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2014年2月24日。腰を痛め休むかもしれません?_。

2014-02-24 13:06:22 | 日記
2014年2月24日
#、為替、円。円。円。ユーロ、円。円。円。
#、ダウ、16103.30ドル。-29.93ドル。ユーロ4263.41、-4.13。
#、日経、前場円。円。後場円。円。
今日の賢人。
創業者。
24.トヨタ自動車、豊田喜一郎(とよだ きいちろう)、
1894年6月11日 - 1952年3月27日)は、日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者[1]。

トヨタ自動車工業、現・トヨタ自動車社長(第2代)、社団法人自動車技術会 会長(第2代)などを歴任した。
里帰り出産のため静岡県で生まれ[2]、愛知県名古屋市(現・同市東区)で育つ[2][3][4]。高岳尋常小学校[1]、現・名古屋市立東桜小学校、名古屋師範付属高等小学校[1]、旧制明倫中学(現愛知県立明和高等学校)、第二高等学校を経て、東京帝国大学工学部機械工学科卒業[2]。

卒業後に地元の名古屋に戻った喜一郎は、当時、黎明期にあった自動車産業が将来大きく発展すると考え[2]、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の荒地だった土地を取得し、自動車工場を建設した[2]。これが後のトヨタ自動車となる[2]。

愛知県豊田市(挙母市)の発展に大きく貢献した実績から、豊田市役所の広場には銅像が立てられている。


豊田喜一郎の名言・格言集
佐藤浩市がTBSでトヨタ自動車創業者、豊田喜一郎氏をモデルにした技術者・愛知佐一郎を演じるそうです。豊田喜一郎氏の名言・格言をまとめました。

豊田 喜一郎(とよだ きいちろう)、
1894年6月11日 - 1952年3月27日)は、日本の経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。
トヨタ自動車工業、現・トヨタ自動車社長(第2代)、社団法人自動車技術会 会長(第2代)などを歴任した。




豊田喜一郎 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 、 検索 とよだ きいちろう 豊田 喜一郎 豊田の肖像写真 生誕 1894年 6月11日 静岡県 死没 1952年 3月27日 (満57歳没) 出身校 東京帝国大学 工学部 卒業 職業 第2代 トヨタ自動車工業 社長 子供 豊田章一郎 ( 長男 ) 豊田達郎 ( 二男 ) テンプレートを表示 豊田 喜一郎 …


一生懸命働けば われわれも生活の安定ができましょう。
こうした田園工場で愉快に働いて、その製品がお国のためになれば、
われわわは満足であります。

技術者は実地が基本であらねばならぬ。
その手が昼間はいつも油に汚れている技術者こそ、
真に日本の工業の再建をなし得る人である。

作ってやる、売ってやるではいけない。
買ってもらう、作らしてもらっている、という気持ちでなくてはいけない。

一旦トヨタから出した車は、何処が悪くても全責任を負わなければなりません。
それを他の部分に罪を着せずに、
自家製品の悪いところを言い逃れの出来ぬ様にさせると云う事は、
自分自身の製品に自信をつける最も大事な事であります。

今日の失敗は、工夫を続けてさえいれば、必ず明日の成功に結びつく。

人間のやったことは、人間がまだやれることの100分の1にすぎない。

出典豊田佐吉 名言

更に高みを目指すんだッ!
仕事は人がさがしてくれるものではなく、自分で見付けるべきものだ。
職は人が作ってくれるものではなく、自分自身で拵えるべきものだ。
それがその人にとっての、本当の仕事となり、職業となる。
とにかくその心掛けさえあれば、仕事とか職業とかは無限にあるといってもいい。

「仕事が無い」ではなく、自分から作っていくもの。この発想はなかなか出来ません!

世の中の多くの人の為に、又お国の為にと言う考えで一生懸命に働いてゆけば、食う物も着る物も自然と随(つ)いて来るものじゃ

これが世の仕組みというものなのでしょうか。自分本位ではダメなんですね~。

障子を空けてみろ、世界は広いぞ


煮詰まってどうしようもない時にこの一言は効きますね!

いくら儲けたいの、いくら儲けねばならんのと、そんな横着な考えでは人間生きてゆけるものではない


「儲ける」だけが人生ではない!!

営業的試験を為し、その成績充分にあらざる間は、決して販売すべきものに非ず。

このプロ精神こそが「世界のトヨタ」と言われるまでになったのかも知れません。

男は、四の五のいらぬことを考える必要はない。志を立てた以上、迷わず一本の太い仕事をすればよい。

かっこいいッ!こんな男子、憧れます。

金は儲けるより使う方がむずかしいものだ。

お金は人間を豊かにするけれど、狂わせる物。正しい使い方が出来ればいいんですが・・。

研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし

発明者たる者の精神でしょうか。


スポーツ、
1. 【ソチ五輪】またも「五輪」失敗?! 開会式のアクシデントを逆手に取る演出も
産経新聞 2月24日(月)2時22分

ソチ五輪】またも「五輪」失敗?! 開会式のアクシデントを逆手に取る演出も

閉会式が始まった アトラクション(今回は輪が全部開いた)=23日、ロシア・ソチ(大里直也撮影)(写真:産経新聞)

 第22回冬季五輪ソチ大会は23日夜(日本時間24日未明)、ロシア南部ソチのフィシュト五輪スタジアムで閉会式が行われ、17日間にわたる雪と氷のスポーツの祭典が閉幕した。大会には史上最多の88カ国・地域から約2900選手が参加し、7競技、98種目で熱戦を繰り広げた。

 閉会式のアトラクションでは、人文字で作る五輪マークのひとつがなかなか開かないという演出も。7日の開会式では会場につるされた巨大な五つの雪の結晶が、五輪マークへと変形する予定だったが、右上の輪が開かず「四輪」になってしまった。閉会式では、冒頭で空と海をテーマにした演目が行われ、700人の出演者がさまざまな形をつくった後、五つのグループに分かれ、まずは四つの輪を完成させたが、右上の輪がまたもや開かない。会場からざわめきが起きる中、最後に五つ目の輪も無事形成され、見事「五輪」が完成した。開会式での「四輪」のアクシデントを逆手に取った遊び心に会場は大いに沸いた。

 その後、各国の選手団が順不同でバラバラに入場。日本は開会式に引き続いてカーリング女子の小笠原歩(35)が旗手を務めた。選手たちは日の丸とロシアの国旗を手に持ち、リラックスした表情。お互いにカメラで写真を撮り合うなど、晴れやかな笑顔を見せた。

 日本選手団は1998年長野五輪の10個に次ぐ歴代2位、海外では最多の8個のメダルを獲得。フィギュアスケート男子の羽生結弦(19)が金メダルに輝いた。また、スノーボード男子ハーフパイプ2位の平野歩夢(15)が日本の冬季五輪メダリストの最年少記録を作る一方、ジャンプ男子ラージヒル2位の葛西紀明(41)は最年長記録を塗り替えた。

 メダル獲得数では、開催国のロシアが金メダル(13個)、総数(33個)ともにトップだった。2018年の次回大会は韓国の平昌で開かれる。
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地元ロシアが最多13個の金、日本は総数8個

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ニュース、

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2. 歩道に車、12人重軽傷=運転の男「殺そうと思った」―殺人未遂容疑で逮捕・名古屋
時事通信 2月23日(日)14時49分配信

23日午後2時15分ごろ、名古屋市中村区名駅のJR名古屋駅近くの歩道に乗用車が突っ込み、歩行者12人を次々にはねた。愛知県警は殺人未遂容疑で、車を運転していた自称名古屋市在住の30代の男を現行犯逮捕した。県警中村署によると、男は「車で人を殺そうと思った」という趣旨の供述をしているという。
 同署によると、12人のうち男性(24)が重傷、11人もけがをして病院に搬送された。交差点を左折してきた車が歩道に乗り上げ、40~50メートル走行。歩行者をはねた後、歩道の街路樹に衝突して停車した。
 事故の目撃者によると、車は時速30~40キロで走っていたとみられる。車は大破し、男も軽傷を負った。 

3. <山口知事選>自公推薦・村岡氏の初当選確実
毎日新聞 2月23日(日)20時3分配信

山本繁太郎前知事の病気辞職に伴う山口県知事選は23日投開票され、無所属新人で元総務省企画官の村岡嗣政氏(41)=自民、公明推薦=が、無所属新人で元衆院議員の高邑勉氏(39)=生活推薦▽共産新人で党県委員の藤井直子氏(61)--の2人を退け、初当選を確実にした。

 村岡氏は自公両党だけでなく、連合山口からの推薦も得たうえ、100以上の業界団体の支持を集め、幅広く浸透した。高邑、藤井両氏は、中国電力が進める上関原発計画(同県上関町)の撤回などをアピールしたが、議論は深まらず、山口県の分厚い保守地盤を崩せなかった。【尾村洋介】

2014年2月23日。楽天戦。3対2で巨人サヨナラ勝利。

2014-02-23 18:47:18 | 日記
2014年2月23日楽天戦

今日の人。
23.新撰組、近藤勇、土方歳三2/23
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。

なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが多く、実際「新撰組」と表記された史料も多くある。局長の近藤勇自身、表記には両方の字を用いている。
新選組局長[編集]

清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案した。異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留する。京都守護職を務める会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。

結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、3月25日に壬生浪士組結成メンバーの一人である殿内義雄を暗殺した。根岸友山の一派と粕谷新五郎 は脱退し、阿比類鋭三郎は病死(暗殺説あり)し、家里次郎は切腹した。これにより壬生浪士組は近藤派と芹沢派の二派閥体制となった。

長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王(尹宮)、会津藩、薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となるが、目立った活躍もなく長州勢の残党狩りに出動する。その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。文久3年(1863年)9月16日(一説に18日)、芹沢一派を暗殺すると、近藤勇主導の新体制が構築された。

元治元年(1864年)6月、新選組は熊本藩士・宮部鼎蔵の同志である古高俊太郎を捕縛した。古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、一味が潜伏していた池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた(池田屋事件)。この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。慶応元年(1865年)、永井尚志の供として広島へ赴く。そして慶応3年(1867年)、新選組は幕臣となり、近藤は御目見得以上の格となる。これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行い、そのなかには土佐藩の参政である後藤象二郎等も挙げられる。


