同情や心配は、心を乱す雑音になってしまう。
●「万全の準備」を
ドイツには「整理整頓は、人生の半分である」ということわざがある。日頃から整理整頓を心がけていれば、それが生活や仕事に規律や秩序をもたらす。
出典長谷部誠の名言: 心に響く名言集
だから整理整頓は人生の半分と言えるくらい大切なんだ、という意味だ。このことわざに、僕も賛成だ。
お気に入り詳細を見る 普段からやるべきことに取り組み、万全の準備をしていれば、運が巡ってきたときにつかむことができる。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
たぶん、運は誰にでもやってきていて、それを活かせるか、活かせないかは、それぞれの問題だと思う。
「最悪を想定する」
何が起きてもそれを受け止める覚悟。
大切なのは悪い時に自分がどう考えるか。
出典長谷部誠 名言集 言葉のチカラ
最悪を想定するのは、「失敗するかもしれない」と弱気になるためではなく、何が起きてもそれを受け止める覚悟があるという「決心を固める」作業でもあるからだ。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
「自分の弱さ」を知る大切さ
僕自身、自分が未熟で弱い人間だ。
なぜこのように「心を整える」ことを重視しているのかというと、僕自身、自分が未熟で弱い人間だと認識しているからです。
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
強がってばかりいてもすぐに一杯になってしまいますし、自分の弱さを知ってこそ、人は他人に優しくなれるのではないでしょうか
出典「決心を固めるために、最悪を覚悟する」
スポーツ、
第10日順々決勝。3月31日(月)
1. 第1試合 福知山成美(近畿) 対 履正社(近畿)
#、見どころ
ともに1、2回戦で計18得点と打線が好調で、投手陣の出来が鍵となる。緩急が武器の福知山成美・石原は直球にも球威が出て上り調子。初戦で溝田が完封した履正社は、2回戦は永谷がロングリリーフで好投。起用法も注目される。
福知山成美【京都】
1番遊 西田 6、 2 番右 木村典 9 、3番 捕 佐野 2
4番 三 前田 5 、5番 一 西元 3、 6番 左 藤田 7
7番 二 大村 12 、8番 中 木村宗 8、9番 投 石原 1
履正社【大阪】
1番 二 井上 4 、2番 三 辻 5 、3番 遊 吉田 6 、
4番 左 中山 7 、5番 右 西村 9 、6番 捕 八田 2 、
7番 一 絹田 14、 8番 中 立石 8、9番、 投 溝田 1 、
継投:
[福知山成美]石原 左腕、足立
[履正社]溝田悠人 右腕、永谷、
本塁打:
[福知山成美]
[履正社]
6対2で履正社勝利。
2.第2試合 豊川(東海) 対-沖縄尚学(九州)
#,見どころ
2試合計1失点の右腕・山城を中心に安定感抜群の沖縄尚学は、2回戦で12安打8得点と打線も上向いてきた。2試合連続2桁安打の豊川は、2回戦で3安打したリードオフマンの中村ら左打者が山城攻略の糸口をつかみたい。
【豊川】
1番 三 中村 5 、2番 中 杉浦 8、 3番 捕 氷見 2 、
4番 遊 高桑 6、 5番 一 伊藤 3、 6番 右 武市 9 、
【沖縄尚学】
1番 中 赤嶺謙 8、2番右 久保 9、 3番 左 西平 7、
4番 三 安里 5、 5番 一 上原康 3、 6番遊 砂川 6、
7 捕 伊良部 2 、8番 投 山城 1、 9番 二 中村 13、
先発、
【沖縄尚学】山城右腕、久保右腕、
【豊川】田中右腕、
6対2で豊川勝利。
3..第3試合 佐野日大(関東)対 明徳義塾(四国)
#,見どころ
ともに2試合続けて接戦を制した。打力は明徳義塾が上回るが、左投手に苦戦する試合が続いている。佐野日大の好左腕・田嶋をどう攻めるか。中1日の明徳義塾は、1、2回戦で計327球を投げたエース岸のコンディションも気掛かり。
【佐野日大】
1番遊 竹村 6 、2番 中 長沢 8、 3番 二 吉田 4、
4番 左 稲葉 7 、5番 右 小泉 9、 6番 一 田村 3、
7番 三 柿沢 5、 8番 投 田嶋 1、 9番 捕 佐川 2、
【明徳義塾】
1番 三 尾崎 5 、2番 右 真田 9、 3番 左 多田 7、
4番 一 西岡 11、 5番 投 岸 1、 6番 遊 安田 6
7番 二 森 4 、8番 捕 水野 13 、9番 中 大谷 8、
先発、
【明徳義塾】岸右腕、
【佐野日大】田島左腕、