甲州勝沼の戦いでの近藤を描いた図(1880年、東京江戸博物館蔵)
そのころ、伊東甲子太郎は御陵衛士として分離し、藤堂平助・斎藤一(近藤派の間者との説あり)らがこれに加わった。伊東は近藤を暗殺しようと企むが(伊東には暗殺しようなどという気持ちはなかったという説もある)、慶応3年(1867年)11月18日、近藤は伊東を酔わせ、帰り際に大石鍬次郎等に暗殺させた。その後、他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂らを殺害した。その報復として近藤は12月18日、竹田街道・墨染で御陵衛士の残党に銃で撃たれて負傷する。そのため、慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができずに大坂城で療養している。近藤の治療は新選組の検診医でもあった幕府典医・松本良順が行った。

戊辰戦争[編集]

三条河原での晒し首の様子(1868年)
鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻る。3月、幕府の命を受けた近藤は大久保剛と改名し、甲陽鎮撫隊として隊を再編して甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走する。その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別した。その後、大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、4月には下総国流山に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に出頭する。

しかし、大久保が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄に近藤であると看破され、捕縛された。その後、土佐藩(谷干城)と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首された。享年35(満33歳没)。首は京都の三条河原で梟首された。その後の首の行方は不明である。

墓所[編集]

法蔵寺の首塚

天寧寺の墓
近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされるが、一説に同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、同寺に近藤の首塚がある。また東京都三鷹市の龍源寺(先述の出身地、現・調布市野水のすぐ近く)や処刑場の近隣であるJR板橋駅前にも旧同士だった永倉新八により建立された墓所がある。福島県会津若松市の天寧寺には土方歳三が遺体の一部を葬ったとされる墓があり、山形県米沢市の高国寺にも近藤勇の従兄弟近藤金太郎が首をひそかに持ち帰り埋葬したとされる墓がある。毎年、民間団体が近藤勇を弔う為に「近藤勇忌」を流山市や会津若松市等で行っている。戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。

辞世の句は漢詩(七言律詩)で作られており、この句が刻まれた句碑が龍源寺境内の墓所にある。
孤軍援絶作囚俘 顧
土方 歳三(ひじかた としぞう)は、幕末期の幕臣、新選組副長。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。新選組時代には、鬼の副長と称され隊士たちから恐れられた。

戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として武名を顕し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。明治2年5月11日、箱館五稜郭防衛戦にて戦死。享年35。
新選組副長[編集]

高幡不動にある銅像
文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新選組が発足。その後、新見錦が切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。権力を握った近藤が局長となった。歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持にあたった。新選組は副長助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。

元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件の際は、半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、歳三らしい冷静な機転である。そのため池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。さらに幕府から、近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、歳三は近藤を諌め与力よりも狙いは大名と、次の機会を待つよう近藤を説得したとされる。新選組内部では、常に新選組の規律を隊士らに遵守させ、規律を破った隊士に対してはたとえ幹部の人間であろうと切腹を命じており、隊士から恐れられていたとされる。そのため、新選組隊士の死亡原因第1位は切腹であったといわれている。また、脱走者は切腹または斬殺後見せしめにすることもあった。

その後、副長の山南敬助を総長に据え、副長は土方1人となる。隊に居場所がなくなり山南が脱走して切腹となった事件では、山南と土方との対立があったとされるが、実際は仲が良かったとする説もある。山南に宛てた水の北 山の南や 春の月との句もあり、これには土方の好きな「春の月」が入っており、山の南=山南とされて仲の良かったことを示しているとされる。その後も隊の規律を守るために河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎らを切腹あるいは斬殺させた。伊東甲子太郎の結成した御陵衛士にスパイとして斎藤一を送るなどして伊東の近藤暗殺計画を未然に防ぎ、伊東、藤堂平助を暗殺し御陵衛士を壊滅させた(油小路事件)(御陵衛士、及び伊東、斎藤に関しては異説有り)。

戊辰戦争[編集]

慶応3年(1867年)6月、幕臣に取り立てられる。しかし同年10月14日、徳川慶喜が将軍を辞し大政奉還。12月9日に王政復古の大号令が発せられるに至り、幕府は事実上崩壊した。慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃の前に敗北する。その後、江戸城に登城した土方歳三は、佐倉藩江戸留守居役の依田学海に戦況を尋ねられると、「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語り、洋式軍備の必要性を痛感した[2]。もっとも、歳三は鳥羽・伏見の戦いで敗北する以前の慶応元年頃から、これからは刀で戦ができない時代であると悟り、洋式軍備を進め始めてはいた。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大坂から江戸へ撤退した後、近藤は大久保大和、歳三は内藤隼人と一時名乗って甲斐国に向かう。しかし3月6日、甲州勝沼の戦いで敗戦。歳三は戦争前に急ぎ援軍要請へ向かったが成功しなかった。その後、流山で再起を図っていたが、4月3日、新政府軍に包囲された近藤が投降。このとき歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたと言われる。歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤は板橋刑場(現JR板橋駅前に墓所有り)にて処刑(斬首)された。

近藤投降後、助命嘆願のかたわら新選組を山口二郎(斎藤一)に託して会津へ向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流。4月11日に江戸開城が成立すると江戸を脱出し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めた。下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。しかし壬生の戦いに敗走、新政府軍と再度宇都宮で戦った際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなった。会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、この間に近藤の墓を天寧寺に建てたと言われる。

全快して戦線に復帰した後は会津の防戦に尽力するが、8月に母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化。歳三は援軍を求めて庄内藩に向かうが、既に恭順体制の庄内においては入城さえ叶わなかった。歳三は会津から仙台へ向かうことを決めた。同じように戦列を離れた大鳥圭介に対して斎藤一らは会津藩に忠誠を尽くすべきだと訴えたということが、箱館戦争後に現在の青森県で記録された古文書にある。土方は、会津藩領では新選組に復帰してはいなかった。そして、城下に残る山口達と、仙台へ天寧寺から離脱した隊士達とに新選組は分裂する。

仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。榎本と共に奥羽越列藩同盟の軍議に参加した。間もなく奥羽越列藩同盟が崩壊し、同盟藩が次々と新政府軍に降伏した後は、戦う地がある限りどこまでも戦うことを決意。新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本武揚らと共に10月12日仙台折浜(現・宮城県石巻市折浜)を出航し、蝦夷地に渡った。

箱館戦争(戦死)[編集]

函館市 土方歳三像

土方歳三最期の地碑
10月20日、蝦夷地鷲の木に上陸後、歳三は間道軍総督となり五稜郭へ向かった。新選組は大鳥圭介総督の下で本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたという。箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍し松前城(福山城)を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。この時、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。江差を無事占領した歳三は、一度松前城へ戻り、12月15日に榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」(五稜郭が本陣)が成立し、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。箱館の地でも歳三は冷静だったという。箱館政府が樹立され、榎本らが祝杯を交わしている時も歳三は1人沈黙を保ち、「今は騒ぎ浮かれる時ではない」と言っていたと伝わる。

1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府軍襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加、作戦は失敗し多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。

明治2年(1869年)4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとり、自軍が包囲されたと思った土方軍は動揺した。これに対し歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。また、戦いの合間に歳三は部下達に自ら酒を振舞って廻った。そして「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と言ったので、部下は笑って了承したという。土方軍が死守していた二股口は連戦連勝。しかし、もう一方の松前口が破られて退路が絶たれる危険が起こったため、やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還した。

そして明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。新政府軍艦「朝陽」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたという。敵の銃弾ないしは流れ弾に当たったとするのが通説だが、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もある。歳三の命令によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは一時勢力を盛り返していたが、突然乱れて大野の必死の指揮にもかかわらず総崩れとなった。大野がやむを得ず引き返したところ、同じく陸軍奉行添役の安富才助から歳三の戦死を知らされたという。歳三の遺体は小芝長之助らに引き取られて、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されていたとも言われる。その場所は特定されていない。享年35。

辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。また「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」とも伝わっていたが、島田魁がまとめたとされる和歌集の巻頭歌「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと」が、土方の辞世と考えられるとの説を、霊山歴史館の木村幸比古が述べている[3]。

墓所は、
東京都日野市石田 石田寺(せきでんじ)
北海道函館市船見町 称名寺(慰霊碑)
福島県会津若松市東山町 天寧寺(慰霊木碑)
東京都北区滝野川 寿徳寺
東京都荒川区南千住 円通寺 ほか

箱館戦争の末期に、土方歳三が銃弾に倒れたという一本木関門跡に近い若松緑地公園に、土方歳三最期の地碑が建つ。

剣術の実力[編集]

天然理心流試衛館に入門した翌年の万延元年(1860年)に刊行された『武術英名録』(江戸を除く関東地方の剣術家名鑑)に土方歳三の名が掲載されており、既に一定の実力に達していたことが窺える。但し、天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派のクセが取れなかったようである。然し、実戦では滅法強かったと言われている。斬り合いの時、足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したり等、縦横無尽に戦闘をしていたという。

真紅の面紐に朱塗りの皮胴など洒落た防具を使用した[4]。得意技は諸手突きであったという。高幡不動の境内をよく稽古場所として使っていたともいわれる。新選組が駐屯していた八木邸の八木為三郎の述懐によれば、新選組の剣術稽古で、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら指導していたという[2]。

逸話[編集]
幼少時には風呂から上がると、よく裸のまま家の柱で相撲の稽古をしていたという。その柱は土方歳三資料館に現在でも残っている[5]。
甥(佐藤彦五郎の3男・為吉)が庭先で転んで額を切った時にはすぐさま駆け付けて「男の子の向かい傷だ。めでたいめでたい」と笑ってあやしたという[6]。
後の洋装の写真等から、歳三は合理主義者で便利なものは便利と受け取る柔軟さを持っており、舶来の懐中時計等も持っていたという。また、戊辰戦争において、宇都宮城を一時ながら陥落させたり、二股口を守備した時も、味方が敗走を続ける中で勝利を重ねる等、近代戦術にも理解を示して実践し、成果を上げている。
隊内の気の置けない仲間には、「自分は、信長の生まれ変わりだろう」と言ったことがある。
陣中法度、局中法度等の厳しい隊規を考案したとされ、裏切り者やはみ出し者に容赦の無い刃を浴びせた歳三は、鬼の副長と呼ばれ、普段は冷酷な人物とされる。然し、箱館戦争にまで従った新選組隊士・中島登によれば、箱館戦争当時には「温和で、母のように慕われていた」という。この頃には若い隊士を度々飲食に連れ歩いたり、相談事に乗ったりするようになったとも言われている。ただしそれも、年齢を経た結果というよりも、自分の死に場所を見つけたという悟りに近い気持ちと、明日にも闘いで命を落とすかも知れない隊士の士気を上げる為の、計算の上であったとする説もある。
もともと色白で引き締まった顔立ちをしており(当時としては)長身であった為、京都にて新選組副長として活動していた時などは、日野の仲間に向けて多数の女性からの恋文をまとめて送って自慢するほどであった。 上洛間もない頃、小島鹿之助へ(一説に近藤道場の弟子たちにとも言われる)宛て大きな荷物が届く。京土産でも送って来たかと開けてみると、彼を慕う芸者・舞妓からの恋文がびっしり詰められており、「報国の心ころわするゝ婦人哉」という和歌が手紙に添えられていたという[7]。

宇都宮の戦いで足を負傷していた歳三は、慶応4年(1868年)閏4月頃から7月頃(異説あり)まで、会津若松城下の宿で病床に伏していた。ある日、同じ宿にいた幕臣で文官の望月光蔵が訪ねて来たが、歳三は寝ころんだまま「俺達と共に戦え」と言った。その傲慢な態度にムッときた望月は「自分は文官だから戦う事はできない」と拒否。すると歳三は「じゃあお前は何をしにこんな遠くまで来たんだ。臆病者め」と言い放った。望月も黙っておれず「幸いにもあなた達は宇都宮城を奪ったが、それをすぐに奪われたではないか。再び奪うことはもう難しいだろう。実に惜しいことだ。あなたもまた臆病者と言わざるを得ない」。望月にそう言われた歳三は「うるさい、俺の病床に障る。もう聞きたくない。出て行け」と叫んだため、望月は部屋を去った。この時歳三は怒りのあまり望月に枕を投げつけたそうである[8]。
江戸で定宿としていたのが幕府御用達釜屋。品川宿の中でも大変賑わっていた茶屋で「慶応三年卯十月廿一日登(上)新撰組土方歳三御家族 門人共上下三十一人(休)釜屋半右衛門 九貫三百文」という記録が残っている。現在、釜屋の跡地(品川区青物横丁駅)には新選組の記念碑が建てられている。
死の直前に小姓を務めていた市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と命じる。それに対し市村は「私はこの地で討ち死にする覚悟でやってきました。誰か別の者に命じて下さい」と拒否する。それを聞いた歳三は「断るとあらば、今この場で討ち果たす」と鋭い眼光を向けて言い放つ。その歳三の気迫に圧されて市村は首を縦に振った。日野に旅立つ時、市村は窓に人影が写っていることに気づく。「誰かは解りませんでしたが、おそらく土方さんだったのだと思います」と語り残している。その後市村は日野宿の佐藤彦五郎の元に無事届けている。
愛刀は和泉守兼定(刃長2尺8寸)、大和守秀国、脇差は堀川国広(刃長1尺9寸5分)で、一般的な刀より長いものであった。なお国広は太平洋戦争後、占領軍(GHQ)の非軍事化政策のあおりを受けて没収され、その代わりに兼定が没収を免れた。
和歌や俳諧等を嗜む等風流人の面もあった。書き溜めた句は自らまとめており、『豊玉発句集』として残されている。

オープン戦
1.ソフトバンク対西武戦。【宮崎アイビー】
8対5で西武勝利。
先発
【ソフトバンク】新垣 渚 右腕
【西武】岩尾 利弘 右腕

責任投手/本塁打.

勝利投手[ 西武 ]岩尾(1勝0敗0S)

敗戦投手、[ ソフトバンク ]新垣(0勝1敗0S)

セーブ、[ 西武 ]小石(0勝0敗1S)

本塁打、[ 西武 ] 脇谷 1号(4回表)

[ ソフトバンク ] 内川 1号(1回裏)


バッテリー.
西武バッテリー、
岩尾、川崎、小石 - 炭谷

ソフトバンクバッテリー
新垣、オセゲラ、金、森 - 細川、高谷

2.日本ハム対DeNA戦。【名護】
8対0で日本ハム勝利。
先発
【日本ハム】武田 勝 左腕
【DeNA】三上 朋也 右腕、

責任投手/本塁打.

勝利投手[ 日本ハム ]武田勝(1勝0敗0S)

敗戦投手、[ DeNA ]三上(0勝1敗0S)

本塁打[ DeNA ]
 [ 日本ハム ] 中田 1号(4回裏) 岡 1号(8回裏)

バッテリー.
DeNAバッテリー
三上、北方、神内、安部、平田、万谷 - 嶺井、西森

日本ハムバッテリー
武田勝、武田久、増井、宮西、矢貫、河野、乾、鍵谷 - 近藤、市川

3.中日対阪神戦。【北谷】
4対2で中日勝利。
先発
【中日】岡田 俊哉 左腕、
【阪神】榎田 大樹 左腕

責任投手/本塁打.

勝利投手、[ 中日 ]若松(1勝0敗0S)

敗戦投手、[ 阪神 ]小嶋(0勝1敗0S)

セーブ、[ 中日 ]田島(0勝0敗1S)

本塁打、[ 阪神 ] 、 [ 中日 ]

バッテリー.
阪神バッテリー
榎田、小嶋、金田、玉置 - 清水、鶴岡

中日バッテリー
岡田、若松、小川、朝倉、雄太、田島 - 松井雅

4.巨人対楽天戦。【沖縄セルラー那覇】
3対2で巨人サヨナラ勝利。
先発
【巨人】宮国 椋丞右腕、
【楽天】松井 裕樹 左腕

責任投手/本塁打.

勝利投手、[ 巨人 ]青木(1勝0敗0S)

敗戦投手、[ 楽天 ]福山(0勝1敗0S)

本塁打、[ 楽天 ] 、[ 巨人 ]

バッテリー.
楽天バッテリー
松井裕、辛島、片山、福山 - 嶋、伊志嶺

巨人バッテリー
宮国、笠原、田原誠、久保、西村、青木 - 実松、小林

スポーツ、
1. 羽生“新ジャンプ”開発「初めて跳んだ人になりたい」
東スポWeb 2月23日(日)16時15分

ソチ五輪で日本選手団唯一の金メダリストとなったフィギュアスケートの羽生結弦(19=ANA)は「初めて跳んだ人になりたい」と誰も実現していない高難度のジャンプに取り組んでいることを明かした。具体的には4回転半ジャンプや4回転の連続ジャンプなど。4回転半は「4分の1アンダー(回転不足)でこけるぐらいで、ある程度は回れる」という。

 目的はすぐにプログラムに入れることではなく、新たな挑戦をすることで「士気を上げるため」。五輪のプログラムではトーループとサルコーの2種類だった4回転ジャンプは「5種類まではいけそう」とその可能性はとどまるところを知らない。

 また、羽生はエフゲニー・プルシェンコ(31=ロシア)がコーチに名乗りを上げたことについても「光栄だけど、考えるのは実際にボクのところに話が来てから。今はブライアン(オーサー・コーチ)と一緒に金メダルが取れてうれしいし、自分から環境を変えようとは思っていない」。“皇帝”との金メダルコンビ結成にはやや否定的だった。

2. 日本 オランダに敗れ3位決定戦へ 女子追い抜き
スポニチアネックス 2月22日(土)22時42分

日本 オランダに敗れ3位決定戦へ 女子追い抜き

女子追い抜きでオランダに敗れガックリの(左から)高木、押切、菊池

 ソチ五輪第16日の22日、スピードスケート女子団体追い抜きで前回バンクーバー五輪銀メダルの日本は菊池彩花(26=富士急)、高木菜那(21=日本電産サンキョー)、押切美沙紀(21=富士急)の3人。準決勝で強豪オランダと対戦したが、3位決定戦に回った。

 追い抜きは2チームで対戦し、勝敗を競う。1チーム3人で、2チームがリンクのメインストレート側とバックストレート側で同時にスタート。最後尾の選手が先にゴールしたチームが勝ちとなる。

 1周目で1秒以上差をつけられた日本。その後も差は広がる一方で、五輪新をマークしたオランダに11秒76の大差で敗れた。

 日本は、21日の1回戦では余力を残す形で韓国に快勝。羽田雅樹コーチも「落ち着いてできたかなと思う。タイムはまだまだ上がる」と意気込んでいたが、連続銀メダルは消えた。だが、まだメダルのチャンスはある。ロシアとの対戦で銅を目指す。

3. 村田諒太が4回TKO勝利! 海外デビュー戦で快勝
スポーツナビ 2月22日(土)20時30分配信

ロンドン五輪ボクシング金メダリストの村田諒大が22日、中国・マカオでプロ3戦目を行い、世界王座挑戦経験のあるカルロス・ナシメントに4回0分43秒、KO勝利を挙げた。これで村田はデビューから3戦3連続KO勝利となった。

 両手を高く上げたガードを見せる村田は1Rは切れのあるジャブからボディ、アッパーを当てて主導権を握る。2Rも相手のボディやフックをしっかりガードするとワンツーを叩き込む。3Rには右アッパーでぐらつかせると、ロープ際でラッシュをかけて一度目のダウンを奪った。4Rにもロープに詰めた村田はボディから左右のストレートの連打。何も打ち返せないナシメントを見た審判が試合を止めた。

 村田にとってプロでは海外で初の試合だったが、攻守のバランス良く危なげない試合で勝利を飾った。

4. 真央 スマイルで金色の舞 伝えたい「笑顔って素晴らしいんだよ」
スポニチアネックス 2月23日(日)4時26分

真央 スマイルで金色の舞 伝えたい「笑顔って素晴らしいんだよ」

エキシビジョンで観客を魅了する浅田

 ソチ五輪フィギュアスケートのエキシビションが22日に行われ、日本は羽生結弦(ゆづる、19=ANA)、町田樹(23=関大)、高橋大輔(27=関大大学院)浅田真央(23=中京大)の4人が出場した。