延長11回7対5で佐野日大勝利。
4.第4試合 桐生第一(関東)対龍谷大平安(近畿)
#,見どころ
龍谷大平安は強打ばかりではなく、2試合で計11盗塁と機動力も発揮。攻守にすきがない。桐生第一は、8強で唯一の3日連戦。ここまで3完投の山田の疲労は否めない。今大会13打数6安打の柳谷をはじめとする打線の援護が欠かせない。
【桐生第一】
1番 左 吉田 7 、2番 二 石井 4、 3番 右 柳谷 9、
4番 一 山田 1 、5番 捕 小野田 2 、6番 中 久保 8、
7番 三 久保田 5 、8番 遊 高橋 6 、9番 投 東宮 11、
【龍谷大平安】
1番 中 徳本 8、 2番 右 大谷 9 、3番 二 姫野 4、
4番 一 河合 3、 5番 左 中口 7 、6番 三 常 5 、
7番 遊 石川 6 、8番 捕 高橋佑 2、9番 投 元氏 18、
先発、
【龍谷大平安】元氏怜仁左腕、田中、高橋圭二左腕、
【桐生第一】東宮万左腕、糸井右腕、高野左腕、山田智輝右腕、
延長10回5対4で龍谷大平安サヨナラ勝利。
2. 楽天、13安打で4年ぶり開幕3連勝!西武は35年ぶり開幕3連敗
スポニチアネックス 3月30日(日)16時42分配信
楽天、13安打で4年ぶり開幕3連勝!西武は35年ぶり開幕3連敗
<西・楽>開幕3連勝を喜び合う楽天ナイン
◇パ・リーグ 楽天7―1西武(2014年3月30日 西武D)
楽天が9回を除く毎回の13安打を放って7―1で西武を下し開幕3連勝。09年に開幕4連勝して以来の快勝発進となった。先発の辛島は5回1/3を投げ3安打、1失点で今季初勝利。
楽天は初回、四球と敵失にボークも絡んで2死二、三塁とし、前日に来日1号を放ったユーキリスが中前へタイムリーを放って2点先制。2回にも嶋の右前打と失策などで築いた2死二塁で、岡島が左越へタイムリー二塁打を放ち加点。
6回に1点を返されたが、7回にも藤田が左中間への二塁打、銀次が四球の一死一、二塁でジョーンズが左翼線へタイムリー二塁打を放ち2点を加えた。8回にも嶋の四球と聖沢、岡島の連打で1死満塁とし、藤田、牧田の適時打で7―1と大量リードした。
西武は序盤、四球などで好機を作るが得点にできず。ようやく6回に浅村が左中間へ今季1号を放つがそこまで。西武は開幕3連敗。所沢に移転した79年に開幕12連敗して以来の足踏み発進となった。初先発の新外国人レイノルズは6回を投げ、7安打3失点(自責0)で初黒星。
3. 絶好調の内川が決勝2号ソロ!ソフトバンク開幕3連勝
サンケイスポーツ 3月30日(日)17時35分配信
絶好調の内川が決勝2号ソロ!ソフトバンク開幕3連勝。
(パ・リーグ、ソフトバンク3-2ロッテ、3回戦、ソフトバンク3勝、30日、ヤフオクドーム)ソフトバンク・内川聖一外野手(31)が、ロッテ戦の八回に決勝の2号ソロを放った。主軸の連日の活躍で、チームは開幕3連勝を飾った。
「前の回に岡島さんがああやって(三者凡退)で締めてくれたので、塁に出ればなんとかなると思いました」
2点を先制したが六回に2-2の同点に追いつかれ終盤へ突入。絶好調の内川が、八回からマウンドに上がったロッテの3番手、カルロス・ロサの代わりばな、2ボールからの3球目を捉え、左中間最深部まで運んだ。
チームは開幕3連勝。内川自身も打率・667(12打数8安打)2本、5打点という強烈な働きっぷりを見せている。
4. “赤っぱG”1敗…阿部、タッチプレー怠るミスで決勝点献上
九回、タッチプレーを怠った阿部。三走・上本も驚いた?(撮影・山田俊介)
(セ・リーグ、巨人3-5阪神、2回戦、巨人1勝1敗、29日、東京ドーム)悪夢のタッチミス…。巨人は29日、阪神2回戦(東京ドーム)の同点で迎えた九回に2点の勝ち越しを許し、3-5で敗れた。決勝点は無死満塁から阿部慎之助捕手(35)がタッチプレーを怠るミスで献上し、原辰徳監督(55)も「ジャイアンツは二度とああいうプレーは起こしません」と苦言。打線も16安打を放ちながら、拙攻の連続で、永遠の宿敵から36年ぶりとなる開幕連勝を逃した。
壮大な球団創設80周年の記念セレモニーが開催された前日28日の開幕戦を上回る4万5028観衆。G党も、虎党も、きつねにつままれた。伝統の一戦。同点で迎えた阪神の九回の攻撃で信じられないミスが起きた。
問題のプレー。無死満塁から阪神の3番・西岡の一ゴロをさばいたロペスはそのまま一塁ベースを踏んですかさず、本塁へ送球。ロペスの素早い身のこなしで、誰もが併殺だと思った…。ところが、阿部はロペスの送球を受けると、すぐに一塁へ返球。球場全体が??? 一瞬の静寂の後に、タッチをされていない三走・上本の本塁生還が認められた。