【写真】エキシビションで手をつなぐ浅田真央と高橋大輔

 浅田は金色の衣装をまとい、チャプリンの名曲「スマイル」の旋律に乗せ優雅な演技を披露。「I see friends shaking hands」の歌詞に合わせリンク脇のスタッフに手を伸ばし握手をするおちゃめな一幕も。演技を終えると「くじけそうなときも辛いことがあっても、笑顔って素晴らしいんだよということを伝えたいなと思いました」と曲に込めた思いを明かした。

 6位ながら推薦で出場した高橋は「本当は出られないんですけど、推薦してもらって。緊張していたんですけど楽しく滑ることができました」と笑顔。黒縁メガネにマフラー姿というユニークな姿で情熱的なエアギターを披露した町田は「今後の人生で、ソチ五輪という舞台は大きな糧になる」と 充実感たっぷりに語った。

 羽生は「白鳥の湖」に乗せ金メダルにふさわしい華麗な滑り。「今回ソチオリンピックで自分なりに4年間の集大成を出せるようにしたんですけど、その4年間の中に震災があるので。震災で起きた苦しみ、その中から立ち上がろうとする兆しを感じてもらえたらと思いました」と五輪を振り返った。

5. 真央 スマイルで金色の舞 伝えたい「笑顔って素晴らしいんだよ」
スポニチアネックス 2月23日(日)4時26分

真央 スマイルで金色の舞 伝えたい「笑顔って素晴らしいんだよ」

エキシビジョンで観客を魅了する浅田

 ソチ五輪フィギュアスケートのエキシビションが22日に行われ、日本は羽生結弦(ゆづる、19=ANA)、町田樹(23=関大)、高橋大輔(27=関大大学院)浅田真央(23=中京大)の4人が出場した。

【写真】エキシビションで手をつなぐ浅田真央と高橋大輔

 浅田は金色の衣装をまとい、チャプリンの名曲「スマイル」の旋律に乗せ優雅な演技を披露。「I see friends shaking hands」の歌詞に合わせリンク脇のスタッフに手を伸ばし握手をするおちゃめな一幕も。演技を終えると「くじけそうなときも辛いことがあっても、笑顔って素晴らしいんだよということを伝えたいなと思いました」と曲に込めた思いを明かした。

 6位ながら推薦で出場した高橋は「本当は出られないんですけど、推薦してもらって。緊張していたんですけど楽しく滑ることができました」と笑顔。黒縁メガネにマフラー姿というユニークな姿で情熱的なエアギターを披露した町田は「今後の人生で、ソチ五輪という舞台は大きな糧になる」と 充実感たっぷりに語った。

 羽生は「白鳥の湖」に乗せ金メダルにふさわしい華麗な滑り。「今回ソチオリンピックで自分なりに4年間の集大成を出せるようにしたんですけど、その4年間の中に震災があるので。震災で起きた苦しみ、その中から立ち上がろうとする兆しを感じてもらえたらと思いました」と五輪を振り返った。

6. 松井裕樹の可能性を見た村田修一への1球
前田幸長がプロ実戦デビューを解説、構成:スポーツナビ
2014年2月23日 17:50

巨人戦に先発し、2回を完璧に抑えた楽天・松井裕=沖縄セルラー

巨人戦に先発し、2回を完璧に抑えた楽天・松井裕=沖縄セルラー【共同】
 東北楽天にドラフト1位で入団した松井裕樹(桐光学園)が23日の巨人とのオープン戦でプロ実戦デビューを果たした。

 2回を投げ、打者6人に対して無安打2奪三振と完璧に抑えた。1回には先頭の坂本勇人を“伝家の宝刀”スライダーで空振り三振、2回には4番の村田修一をチェンジアップで空振り三振に打ち取る上々のデビューとなった。

 ロッテ、中日、巨人で活躍し、昨夏の高校野球で松井が敗れた横浜高戦でも解説をした前田幸長氏は、松井裕のデビュー戦をどう見たのか。


1軍で投げる条件はクリアできた
――松井裕樹投手の今日の投球を振り返って。

 上々のピッチングと言えるのではないでしょうか。まずはストライクが取れたことが良かったです。ストレート、縦のスライダー、チェンジアップ、松井投手の持ち球である3種類の球種でストライクが奪えたことを評価したいと思います。

――オープン戦とはいえ、高卒ルーキーの初マウンドが巨人相手でしたが、緊張は感じられましたか?

 肩で深く深呼吸する姿が数回見られましたし、緊張感はとても伝わってきました。嶋基宏捕手も試合前に松井投手が緊張していたことを心配していたようでしたが、マウンドに上がって楽しそうに投げていたことを評価していました。また、私としては緊張した中、変化球で逃げるのではなく、ストライクゾーンに投げられたのは素晴らしいと思いました。
 今日は、変化球でストライクが取れるか、という部分に注目して見ていました。というのも、1軍のマウンドに上がる条件とも言えますが、変化球が2種類以上、しっかりとストライクが取れ、さらに空振りが取れるボールがあるということが絶対に必要となります。今日の登板が本人が言うように「たまたまストライクが取れただけ」なのか、それとも彼本来の力が出せた中でストライクが取れたのか、現時点では判断できませんが、1軍で投げる条件はクリアできたと見ています。

――変化球でストライクが取れることが重要なんですね。

 昨日、北海道日本ハムの大谷翔平投手の登板を見たのですが、スライダーでストライクが取れず苦しい投球になりました。単純な比較はできませんが、松井裕投手は変化球でストライクが取れたので、良いなと思って見ていました。

――2イニングのみの投球でしたが。

 もっと見たかったですね。せめて打順2回り目に入る可能性がある3イニングまで投げてくれれば、また別の姿も見えたのかなと思いますね。


スライダーはプロの世界でも通用する
――坂本選手に対してはスライダーで空振り三振を奪いました。

 坂本選手はハーフスイングでしたので、何とも言い難いのですが、坂本選手に投じた「膝元にきれていくスライダー」を投げきることができれば、甲子園で奪三振記録をつくったような投球がプロの世界でもできると思いますね。そういう意味では坂本選手に投じたスライダーは収穫だったと思いますよ。

――高校時代、スライダーで甲子園の奪三振記録をつくった松井投手ですが、今日の投球を見てプロでも通用すると言っていいでしょうか?

 対戦した巨人の長野久義選手も矢野謙次選手、そして嶋捕手も松井投手のスライダーを褒めていましたよ。長野選手も矢野選手も「スライダーはブレーキが効いていて打ちづらく、良かった」と口をそろえていましたし、十分通用すると言えるのではないでしょうか。

 一方で、嶋捕手が懸念していましたが、プロでは1年間に何度も同じバッターと対戦しますし、優秀なスコアラーが松井投手を丸裸にしようとします。スライダーに慣れ、見極められるようになったら松井投手は苦しい投球になるかもしれませんね。
 ただ、ストレートとスライダーだけでなく、松井投手はチェンジアップでもストライクを取れることができます。さらに今日はチェンジアップで村田選手から三振を奪って見せました。これは非常に大きな意味を持っていると思います。対戦打者はどうしても「スライダー」に頭がいく中で、外角に沈むチェンジアップがあることは武器になります。巨人の4番に通用したことは自信になったと思います。松井投手の今後にとって、大きな収穫になったのではないでしょうか。

コントロールも初登板としては上出来


星野監督も松井裕の投球に期待

星野監督も松井裕の投球に期待【写真は共同】
――昨夏の松井投手の投球もご覧になっていた前田さんから見て、今日、プロの舞台に上がった松井投手の姿はどう映りましたか?

 緊張もあってか、一生懸命さが非常に伝わってきましたね。明日は体が張るんじゃないでしょうか。
 松井投手は高校野球の時、上のレベルにいたので、「省エネ投球」をしていた印象でした。しかし、プロが相手、さらに相手が巨人ですし、すべての球を全力で投じていたと思いますね。

 また、高校野球と異なり、プロ野球はストライクゾーンが狭いので、1年目の今年は、高校時代にクロスファイアーでズバッとストライクになった球がボールと判定される可能性があり、イライラを覚えるかもしれません。しかし、それは経験です。経験しながら大きくなっていってもらえればと思います。

――キャンプ中ではフォームを崩したり、コントロールがバラついたりで佐藤義則投手コーチにいろいろと指導をされていたようですが。

 今日に関しては、内・外に投げ分けるというよりも、それなりのコントロールでストライクゾーンに集められていたことが重要だと思います。松井投手の場合、際どいコースを狙ってコントロールするタイプの投手ではありませんので、今日の投球だけで評価を下すには時期尚早だと思いますが、初登板としては上出来だったと思います。


0勝で終わることはないと確信
――先発ローテーション入りも期待されていますが。

 星野仙一監督に松井投手の育成について聞いてみたのですが、「(育成している)暇はない。人がいないから使っていく」と言っていました。田中将大投手(ヤンキース)が抜けて、先発投手の駒不足が顕著な楽天ですので、先発で起用される中でどんな結果が出るのか楽しみですね。

――星野監督は「いないから使う」という言い方だったようですが、もちろん期待もしていますよね?

 そうですね。2年目の森雄大投手と松井投手の2人には「頑張ってもらいたいし、期待している」と言っていました。

――今日のマウンドを見て、1年目の松井投手の可能性をどう見ますか?