左翼席の虎党は狂喜乱舞、G党からは深いため息が漏れた。ロペスが一塁を踏んだ時点で打者走者はアウト。本来は阿部が三走にタッチアウトしなければならないが、このプレーには一年に一度あるかないかの偶然と大きな勘違いがあった。
「見えなかった? そうね。確認できなかった。申し訳ない。ベースも見えなかった…」と阿部。西岡が放った打球は一塁線に転がり、ロペスは半身で捕球。本塁に背を向けながらベースを踏んだため、その様子を阿部は確認できなかった。「それしか考えていなかった」と併殺を狙い、一塁へ転送したのだ。
一方のロペスは「一塁ベースがすぐそこにあったので、自分では正しい選択だったと思う。(声をかける?)4万5000人もいるわけだから、言っても聞こえないよ」と振り返った。このミスを防げるとすれば、阿部が一塁塁審のジャッジをしっかり確認することと、送球したロペスが大声とジェスチャーでタッチプレーを促すこと。昨年のゴールデングラブ賞を獲得した両者がそれを怠り、痛い決勝点を与えた。
これで1978年以来、36年ぶりとなる阪神からの開幕連勝を逃し、1勝1敗。202人の球団OBが駆けつけた前夜の余韻も覚めた。原監督も険しい表情で「あのプレーは起こしてはいけないプレー。ジャイアンツは二度とああいうプレーは起こしません」と引き締め直した。
試合後には阿部、ロペス、コーチ陣が集まり、このプレーを再確認した。失敗を糧に残り142試合を戦う。(桜木理)
三走で生還した阪神・上本
「ロペスが一塁ベースを踏んだのは見えた」
打者走者の阪神・西岡
「僕はロペスが(ベースを)踏んだか分からなかったけど、全力で走った」
★公認野球規則7・08
次の場合、走者はアウトになる。(略)
(e)打者が走者となったために、進塁の義務が生じた走者が次の塁に触れる前に、野手がその走者またはその塁に触球した場合。
ただし、後位の走者がフォースプレーで先にアウトになれば、フォースの状態でなくなり、前位の走者には進塁の義務がなくなるから、身体に触球されなければアウトにはならない。
5. <センバツ>履正社が4強1番乗り 福知山成美降す
毎日新聞 3月31日(月)10時12分配信
<センバツ>履正社が4強1番乗り 福知山成美降す
【福知山成美・履正社】一回裏履正社1死二塁、吉田が中越え適時三塁打を放つ=阪神甲子園球場で2014年3月31日、山崎一輝撮影
第86回選抜高校野球大会は第10日の31日、準々決勝4試合。第1試合は福知山成美(京都)と履正社(大阪)が対戦。履正社の3番・吉田の4打点を挙げる活躍などで福知山成美を6-2で降し、準決勝にコマを進めた。履正社の4強入りは83回大会(2011年)以来3年ぶり。
【写真で見る福知山成美・履正社】履正社の吉田、2打席目も三塁打
履正社は初回、吉田の中越え三塁打で、四球で出塁した二走の井上を迎え入れ先制。二回にも満塁の走者を一掃する吉田の2打席連続三塁打など5安打で4点を加えて突き放した。福知山成美は八回に代打・中島の中前適時打など3安打を集め2点を返したが反撃もここまで。
履正社は2回戦の駒大苫小牧戦に続く、溝田、永谷の継投。両投手とも変化を決め球に、ストライク先行の打たせて取る投球で、計7安打を打たれながらも福知山成美に大量得点を許さなかった。
6. <センバツ>佐野日大が延長の熱線を制し春夏通じ初の4強
毎日新聞 3月31日(月)15時47分配信
<センバツ>佐野日大が延長の熱線を制し春夏通じ初の4強
【佐野日大・明徳義塾】力投する佐野日大の先発・田嶋=阪神甲子園球場で2014年3月31日、宮武祐希撮影
第86回選抜高校野球大会は第10日の31日、準々決勝4試合。第3試合は佐野日大(栃木)と明徳義塾(高知)が対戦し、佐野日大が7-5で延長十一回の接戦を制して、春夏を通じて初の甲子園4強を決めた。大会屈指の左腕・田嶋が打たれながらも要所を締め、バックも堅守でもり立てた。
【第3試合の詳報】佐野日大VS明徳義塾 熱戦をワンプレーずつお届けしています
実力校同士が互角の好勝負を展開した。先制したのは佐野日大。一回1死二塁から吉田野タイムリーで1点を奪った。その裏明徳義塾は2死二塁で西岡がセンター前にはじき返して、同点に。佐野日大は2回二塁から佐川がタイムリー打。再び勝ち越した。佐野日大は三回にも田村、柿沢の連続タイムリーでリードを広げた。
佐野日大の左腕・田嶋に五回まで1安打に抑えられていた明徳義塾打線だが、六回に火を噴いた。西岡から水野まで5連続安打で同点。さらに併殺崩れの間に1点を奪い勝ち越した。しかし佐野日大は七回に稲葉の犠牲フライで同点に追いついた。
試合はそのまま延長戦となり、佐野日大が十一回に2死満塁から稲葉、小泉が連続タイムリーで2点を勝ち越し。力投の田嶋がその裏の明徳義塾の攻撃を抑え、逃げ切った。
第1試合は履正社(大阪)が福知山成美(京都)を、第2試合では、豊川(愛知)が沖縄尚学(沖縄)を、それぞれ破って準決勝に進出、1日の準決勝第1試合で対戦する。
7. 豊川 全国制覇まであと2勝 今井監督「目標はそこです」
スポニチアネックス 3月31日(月)13時6分配信
◇第86回選抜高校野球大会準々決勝 豊川6―2沖縄尚学(2014年3月31日 甲子園)
春夏通じて初出場の豊川(愛知)が、昨秋の明治神宮大会覇者・沖縄尚学(沖縄)を下してベスト4入りを果たした。
初回に4安打で3点、2回に2安打で2点を奪い、沖縄尚学のエース山城をKO。3回から登板した相手の2番手・久保からも3回に1点を奪い、序盤の6点リードを右腕エース田中が9安打を浴びながら2失点に抑えて逃げ切った。
今井陽一監督(48)は「本当に選手諸君が一生懸命粘り強く戦った結果だと思います」と笑顔で、「バットをひと握り短く持って、球速に負けないようにコンパクトに振るように指示した。ファーストストライクからフルスイングしよう、打席で悔いのないようにと言いました」と振り返った。
守りでは、右腕エース田中が延長13回で186球を投げた1回戦の日本文理(新潟)戦から3試合連続の完投勝利。「仲間が点を取ってくれて楽に、冷静に投げられた。準決勝まで進出できて素直にうれしい」と声を弾ませれば、捕手として田中を好リードする一方で打者としても初回の先制打を含む3安打と大活躍の氷見は「(先制の場面は)迷うことなくバットが出た。田中は僕の要求通りに内角を突いてくれました」とし、「練習から甲子園で日本一を取ろうと臨んでいます」と初出場での頂点獲りを宣言。
今井監督も、「前の試合でも言いましたが、センバツに出場する以上、日本一への挑戦権を得たと思っている。目標はそこです」と、堂々と「あと2勝」を誓った。
ニュース、
1. 2014年3月1日
創業者。
30.住友商事、田路舜哉3/1
概要[編集]
戦前の住友には独立した商事部門がなく、住友商事は、戦後発足した商事会社であることから「遅れてきた商社」と呼ばれていた時代があった。これは、住友第三代総理事鈴木馬左也によって1921年(大正10年)に言い渡された「商社設立禁止宣言」のためで、これ以降、住友では「商社の開設」は禁句となった。
しかし、第二次世界大戦の敗戦で住友本社の解体が決定的となり、住友本社職員および日本各地、外地からの引揚者のために職場を開設することが緊急課題となり、さし当たって大資本を必要とせず、大量雇用も可能な商事会社の設立案が浮上した。しかし、戦後の経済情勢で独立の商社設立が困難なため、不動産・建設会社で資産内容が良好な住友土地工務に商事部門を併設することになった(このため、住友商事の法人設立日は、住友土地工務の前身である大阪北港の設立日である)。
この商事部門の統轄責任者として田路舜哉が就任し、社名を日本建設産業と改め1945年(昭和20年)に商事活動をスタートした。ただ、戦前商事会社がなかった住友には、商事に熟達した人材がおらず、さらに住友の禁を破って設立された商事会社であることから、住友グループ内からも異端児扱いされ厳しい船出となった。このような状況下で、田路社長時代の積極拡大路線によって1957年(昭和32年)には年間売上高でベストテン入りを果たし、第四代社長植村光雄時代には、「ビッグ・スリー アンド ベスト・ワン」(売上高第三位、利益第一位)を全社ビジョンとし、1983年(昭和58年)に利益第1位となった。
住友商事は、長年に渡って大阪に本社を構えていたが、1970年(昭和45年)11月に大阪・東京の2本社制に再編し、その後2001年(平成13年)の組織再編により本社は東京のみとなった。住友グループの企業の特徴として、住友財閥が大阪を拠点(住友村)にしていたことから大阪・東京の2本社制の特徴がある。
かつては十大商社(三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、兼松、ニチメン、安宅産業)の一角を占めた。
沿革[編集]
沿革[編集]
1919年(大正8年)12月 - 大阪北港株式会社(資本金3500万円)として設立。
1944年(昭和19年)11月 - 株式会社住友ビルディングを合併して、住友土地工務株式会社と改称。