 今日は2イニングだけでしたし、今日の試合だけで論じることは難しいですが、「変化球でストライクが取れた」「チェンジアップで三振を奪えた」という収穫はあったと思います。どうしても新人の場合、最初は勢いのあるストレートのみでストライクを取るパターンが多いのですが、松井投手の場合は違っていて、すべての球種でストライクが取れたわけですから悲観的ではないです。

 楽天打線は非常に戦力がそろっていて、援護点が期待できるので、2ケタ勝利というのは未知数ですが、今日の投球を見れば、0勝で終わることはないと確信しました。勝ち数を予想するのはまだ早いと思いますが、プロ初勝利は1年目の遅くない時期に挙げられるでしょうね。

<了>

ニュース、

1. 塩屋埼灯台に観光客=3年ぶり「復興のシンボル」―福島
時事通信 2月22日(土)16時24分配信

 東日本大震災で被災した福島県いわき市の塩屋埼灯台で22日、3年ぶりに一般公開が始まった。美空ひばりさんが歌った「みだれ髪」の舞台で、震災前は年10万人が訪れた県内有数の観光地だ。
 地元の介護士佐藤和義さん(35)は家族4人で訪れ、「復興のシンボルがまた一つ増えた。ここで子どもたちの写真を撮り続け、成長の記録にしたい」と笑顔で話した。
 福島海上保安部が開いた記念式典に合わせ、この日は無料で開放された。県内外から家族連れや団体客らが訪れ、灯台の上から海の景色を楽しんでいた。
 灯台は震災でレンズ部分のガラスがすべて割れ、近くの歩道が一部崩落した。約9カ月後には点灯したが、のり面の復旧工事などが続いていた。 

2. ひっそりと財団を解散、盛田家の凋落止まらず
東洋経済オンライン 2月23日(日)6時5分配信

ひっそりと財団を解散、盛田家の凋落止まらず
盛田昭夫氏は写真撮影の際、「ソニーの制服」である襟なしの作業服を着ることを好んだ(1985年撮影、写真:Fujifotos/アフロ)

 昨年12月、文部科学省所管の鈴渓学術財団(東京都中央区)と愛知県教育委員会所管の盛田国際教育振興財団(名古屋市中区)が人知れず解散した。財団はソニーの共同創業者、故盛田昭夫氏の肝いりで30年以上前に設立され、学術振興や海外留学奨励を目的に掲げていた。1999年の昭夫氏の死後、理事長職を引き継いだのは長男の英夫氏(62)だった。

【詳細画像または表】

 財団が解散したのは新制度に適合する公益法人に移行できなかったためとみられる。実は2008年ごろから財団の資産運用は不透明なものになっていた。基本財産のほとんどを、出資先で英夫氏が代表取締役を務める盛田アセットマネジメント(名古屋市中区)に貸し付けていたのだ。その額は両財団で計9億2100万円にも上った。

 国の指針によれば、公益法人の資産運用先は安全確実なものでなければならない。11年の検査時、文科省は非上場会社への過度な貸し付けを問題視したが、財団側は「年利4%で回せる先がほかにない」と説明していたという。しかし、盛田アセットからの利払いが滞っていたためか、未収金が積み上がっていた。
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■ F1ビジネスで大損

 英夫氏が財団の基本財産に手を付けたのは、相次ぐ事業の失敗と関係している。

 盛田一族の御曹司で将来の社長候補とも目された英夫氏は85年にソニーを退社すると、実業家に転じた。元手となったのは一族の資産管理会社レイケイが保有する大量のソニー株。英夫氏が最初に手掛けたのは新潟県内の大規模スキー場「新井リゾート」だった。しかし、海外の高級保養地を模したことで建設費がかさみ、開業時から経営危機に陥った。レイケイは94年、保有するソニー株の一部、約230億円相当を拠出せざるをえなくなった。

 次に英夫氏がのめり込んだのは海外事業。ITバブル到来でソニー株が急騰していた99年、今度は米国コロラド州の大規模スキー場を100億円超かけて買収。ソニー株を担保に仏パリ国立銀行など外国銀行が気前よく大金を貸してくれた。勢いを駆った英夫氏は思いもよらぬビッグビジネスに参入する。自動車レースの最高峰F1である。00年末、ルクセンブルクで極秘裏に設立した持ち株会社が仏プジョーのF1エンジン部門を買収、“謎のサプライヤー”として電撃参戦を果たした。

 が、ITバブル崩壊でソニー株は急落。外銀は英夫氏の野放図なビジネスへの融資を引き揚げ始めた。そのため金食い虫のF1ビジネスを継続できなくなり、関連会社は01年11月に現地で倒産。最終的に約230億円の損失を負った。米国のスキー場も苦戦続きだった。

 こうした失敗により、レイケイは保有するソニー株のすべてを失った。最後、英夫氏に残されたのは一族が江戸時代から営む酒造やみそ・しょうゆづくりといった家業。03年、英夫氏は老舗上場会社のマルキン忠勇(現ジャパン・フード&リカー・アライアンス)を傘下に入れ、家業再興を目指した。が、今度も業績は低迷、盛田アセットは保有するジャパン・フード社株のすべてを金融機関の担保に差し入れる苦境ぶりだ。この間、盛田アセットの本社ビルには何度か差し押さえ登記が打たれてもいる。

 結果、禁断の虎の子にまで手をつけた英夫氏──。ソニー凋落と時を同じくして、盛田家の家運も傾く一方だ。

(週刊東洋経済2014年2月22日号〈2月17日発売〉の核心リポートでは8ページにわたるソニー緊急特集を掲載しています。全編は週刊東洋経済をご覧ください)
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高橋 篤史

3. 外交で高支持、課題は対日=「原則」重視、柔軟性欠く―25日に朴槿恵政権発足1年
時事通信 2月23日(日)15時0分配信

【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領は25日に就任1年を迎える。中高年層を中心とした強固な支持層と、米中両国への訪問や南北関係改善など外交面の評価に支えられ、支持率は50%以上で安定している。ただ、原則を貫く姿勢が支持を得る半面、障害にもなっているというのが識者の一致した見解だ。特に日韓関係を打開できるかが2年目の最大の課題だ。
 高支持率の主要因として、衆目が一致するのは外交だ。「首脳外交によるイメージ効果が大」(大手紙ベテラン記者)との冷めた見方があるものの、中国との関係強化は、中国の防空識別圏設定を利用し、自国の防空識別圏を拡大する際にプラスに働いた。中断した開城工業団地の再稼働も、中国が内々に北朝鮮に働き掛けた効果が大きかった。
 また、ほぼ北朝鮮への譲歩なしで離散家族再会にこぎ着けた南北関係も評価は高い。韓国統一省は20日、政権発足1年に当たり「持続可能な南北関係発展の土台をつくった」と胸を張った。
 一方、対日関係の冷却化は、靖国神社参拝をはじめとした安倍政権の言動と同時に、「歴代政権でこれほど日本を軽視したことはなかった」(専門家)といわれる朴政権の外交姿勢も背景にある。
 朴政権は「信頼外交」を掲げるが、対日関係に詳しい朴※(※=吉を2つ横並び)熙ソウル大教授は「信頼を築くよりも、相手を信頼できなければ何もしないという政策だ」と手厳しい。米国の圧力が強まり、関係改善を模索せざるを得ない状況だが、朴教授は「原則を掲げて強く出れば日本が最終的に譲歩するとの考えから脱していない」と指摘する

2014年2月22日。3. 「もう浅田と競争なくなる」=金妍児が記者会見

2014-02-22 20:39:08 | 日記
2014年2月22日【土】
#、為替、102.56円。円。円。ユーロ、140.90円。円。円。
#、ダウ、16103.30ドル。-29.93ユーロ4263.41、-4.13。
今日の人。
22.清水次郎長2/22

清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。

浪曲、映画で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。
文政3年(1820年)、駿河国有渡郡清水町美濃輪町(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれる。母方の叔父にあたる米穀商の甲田屋の主山本次郎八は実子がなく、次郎八の養子となった。幼少時代の仲間に「長」(正式の名称は不明)という子供がいたために周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼び、長じてからもそう呼称されることになったという。

清水港は富士川舟運を通じて信濃・甲斐方面の年貢米を江戸へ輸送する廻米を行っており、清水湊の廻船業者は口銭徴収を主とする特権的業者が主であったが、次郎長の生まれた箕輪町は清水湊(清水港)における新開地で、父の三右衛門とは異なり自ら商品を輸送する海運業者であった。また、叔父の次郎八は米穀仲買の株を持つ商人であることからも、三右衛門は次郎八を通じて米穀を輸送していたと考えられている[1]

養父の次郎八は天保6年(1835年)に死去し、次郎吉は甲田屋の主人となる。次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返しており、天保14年(1843年)、次郎長は喧嘩の果てに人を斬ると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲ると江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。この時代の次郎長の事跡については明治初期に養子であった天田五郎の『東海遊侠伝』に詳しい[2]。

弘化2年(1845年)には甲斐国鴨狩津向村(市川三郷町)の津向文吉と次郎長の叔父和田島太右衛門の間で出入りが発生し、次郎長はこれを調停している。弘化4年(1847年)には江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、一家を構える。安政5年(1858年)12月には甲州における出入りにおいて官憲に追われ、逃亡先の名古屋で保下田久六の裏切りに遭い、安政6年(1859年)には尾張知多亀崎乙川において久六を斬殺する。

その後は富士川舟運の権益を巡り甲州博徒と対立し、黒駒勝蔵と抗争を繰り広げる。

慶応4年(1868年)3月、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より街道警固役を任命され、この役を7月まで務めた。

同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡した。その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないと言って突っぱねたという。当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は これを深く感謝し、これが機縁となって次郎長は明治において山岡・榎本と交際したとされる。

博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑がある。

ただし血腥い事件も彼の周辺で起こっており、次郎長不在中に久能山の衛士に3番目の妻を殺されている。また有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊や遠州報国隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させないために弱い者をかばっている。

明治17年(1884年)には「賭博犯処分規則」により逮捕され、懲罰7年・過料金400円に処せられ、井宮監獄に服役する。関口隆吉やなどの尽力などにより、刑期の満了を待たずに仮釈放になった。

明治26年(1893年)、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。戒名は碩量軒雄山義海居士。

オープン戦
1.ソフトバンク対西武戦。【宮崎アイビー】
対で勝利。
2.広島対阪神戦。【ヨザしんきん】
対で勝利。
3.中日対オリックス戦。【北谷】
対で勝利。
4.ヤクルト対楽天戦。【浦添】
対で勝利。
5.日本ハム対ロッテ戦。【名護】
対で勝利。
6.巨人対DeNA戦。【沖縄セルラー那覇】
対で勝利。

スポーツ、
1. 内海、杉内、澤村…巨人投手陣「故障者続出」に“人災”指摘する声
東スポWeb 2月15日(土)11時55分配信

内海、杉内、澤村…巨人投手陣「故障者続出」に“人災”指摘する声

すねに打球が直撃したエース・内海

 ゴジラフィーバーの陰で緊急事態発生だ。OBの松井秀喜氏(39)の臨時コーチ就任で沸いた巨人の宮崎キャンプは13日に最終日を迎えた。今後は沖縄へと場所を移し、実戦主体の最終調整に入る。そんななか、先発ローテーションの柱として期待される主力投手に故障者が続出。首脳陣は真っ青になっているが、チーム内からは“人災”だと指摘する声も上がっている。

 雨のため木の花ドームでシート打撃が行われた際にアクシデントが起きた。ルーキーの小林誠司捕手(24=日本生命)がはじき返した打球が、投げた内海の左すねを直撃。エース左腕は「大丈夫」というそぶりを見せてしばらく投球を続けていたが、流血していたため宮崎市内の病院へ直行し、傷の縫合を行った。

 病院から戻った内海は「全然、問題ない」と笑顔を見せ、川口投手総合コーチも「裂傷です。長くはかかりません。大丈夫」と軽傷を強調。とはいえ、縫うほどの傷だけに多少の調整遅れは避けられそうにない。

 そしてこの日は、完全復活を期待される杉内も腰に違和感を訴えてシート打撃登板を回避した。二軍調整こそ見送られたが、しばらく様子を見ることになるという。本人は「腰が張ったから大事を取ってやめた。飛ばしすぎたかな」と苦笑いだったが、左腕の二枚看板が出遅れるようだとチームにとっては“軽症”では済まない。

 だが、この2人はまだマシな方だ。今キャンプでは、3日に澤村が右肩不安を訴えて二軍行き。9日には期待の左腕・今村も左肩痛で二軍へ送られた。今村は「沖縄は難しそう。(3月の)オープン戦中には戻りたいと思っていますが…」と話しているだけに、症状は軽くなさそうだ。

 故障と呼べないケースもある。菅野も第2クール中に背中に張りを訴え調整ペースをダウン。この日のブルペン投球も立ち投げだけにとどめた。

 菅野は「開幕がすべて」と焦りを顔に出さないが、順調とは程遠い。先発ローテ候補の5人に何らかのトラブルが発生し、いまだ元気なのは新加入組の大竹、セドンと小山、宮国ぐらい。そんな状況に、現場スタッフは「今の時期にこうでは、今年の投手はダメだね。苦しいシーズンになるよ」と暗い顔でつぶやく。

 同スタッフが故障者続出の原因に挙げたのは、異例のスピード調整だ。原監督の「初日に全力で投げられるように」との指示を守って自主トレからガンガン投げ、1日には全員がブルペン入り。阿部ら野手陣からも「早過ぎないか」と危惧する声は上がっていたが、恐れていた事態が早くも現実になりつつある。首脳陣のパニックぶりも徐々に伝わってきた。原監督は当初、沖縄行き投手を18人としていたが、川口コーチからの要請を受け、この日になって急きょ1人追加。二軍から香月の招集を決めた。

 宮崎での1次キャンプを打ち上げた原監督は、不安の色を見せず「全体的に選手たちは順調にきている。(沖縄では)しっかり観察し、チームをどう組み立てるのが巨人にとってベストか。探りながらやっていきたい」と語ったが、その心中は穏やかでないだろう。これまで華やかなゴジラフィーバーにかき消されていたが、盤石とみられていた投手陣からギシギシと屋台骨がきしむ音が聞こえ始めてきた。
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2. 「女子の底力見た」高橋大輔、昨日も今日も泣く
読売新聞 2月21日(金)16時47分配信

フィギュア男子の高橋大輔選手(27)は観客席で、長光歌子コーチらと女子選手の活躍を見守った。

 前日のショートプログラム(SP)に続く応援で、高橋選手は日本選手の演技に「昨日も今日も泣いた。本当にいいものを見させてもらった。女子の底力を見た」と感激した様子。「真央ちゃんもアッコちゃん(鈴木選手)も佳菜子も、今できる精いっぱいをやった。『お疲れさま』と言いたい」とねぎらった。



3. 「もう浅田と競争なくなる」=金妍児が記者会見〔五輪・フィギュア〕
時事通信 2月21日(金)23時27分

【ソチ時事】ソチ五輪のフィギュアスケート女子で銀メダルを獲得した金妍児(韓国)が21日、ソチで記者会見した。
 金妍児はショートプログラム(SP)で首位に立ったが、フリーで逆転されて女子3人目の連覇はならなかった。ソチ五輪を最後に引退する。
 聯合ニュースによると、記憶に残ったライバルとして浅田真央(中京大)の名前を挙げ、「長い間比較され、競争したが、もう競争もなくなる。私たちのように比較され続け、競技した選手は他にいないはず」と感慨深げに話した。
 また浅田がフリーの演技直後に涙を流したことには、「お互いに自分の国で最も注目を浴びたフィギュアの選手という点で共通している。選手の心情は私も理解できるし、浅田が泣きそうなときは私も込み上げてくる」とライバルを思いやった。 

4. ビクトル・アン、6つ目の五輪金メダル ST
朝日新聞デジタル 2月22日(土)3時13分

ソチ五輪第15日の21日、ショートトラック男子500メートルがあり、日本の坂下里士(トヨタ自動車)は準々決勝を突破したものの、準決勝1組で5人中最下位に終わり、決勝進出はならなかった。決勝ではビクトル・アン(ロシア)が1000メートルに続いて優勝した。トリノ五輪で三つの金メダルを獲得、2011年に韓国から国籍を変更したアンは500メートルの後に行われた5000メートルリレーでもロシアのメンバーとして優勝し、この大会でも3冠を達成。自身が持つ五輪ショートトラック男子の金メダルの最多獲得記録を「6」に伸ばした。

5. 惨敗の日本勢、強化体制の幹作りを
寺尾悟のショートトラック総括、(スポーツナビ)2014/2/22 11:20

歯を食いしばり、レースに臨む坂下【Getty Images】
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歯を食いしばり、レースに臨む坂下【Getty Images】
 ソチ冬季五輪のショートトラック競技が21日(現地時間)、男子500メートル、男子5000メートルリレー、女子1000メートルを持って、全種目が終了した。
 日本は男子の高御堂雄三、坂下里士(ともにトヨタ自動車)、坂爪亮介(タカショー)、女子の酒井裕唯(日本再生推進機構)、伊藤亜由子(トヨタ自動車)、清水小百合(中京大職)、桜井美馬(東海東京証券)がレースに出場したが(菊池萌水は出場せず)、個人では坂下の男子500メートルの9位が最高位で、期待された女子3000メートルリレーは5位に終わった。

 今大会の日本勢の戦いについて、1994年のリレハンメル五輪から2006年のトリノ五輪まで4大会連続出場を果たし、世界選手権では金2個を含む10個のメダルを獲得した、現在トヨタ自動車スケート部監督を務める寺尾悟さんに総括してもらった。

女子のリレーは「負け癖がついてしまっていた」
――今回、日本勢は全員が悔しい結果に終わってしまいましたが、その要因はなんだと思いますか?

 一言で考えるのは難しいですね。いろいろなことが重なって出た結果だと思います。ただ前半がスロースタートでした。最終日に2人が予選を勝ち上がり挽回しましたが、少し遅かったです。
 当然、今回は女子のリレーが一番有力だったと思うのですが、そこで取れなかったのが流れ的には悪かったですね。
 ただ女子のリレーは昨年の世界選手権で銅メダルを取りましたが、今季のワールドカップ(W杯)では思うような結果が出せていませんでした。調子が良い時は、ランキングも上がり、当然組み合わせもやりやすくなります。でも(結果が出せていない)その流れのまま、五輪を迎えてしまいました。

――実際、女子のリレーは期待されていましたが、個々の力という点で考えるとどうだったのでしょうか?

 もちろんリレーは単純には言えませんが、各国の力は500メートルと1000メートルを足したようなランキングになります。女子のリレーというのは大体4タッチ、5タッチぐらいで終わるため、距離が短く、どちらかというとスプリント的な要素が強いです。その辺りで、酒井が1000メートルの予選を1本通過しましたが、あとは500メートルも含めて誰も予選を通過できませんでした。

 リレーは日本の得意な緻密さ、技術的な要素が増えるのですが、やはり個々の力的なものを加味した時に、少し実力が足りていなかったと思います。

 あとチームとして負け癖がついてしまったのかも知れません。勝っている時は、勝ち方が分かるのですが、1度負け込んでしまうと、どうやって勝ったらいいのか、勝つ要因が見つけづらいというのも正直あると思います。五輪前に何かきっかけがあれば、もう少し変わっていたかもしれません。

総合的な力か、スペシャリストか――議論が必要
――男子についてはいかがでしょうか? 500メートルで9位になった坂下選手は「全然スピードが足りない」と話していましたが?

 世界との差は、一概にスピードだけじゃ測れないと思います。例えば、今回のコースの氷は厚く、水が多く、普段練習しているリンクよりも氷にかかる抵抗、氷の柔らかさが、あまり日本にはないタイプでした。そのため、単純に速いラップタイム、今回だと8秒3や4が出ていましたが、同じスピードでも普段と感じ方が異なっていたと思います。
 また五輪は普段の試合と違い、今日のレースのように準々決勝から始まります。普段は必ず予選などで順に勝ち上がって上位に行くのですが、今日はベスト16が出そろった状態で1本目が始まり、最初から100の力を出さないといけないんです。なかなか普段は無いことなので、いつもより足に疲労がきてしまったり、疲れ方が違ったりすることがあります。

 そういうこともあり、五輪で戦う難しさ、日程面でも5日間に分かれて、3日ずつ開催するというのは独特です。選手はイメージしようとしても、実際にやってみないと分からないということが多いです。

――強化という視点ではいかがでしょうか? 同じく坂下選手は「もっと500メートルに専念したかった」と話していましたが?

 それは五輪の選考方法にかかわってくると思うのですが、まずはリレーと言うのがあります。リレーで戦える選手が必要となった時に、1500メートルが速いだけじゃダメですし、500だけ速くてもダメということもあります。
 極端な話、個人種目しかないと仮定できれば、スペシャリストを選出するのは当然だと思いますが、リレーの選手で考えると、総合的な力を持つ選手で組みたいというのはあります。

――それはリレーなら日本チームでも勝てる可能性があるから?