1945年(昭和20年)11月 - 新たに商事部門への進出を図り社名を日本建設産業株式会社と改称し、商事会社として発足する。
1949年(昭和24年)8月 - 大阪・東京・名古屋の各証券取引所に株式を上場。
1950年(昭和25年)7月 - 日建設計工務株式会社(現:日建設計)を新設。
1952年(昭和27年)6月 - 社名を住友商事株式会社と改称。
1955年(昭和30年)6月 - 福岡証券取引所に株式を上場。
1962年(昭和37年)12月 - 大阪・東京の営業部門を一体とし商品本部制を実施、鉄鋼・非鉄金属・電機・機械・農水産・化成品・繊維・物資燃料・不動産の9本部を設置。
1970年(昭和45年)11月 - 本社および東京支社の名称を廃止し、大阪本社および東京本社と改称。
1973年(昭和48年)11月 - フランクフルト証券取引所に株式を上場。
1978年(昭和53年)7月 - 英文社名としてSUMITOMO CORPORATION (SUMITOMO SHOJI KAISHA, LTD.) を採用。
1979年(昭和54年)6月 - 営業部門制を実施、商品本部を鉄鋼・機電・非鉄化燃・生活物資の4営業部門とする。
1996年(平成8年)6月 - トレーダーの非鉄金属部長の浜中泰男が銅地金の不正取引で同社に2,850億円の損害を与えたことが発覚。さらに直後の株主総会では役員退職慰労金に関する株主の質問をさえぎって議事進行を強行。そのため株主代表訴訟および総会決議取消訴訟に発展した。
1998年(平成10年)2月 - 経営理念・行動指針を制定。
2001年(平成13年)4月 - 大阪本社および東京本社の名称を廃止し、6グループのコーポレート部門と9事業部門28本部の営業部門からなる本社に再編。関西、中部および九州・沖縄地域においてブロック制を導入。
2001年(平成13年)5月 - 千代田区一ツ橋から中央区晴海一丁目に本社移転。
2007年(平成19年)10月 - ベトナム住友商事を設立。
2008年(平成20年)4月 - 同社と昭和シェル石油は、LPG事業の経営会社を統合し、エネサンスホールディングスとする。
2010年(平成22年)4月 - 営業部門に新産業・機能推進事業部門を新設する一方、金融・物流事業部門を同事業部門に統合・廃止(7事業部門・25本部体制に変更なし)。
歴代社長[編集]
初代 - 田路舜哉、第二代 - 津田久、第三代 - 柴山幸雄、第四代 - 植村光雄
第五代 - 伊藤正、第六代 - 秋山富一、第七代 - 宮原賢次、第八代 - 岡素之
第九代 - 加藤進、第十代 - 中村邦晴
2. 2014年3月2日
創業者。
31.伊藤忠商事、伊藤忠兵衛3/2
伊藤忠兵衛 (いとう ちゅうべえ)、天保13年7月2日(1842年8月7日) - 1903年(明治36年)7月8日)は日本の商人、実業家。伊藤忠商事・丸紅という2つの大手総合商社を創業し、多角的経営によって伊藤忠財閥を形成した。
会社概要
[写真] 伊藤忠商事株式会社は、1858年初代伊藤忠兵衛が麻布の行商で創業したことにはじまり、一世紀半にわたり成長を続けてまいりました。
現在は世界66ヶ国に約130の拠点を持つ大手総合商社として、繊維、機械、金属、エネルギー、化学品、食料、住生活、情報、保険、物流、建設、金融の各分野において国内、輸出入及び三国間取引を行うほか、国内外における事業投資など、幅広いビジネスを展開しております。
3. 2014年2月3日
創業者。
32.丸紅、伊藤忠兵衛3/3。済
歴史[編集]
1858年、初代伊藤忠兵衛が麻布の「持下り」行商を開始したことをもって創業としている。そのため、同業の伊藤忠商事株式会社(以下「伊藤忠」)とは同根。その後、いったん伊藤忠と分割されたものの、戦時中に再度合併(大建産業)、戦後の財閥解体措置により再度両社は分割され、1949年に現在と直接つながる丸紅株式会社が設立された。
社名は、創業者の伊藤忠兵衛が、「紅は高貴な色である」として実家の屋号「紅長」から1文字をとった「紅忠」という商号を使用して、○の中に紅という文字を入れた印を暖簾や半纏に使ったことに由来する。
1960年代から1970年代前半には三菱商事・三井物産と並んでスリーエムと称される総合商社トップ3の一角であったが、その後伊藤忠が安宅産業を合併して力を付けたことや、住友商事の台頭、さらにはロッキード事件の影響などもあって、現在では総合商社(三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅、豊田通商、双日)中、第5位に甘んじている。