 そこは単純にチーム数と出場数が全然違いますので。個人だと、五輪予選会でも70〜80人出ているわけですよ。そこから絞られていきますが、リレーは絶対的に出場チームが少ないので、単純に狙い目としてはあります。

 ただ今回の結果を受けて、やっぱり総合的なものを取るのか、スペシャリストを育てて個人種目で勝てる選手を選ぶのかというのは、議論は必要かと思います。何もなしというのは、ないと思います。

バンクーバー後の方向性は間違っていなかったが……

昨季世界選手権3位の日本女子。しかし今大会では決勝に進めず。右から、伊藤、酒井、桜井、清水【写真は共同】
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昨季世界選手権3位の日本女子。しかし今大会では決勝に進めず。右から、伊藤、酒井、桜井、清水【写真は共同】
――では、現在の全日本の強化体制はどうだったのでしょうか?

 今回も1カ月の半分ぐらいは合宿をしてきたので、強化の時間はあったと思います。ただ、内容や質、量と言った部分で、疑問符はありますね。この結果なので、良いとはなかなか言い切れないです。

――具体的にどんな部分で練習の質に差があるのでしょうか?

 今は僕らの時代より練習のタイムやラップは、総合的に上回っています。ただ練習の絶対量としては、僕らの時代より全然少ないと思うんです。けがとのぎりぎりの戦いでもあるのですが、その中でどこまでやれるのか、どこまで追い込んだ方がいいのかというのはすごい難しい部分ですね。
 今は練習量に関してある程度個人に任せている部分があるのですが、そこをもっとチームとして一貫して、もっと強い刺激を与えたりした方が良いか、新しい切り口から増やすのか、考えないといけないですね。

 ただ前のバンクーバーが終わった2シーズン後には酒井がW杯で総合優勝したり、世界選手権のリレーでメダルを取ったり、一定の成績はバンクーバー前に比べて良かった部分だと思います。

――課題はクリアーされていて、方向性は間違ってないと?

 バンクーバー後、最初の2年で日本勢の結果が出てきていたんで、多少ぶれずに迷わず、進んでいってもいいかなと思います。一概に、何かが足りなかった、何かがダメだったという結果ばかりでもなかったです。

――今回の五輪はピークが合わなかった?

 確かに、他の国はこの1年間が勝負だったんでしょうね。昨年までは戦える部分があったので。結局、五輪で結果が出なかったということが評価になりますから、少し考えないといけないと思います。

平昌五輪の前に、まず世界選手権で結果を
――実際、世界のレベルは上がっているのでしょうか?

 どちらかというと、トップは少しスローダウンしていると思います。ただ、今は中間に位置していたヨーロッパ勢がグーンと力を付けています。そこに日本は飲まれてしまっている状態です。だから難しい部分があると思います。
 今回の五輪はヴィクトル・アン(ロシア)が個人で2個、団体で1個の金メダルを取っていますが、W杯や世界選手権ではメダルが偏ることはありません。
 昔のように韓国ばっかり、カナダばっかり、中国ばっかりということはなく、だいぶトップと中間層との差が詰まっています。

――その中で、日本は食らいついていくしかないと。

 そうですね。追いつく側の人間は、大体そこまでいけるというイメージができるので。僕らはそこに追いつくだけを考えればいいので、だから日本はまだまだやれる可能性があると思います。
 技術のベースはどの国も取り入れていると思います。だから夏のシーズンや、W杯期間の2、3週間や、1カ月をどのように過ごすかは大きいと思います。

――次回の平昌五輪へ向けてどんな強化をしていくべきでしょうか?

 具体的な話は、考えないといけません。今回は結果が出なかったので、この延長線上に答えはないと思います。少し違う切り口で進めてみたいです。
 いずれにしてもぶれないことが大事だと思います。いろいろ気になる部分はあると思いますが、やっぱりある程度の幹を作ったら、それを信じてやっていかないとダメかなと思います。

 次の平昌五輪は2020年東京五輪の前の大会となるので、そこで良い流れを作って、東京での夏季五輪があって、その次の冬につなぐ。この3大会は非常に大事かなと思います。
 ただ簡単に4年で強化が間に合うと思わないので、すぐに動かないといけないかなと思います。

――まずは次の世界選手権が目下の指標になるかと?

 僕も長野五輪の際、周りに期待されて結果が出ず、その1カ月あとの世界選手権でメダルを取ったりしました。やっぱり、五輪でダメだったから全部終わりとか、これがすべてではありません。ショートトラックで言うと、最高峰の戦いは世界選手権なので、当然、そういうところで、しっかり結果を出すことに切り替えることが大事かなと思います。

<了>
ニュース、

1. バリ遭難4人帰国 「全員で帰国できずつらい」言葉を詰まらせる
産経新聞 2月21日(金)15時36分配信

バリ遭難4人帰国 「全員で帰国できずつらい」言葉を詰まらせる

インドネシア・バリ島沖で起きたダイビング事故で、救助された4人が関西国際空港に到着。山本栄美さん、吉留温美さん、森園彩さん(左から)=21日、関西国際空港(安元雄太撮影)(写真:産経新聞)

 インドネシア・バリ島沖で起きたダイビング事故で、救助された那覇市在住のダイビングインストラクター、山本栄美さん(33)ら日本人女性4人が21日午前、関西国際空港に帰国した。互いに「本当に帰ってくることができたんだね」と語り合ったというが表情には疲労の色が浮かび、取材に応じた山本さんは「全員で帰国できずつらい」と言葉を詰まらせた。

 帰国したのは山本さんと、いずれも神戸大病院(神戸市)に勤務する森園彩さん(27)と冨田奈穂美(なほみ)さん(28)、吉留(よしどめ)温美(あつみ)さん(29)。4人と家族を乗せた飛行機は同日午前8時40分ごろ、関西国際空港に到着。森園さんと吉留さんは互いの手を握り、こわばった表情で入国手続きに進んだ。

 「皆さんのおかげで帰国できました」。報道陣の取材に応じた山本さんは深々と頭を下げたが、その表情は晴れなかった。バリ島在住のインストラクター、高橋祥子さん(35)は行方不明のままで、宮田律子さん(59)=本籍・大阪府=は死亡。山本さんは「全員一緒に帰ってこられなかったことがつらいです」ともらした。

 4日間の漂流について「みんなでいたから耐えることができた。今は思い出しくない」と振り返り、「(高橋さんが)見つかることを願いながらゆっくりしたい。早く回復して、通常の生活に戻れたらいい」と話した。
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葉の水滴で命つなぎ奇跡の生還「チャーハンとおそば食べたい」

2. 24人死亡、223人依然孤立…大雪1週間
読売新聞 2月21日(金)20時21分配信

関東甲信を中心とした記録的な大雪は21日、降り始めから1週間となった。政府が同日まとめた大雪の被害状況によると、群馬、埼玉県などで計24人が死亡、計596人が負傷した。

 住宅被害は全壊が62棟、半壊・一部損壊は381棟に上った。読売新聞のまとめでは午後5時現在、4都県で少なくとも223人が依然、孤立状態となっている。

 農畜産物や関連施設の被害総額は、2週間前の降雪を含めて1都6県で約481億円に上っている。降雪が激しかった山梨、長野県は集計できておらず、さらに被害額は拡大する見込み。

 一方、道路が寸断されるなどして一時孤立状態に陥ったのは11都県50市町村231地区で、少なくとも1万8700人に上った。山梨県早川町(人口1183人)や群馬県南牧村(人口約2300人)は全域で孤立、東京都檜原村は人口の3割にあたる800人が、身動きがとれなくなった。

3. “ニセ教諭”が15年間授業 大阪の中学「いつバレるかとドキドキ…」
産経新聞 2月21日(金)22時39分配信

大阪府教委は21日、東大阪市立の中学校で社会科を担当していた男性教諭(45)が教員免許を持たないまま15年間にわたり、市立中計4校で授業を行っていたと発表した。男性は採用時、教員免許を偽造して提出していた。府教委は今月20日、男性を失職扱いとし、給与の返還請求などを検討している。文部科学省は「15年間にわたり無免許で教えた例は聞いたことがない」としている。

 府教委は、男性の行為が有印公文書偽造や教育職員免許法違反などの罪にあたる可能性もあるとみて大阪府警に相談している。

 府教委によると、1月の免許更新手続きの過程で発覚。免許状には名前や生年月日、番号などが記載されているが、男性が提出した免許状のコピーと電子システムに登録されている番号が別人だったため、問い詰めたところ偽造を認めた。

 男性は採用時、友人から借りた免許状の名前などを書き換えて偽造し、府教委に提出していた。男性は「周囲には教員になると言っていたのに大学を卒業できなかった。いつばれるかとどきどきしていた」と話しているという。

 府教委はこの教諭の授業を受けた生徒の卒業認定や在校生の進級認定は有効としている。
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4. <福島第1原発>配管の弁、すべて開く…汚染水漏れ
毎日新聞 2月21日(金)21時29分配信

<福島第1原発>配管の弁、すべて開く…汚染水漏れ

福島第1原発の配管の弁。汚染水漏えい前に開いていることが確認された=東京電力提供

 東京電力福島第1原発で極めて高濃度の汚染水約100トンが漏れた事故で、東電は21日、汚染水貯蔵タンクにつながる三つの弁のうち、「閉まっていた」と発表していた一つの弁が一時的に開いていたと発表した。通常は、汚染水を移送する時以外、すべて閉まっている。今回のトラブルは、弁を誤って開いたことによる人為的なミスだった可能性が強まった。

【福島第1原発の高濃度汚染水漏れ】東電不信さらに増幅、温度計故障も

 ◇人為的ミスか

 東電によると、弁が開いていたのは「H6エリア」と呼ばれるタンク群へ汚染水を流す配管。三つの弁がすべて開くと汚染水がタンクへ送られる。東電は20日、「一つは閉じていた」と説明したが、21日に再調査した結果、一時的にすべて開いていたことが分かった。

 東電は17日から、H6と配管を共有する「Eエリア」のタンクへ汚染水を流す作業をしていた。しかしH6側の三つの弁がいずれも開いていた一方、E側へ流れる弁が閉まっていたため、満杯だったH6のタンクに汚染水が流れ込み、大量にあふれたとみられる。

 漏れる前の19日午前に撮影した弁の写真では、弁を操作する器具が接続されたまま開いており、作業員が何らかの原因で弁を開いたとみられる。一方、事故発覚前後の同日夜から、翌日未明に弁が閉じられた形跡があり、作業員が閉め直した疑いが出ている。