1997年のアジア通貨危機によって各商社は甚大な負債や不良債権を抱え、それによって丸紅も一時倒産の危機に直面したものの、中期再建計画である@ction21 A Planに沿って業績のV字回復を達成する。その後は、他商社とともに「商社夏の時代」を謳歌している。特に丸紅は、伝統的に電力部門や紙・パルプ部門、食料部門に強みを持っている他、空前の資源高の恩恵、またはリスク・マネジメントの強化などもあって、2013年3月期は2期連続で過去最高益を更新した。
かつては十大商社(三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、兼松、ニチメン、安宅産業)の一角を占めた。
旧大阪本社(旧本店)は、本店・本社機能を東京へ移転して支社へ格下げされた。
沿革[編集]
1858年5月 伊藤忠兵衛が麻布類の卸売業として大阪に創業。
1872年1月 紅忠(べんちゅう)を創立する。
1914年12月 伊藤忠合名会社に改組する。
1918年12月 伊藤忠合名会社を株式会社伊藤忠商店(丸紅の前身)と伊藤忠商事株式会社に分割する。
1921年3月 伊藤忠商店と伊藤長兵衛商店(伊藤忠兵衛の兄の六代伊藤長兵衛が創立)が合併して、株式会社丸紅商店となる。初代社長には七代伊藤長兵衛が就任する。
1941年9月 丸紅商店、伊藤忠商事、岸本商店の3社が合併して、三興株式会社となる。
1944年9月 三興、大同貿易、呉羽紡績の3社が合併して、大建産業となる。
1949年12月1日 大建産業が過度経済力集中排除法の適用を受け、4社(伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績、尼崎製釘所)に分割され、丸紅株式会社として設立される。
1955年9月 貿易会社の高島屋飯田株式会社(高島屋系)と合併し、商号を丸紅飯田株式会社に変更する。
1966年4月 東通株式会社(旧・浅野財閥)を合併する。その際に管理本部機能の殆どを大阪本社から東京支店に移した。
1972年1月 商号を丸紅株式会社に変更する。
1973年1月 株式会社南洋物産を合併する。
2001年10月 伊藤忠商事株式会社と鉄鋼製品部門を統合し、伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社が発足する。
2003年6月 本店を大阪市中央区から東京都千代田区に移転する。
歴代社長[編集]
丸紅株式会社発足後。名前の後ろは在任期間。
市川忍:1949年12月~1964年5月
檜山廣:1964年5月~1975年5月
松尾泰一郎:1975年5月~1981年5月
池田松次郎:1981年5月~1983年4月
春名和雄:1983年4月~1987年6月
龍野富雄:1987年6月~1992年8月
鳥海巖:1992年8月~1999年4月
辻亨:1999年4月~2003年4月
勝俣宣夫:2003年4月~2008年4月
朝田照男:2008年4月~2013年4月
國分文也:2013年4月~(現職)
4. 2014年2月4日。
創業者。
32.NEC、日本電気、岩垂邦彦
岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857年10月2日) - 昭和16年(1941年)12月20日)は技術者、日本の実業家。日本で最初の外資との合弁企業である日本電気株式会社の創業者。勲五等。
来歴[編集]
豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町、旧・豊津町)に小倉藩士・喜田村修蔵の次男として生まれる。修蔵は岩垂家から喜田村家に婿養子として入ったが、岩垂家の後嗣がなかったため、邦彦が岩垂家を継ぐこととなった。1868年(明治元年)[要検証 – ノート]に修蔵が東京で暗殺されたため、仇討ちを志して兄とともに上京した。しかし、国家に尽くすことが真の孝行と考えて仇討ちを断念し、豊津に戻ると1870年(明治3年)[要検証 – ノート]に小倉藩が開校した育徳館およびその分校である洋学校で学ぶ。1875年(明治8年)に再度上京して同年10月工学寮の予備教育校に入学。翌年4月に工学寮(在学中に工部大学校に改組)に官費入校した。1882年(明治15年)に工部大学校電信科(現:東京大学工学部)卒業後、工部省の電気技師として従事する。1886年(明治19年)に横浜にあるフレーザー商会の紹介状を手に渡米し、エジソン・マシンワークス(現:ゼネラル・エレクトリック)に入社。テスティング・ルームと呼ばれるトーマス・エジソンの施設で勤務する。
1888年(明治21年)に大阪電燈(関西電力の前身企業の一つ)の設立にあたり、技師として招聘を受けるとともに発電機の調達を求められる。この際、当時の電流戦争でエジソンが直流を主張していたにもかかわらず、岩垂は交流を支持。エジソン・マシンワークスと対立するトムソン・ウェスタンから交流発電機を調達した。帰国後、大阪電燈の技師長に就任。その後、大阪電燈が発電機などを自社生産する動きを見せると、トムソン・ウェスタンが合併したゼネラル・エレクトリック(GE)との信義にもとるとして退社。1894年(明治27年)、岩垂電気商店を設立した。GEは日本での販売代理権を岩垂に与え、岩垂電気商店はGE製品の輸入販売を手がけた。
1895年(明治28年)、ウェスタン・エレクトリック(AT&Tテクノロジーからルーセント・テクノロジーズを経て現・アルカテル・ルーセント)の販売代理権を得て営業代理に配属。これを期に岩垂とウェスタン・エレクトロニック社とパートナーシップを結ぶことになった。1898年(明治31年)3月、ウェスタン・エレクトリックは、沖電機工場(現・沖電気工業)に合弁会社の設立を申し入れ、日本での代理人であった岩垂は、沖牙太郎の申し出により仲介者として交渉に当たったが[1][2]、条件が折り合わずに交渉は不成立となる[2][3]。決裂理由として沖が技術国産主義に拘ったなどの説がある[1][4][5][6][7]。これを受け、岩垂は自ら会社を興して合弁の受け皿とすることを申し出て新会社が同年8月に発足した。その翌年、日本及び欧米諸国間の条約が改正されて合弁会社設立へとなり、1899年(明治32年)7月17日に日本電気株式会社を設立、取締役専務に就任した。
1926年(大正15年)に取締役会長に就任し、1929年(昭和4年)に退任した。1934年(昭和9年)、これまでの功績が称えられ、勲五等瑞宝章を受章した。
2009年11月、故郷のみやこ町にある福岡県立育徳館中学校・高等学校(育徳館の後身)に記念碑が建立された。
概要[編集]
有線・無線通信機器(IP電話網、携帯電話基地局、テレビジョン放送設備、ITS、鉄道無線、船舶無線、航空無線、宇宙通信等)、コンピュータ(パーソナルコンピュータからメインフレーム、スーパーコンピュータまで)およびITサービスを主力事業としている。
日本のマイコン、パーソナルコンピュータ市場では黎明期より手がけ、1976年(昭和51年)のTK-80のリリースで、日本のマイコン市場の活性化に努めた。
日本において「NEC」という名称で親しまれているものに、パーソナルコンピュータ(PC)がある。長らくNECおよびその関連企業によって製造がおこなわれてきたが、2011年7月にレノボとの合弁で発足したレノボNECホールディングス(NECの出資比率は49%)の子会社であるNECパーソナルコンピュータに移管された[9]。ただし、国内市場では引き続きNECブランドのPCが製造販売され、企業向けPC(Mate・VersaPro)についてはNECパーソナルコンピュータが製造、日本電気本体が販売を担っている。携帯電話および半導体集積回路(IC)事業は、それぞれNECカシオ モバイルコミュニケーションズおよびルネサスエレクトロニクスに分社化され、NECはこれらの会社の筆頭株主となっている。
また、ITとネットワーク(NW)の融合を掲げ、成長市場であるクラウドコンピューティングによるITサービスやプラットフォームの提供、NGNやスマートグリッドなどのキャリアネットワークや社会インフラの構築にも力を入れている。
ブランドステートメントは「Empowered by Innovation」である。
5. 2014年3月5日。
創業者。
36.東芝、田中久重3/5
田中 久重(たなか ひさしげ)、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)1月11日)は江戸時代から明治にかけて「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した日本の発明家である。筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)生まれ。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。
...
東芝のルーツ
東芝のルーツは、「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重と、「日本のエジソン」としてその名を知られた藤岡市助の遺伝子が結びついたことにはじまります。彼らから連綿と息づく「飽くなき探究心と熱い情熱」は東芝の「今」に継承されています。
継承
万般の機械考案の依頼に応ず
東芝の歴史は、田中久重が銀座に開いた工場兼店舗に掲げたこの看板の文字から始まりました。
からくり儀右衛門と呼ばれた田中久重は江戸時代を代表する偉大な発明家の一人でした。
また電気の父、藤岡市助は日本のエジソンとしてその名を知られていました。
後にこの二人の巨人が一緒になることにより、東芝の前身「東京芝浦電気」が生まれたのです。彼らの「飽くなき探究心と熱い情熱」、「イノベーションへの挑戦」は現在の東芝に引き継がれています。
東芝のあゆみ
久重が興した重電機製造の流れと、市助によるエレクトロニクス分野の流れを年表で紹介します。
田中久重ものがたり
日本近代の幕開けの時代、モノづくりへ挑戦し続けた発明家・技術者の生き方にせまります。
6. さらばジャンボ 就航44年、最後の1機きょう退役
産経新聞 3月31日(月)7時55分配信
さらばジャンボ 就航44年、最後の1機きょう退役
「ジャンボジェット」の愛称で親しまれたボーイング747 =東京・羽田空港(小野淳一撮影)(写真:産経新聞)
「ジャンボジェット」の愛称で親しまれ、大量輸送時代を支えたボーイング747が31日、日本の民間旅客機として初就航して以来約44年にわたる歴史に幕を下ろす。最後の1機を保有する全日空の那覇発羽田行き126便がラストフライトとなる。機体の老朽化と燃費性能の悪さが退役の理由だが、それでも往年の花形機種との別れを惜しむ航空ファンらの声は少なくない。
◆日本100機以上を導入
ジャンボを国内で初めて導入したのは日航だった。昭和45年7月1日、1番機は羽田発ホノルル線を飛行し、47年8月には国内線にも就航。全日空も一足遅れて54年に国内線で、61年には国際線でそれぞれ運航をスタートした。
左右の翼には計4基の大型エンジンが搭載され、客席は2階を含め500超。導入数は日航が最大で112機、全日空も47機と世界有数の「ジャンボ大国」となった。
ジャンボは、かつて高価だった海外旅行を身近なものに変えた。従来の機材の3倍近い座席数を保有するジャンボでは1座席あたりのコストが下がり、大幅な団体割引運賃が導入されたからだ。44年に49万人だった海外旅行者数は45年に66万人、47年には139万人に上り100万人の大台を一気に突破した。
旅行会社ジャルパック(東京都品川区)の二宮秀生社長は「ジャンボが海外旅行の大衆化に大きな役割を果たしたことは間違いない」と振り返る。
海外旅行ブームを牽引(けんいん)し花形機種として乗客らに親しまれたジャンボ。しかし、導入から15年後の60年、群馬県の御巣鷹山に日航機が墜落し、単独事故としては航空史上最悪の520人が犠牲となった。
◆「油食い虫」経営圧迫
近年の燃油高騰によって燃費の悪さから「油食い虫」と呼ばれた機体の維持は経営を圧迫するようになり、軽量で燃費性能の高い新鋭機に道を譲ることに。平成23年3月に日航は国内と国際線、全日空は国際線からそれぞれ引退した。
全日空は国内線の最終運航を控え各地でジャンボの記念運航を行っているが、別れを惜しむファンらでいずれも盛況。31日のラストフライトは予約受け付け開始とほぼ同時に満席に。31日の126便は那覇空港を午後0時35分にたち、羽田空港に午後3時ごろ到着予定。全日空広報部は「想像以上の反響で驚いている。感謝の気持ちを持ち、最後までしっかり運航したい」としている。