 弁が意図的に操作された可能性について、東電の尾野昌之原子力・立地本部長代理は21日の記者会見で「先入観を持たずに調べる」と述べた。【河内敏康、中西拓司】
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2014年2月22日。5. 2月22日は「猫の日」。

2014-02-22 16:55:30 | 日記
2014年2月22日【土】
#、為替、102.56円。円。円。ユーロ、140.90円。円。円。
#、ダウ、16103.30ドル。-29.93ユーロ4263.41、-4.13。
今日の人。
22.清水次郎長2/22

清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。

浪曲、映画で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。
文政3年(1820年)、駿河国有渡郡清水町美濃輪町(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれる。母方の叔父にあたる米穀商の甲田屋の主山本次郎八は実子がなく、次郎八の養子となった。幼少時代の仲間に「長」(正式の名称は不明)という子供がいたために周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼び、長じてからもそう呼称されることになったという。

清水港は富士川舟運を通じて信濃・甲斐方面の年貢米を江戸へ輸送する廻米を行っており、清水湊の廻船業者は口銭徴収を主とする特権的業者が主であったが、次郎長の生まれた箕輪町は清水湊(清水港)における新開地で、父の三右衛門とは異なり自ら商品を輸送する海運業者であった。また、叔父の次郎八は米穀仲買の株を持つ商人であることからも、三右衛門は次郎八を通じて米穀を輸送していたと考えられている[1]

養父の次郎八は天保6年(1835年)に死去し、次郎吉は甲田屋の主人となる。次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返しており、天保14年(1843年)、次郎長は喧嘩の果てに人を斬ると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲ると江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。この時代の次郎長の事跡については明治初期に養子であった天田五郎の『東海遊侠伝』に詳しい[2]。

弘化2年(1845年)には甲斐国鴨狩津向村(市川三郷町)の津向文吉と次郎長の叔父和田島太右衛門の間で出入りが発生し、次郎長はこれを調停している。弘化4年(1847年)には江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、一家を構える。安政5年(1858年)12月には甲州における出入りにおいて官憲に追われ、逃亡先の名古屋で保下田久六の裏切りに遭い、安政6年(1859年)には尾張知多亀崎乙川において久六を斬殺する。

その後は富士川舟運の権益を巡り甲州博徒と対立し、黒駒勝蔵と抗争を繰り広げる。

慶応4年(1868年)3月、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より街道警固役を任命され、この役を7月まで務めた。

同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡した。その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないと言って突っぱねたという。当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は これを深く感謝し、これが機縁となって次郎長は明治において山岡・榎本と交際したとされる。

博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑がある。

ただし血腥い事件も彼の周辺で起こっており、次郎長不在中に久能山の衛士に3番目の妻を殺されている。また有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊や遠州報国隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させないために弱い者をかばっている。

明治17年(1884年)には「賭博犯処分規則」により逮捕され、懲罰7年・過料金400円に処せられ、井宮監獄に服役する。関口隆吉やなどの尽力などにより、刑期の満了を待たずに仮釈放になった。

明治26年(1893年)、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。戒名は碩量軒雄山義海居士。

オープン戦
1.ソフトバンク対西武戦。【宮崎アイビー】
8対1でソフトバンク勝利。
2.広島対阪神戦。【ヨザしんきん】
2対2で引き分け勝利。
3.中日対オリックス戦。【北谷】
2対1でオリックス勝利。
4.ヤクルト対楽天戦。【浦添】
7対4で楽天勝利。
5.日本ハム対ロッテ戦。【名護】
7対1で日本ハム勝利。
6.巨人対DeNA戦。【沖縄セルラー那覇】
10対2でDeNA勝利。
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1. 内海、杉内、澤村…巨人投手陣「故障者続出」に“人災”指摘する声
東スポWeb 2月15日(土)11時55分配信

内海、杉内、澤村…巨人投手陣「故障者続出」に“人災”指摘する声

すねに打球が直撃したエース・内海

 ゴジラフィーバーの陰で緊急事態発生だ。OBの松井秀喜氏(39)の臨時コーチ就任で沸いた巨人の宮崎キャンプは13日に最終日を迎えた。今後は沖縄へと場所を移し、実戦主体の最終調整に入る。そんななか、先発ローテーションの柱として期待される主力投手に故障者が続出。首脳陣は真っ青になっているが、チーム内からは“人災”だと指摘する声も上がっている。

 雨のため木の花ドームでシート打撃が行われた際にアクシデントが起きた。ルーキーの小林誠司捕手(24=日本生命)がはじき返した打球が、投げた内海の左すねを直撃。エース左腕は「大丈夫」というそぶりを見せてしばらく投球を続けていたが、流血していたため宮崎市内の病院へ直行し、傷の縫合を行った。

 病院から戻った内海は「全然、問題ない」と笑顔を見せ、川口投手総合コーチも「裂傷です。長くはかかりません。大丈夫」と軽傷を強調。とはいえ、縫うほどの傷だけに多少の調整遅れは避けられそうにない。

 そしてこの日は、完全復活を期待される杉内も腰に違和感を訴えてシート打撃登板を回避した。二軍調整こそ見送られたが、しばらく様子を見ることになるという。本人は「腰が張ったから大事を取ってやめた。飛ばしすぎたかな」と苦笑いだったが、左腕の二枚看板が出遅れるようだとチームにとっては“軽症”では済まない。

 だが、この2人はまだマシな方だ。今キャンプでは、3日に澤村が右肩不安を訴えて二軍行き。9日には期待の左腕・今村も左肩痛で二軍へ送られた。今村は「沖縄は難しそう。(3月の)オープン戦中には戻りたいと思っていますが…」と話しているだけに、症状は軽くなさそうだ。

 故障と呼べないケースもある。菅野も第2クール中に背中に張りを訴え調整ペースをダウン。この日のブルペン投球も立ち投げだけにとどめた。

 菅野は「開幕がすべて」と焦りを顔に出さないが、順調とは程遠い。先発ローテ候補の5人に何らかのトラブルが発生し、いまだ元気なのは新加入組の大竹、セドンと小山、宮国ぐらい。そんな状況に、現場スタッフは「今の時期にこうでは、今年の投手はダメだね。苦しいシーズンになるよ」と暗い顔でつぶやく。

 同スタッフが故障者続出の原因に挙げたのは、異例のスピード調整だ。原監督の「初日に全力で投げられるように」との指示を守って自主トレからガンガン投げ、1日には全員がブルペン入り。阿部ら野手陣からも「早過ぎないか」と危惧する声は上がっていたが、恐れていた事態が早くも現実になりつつある。首脳陣のパニックぶりも徐々に伝わってきた。原監督は当初、沖縄行き投手を18人としていたが、川口コーチからの要請を受け、この日になって急きょ1人追加。二軍から香月の招集を決めた。

 宮崎での1次キャンプを打ち上げた原監督は、不安の色を見せず「全体的に選手たちは順調にきている。(沖縄では)しっかり観察し、チームをどう組み立てるのが巨人にとってベストか。探りながらやっていきたい」と語ったが、その心中は穏やかでないだろう。これまで華やかなゴジラフィーバーにかき消されていたが、盤石とみられていた投手陣からギシギシと屋台骨がきしむ音が聞こえ始めてきた。
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2. 「女子の底力見た」高橋大輔、昨日も今日も泣く
読売新聞 2月21日(金)16時47分配信

フィギュア男子の高橋大輔選手(27)は観客席で、長光歌子コーチらと女子選手の活躍を見守った。

 前日のショートプログラム(SP)に続く応援で、高橋選手は日本選手の演技に「昨日も今日も泣いた。本当にいいものを見させてもらった。女子の底力を見た」と感激した様子。「真央ちゃんもアッコちゃん(鈴木選手)も佳菜子も、今できる精いっぱいをやった。『お疲れさま』と言いたい」とねぎらった。



3. 「もう浅田と競争なくなる」=金妍児が記者会見〔五輪・フィギュア〕
時事通信 2月21日(金)23時27分

【ソチ時事】ソチ五輪のフィギュアスケート女子で銀メダルを獲得した金妍児(韓国)が21日、ソチで記者会見した。
 金妍児はショートプログラム(SP)で首位に立ったが、フリーで逆転されて女子3人目の連覇はならなかった。ソチ五輪を最後に引退する。
 聯合ニュースによると、記憶に残ったライバルとして浅田真央(中京大)の名前を挙げ、「長い間比較され、競争したが、もう競争もなくなる。私たちのように比較され続け、競技した選手は他にいないはず」と感慨深げに話した。
 また浅田がフリーの演技直後に涙を流したことには、「お互いに自分の国で最も注目を浴びたフィギュアの選手という点で共通している。選手の心情は私も理解できるし、浅田が泣きそうなときは私も込み上げてくる」とライバルを思いやった。 

4. ビクトル・アン、6つ目の五輪金メダル ST
朝日新聞デジタル 2月22日(土)3時13分

ソチ五輪第15日の21日、ショートトラック男子500メートルがあり、日本の坂下里士(トヨタ自動車)は準々決勝を突破したものの、準決勝1組で5人中最下位に終わり、決勝進出はならなかった。決勝ではビクトル・アン(ロシア)が1000メートルに続いて優勝した。トリノ五輪で三つの金メダルを獲得、2011年に韓国から国籍を変更したアンは500メートルの後に行われた5000メートルリレーでもロシアのメンバーとして優勝し、この大会でも3冠を達成。自身が持つ五輪ショートトラック男子の金メダルの最多獲得記録を「6」に伸ばした。

5. 惨敗の日本勢、強化体制の幹作りを
寺尾悟のショートトラック総括、(スポーツナビ)2014/2/22 11:20

歯を食いしばり、レースに臨む坂下【Getty Images】
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歯を食いしばり、レースに臨む坂下【Getty Images】
 ソチ冬季五輪のショートトラック競技が21日(現地時間)、男子500メートル、男子5000メートルリレー、女子1000メートルを持って、全種目が終了した。
 日本は男子の高御堂雄三、坂下里士(ともにトヨタ自動車)、坂爪亮介(タカショー)、女子の酒井裕唯(日本再生推進機構)、伊藤亜由子(トヨタ自動車)、清水小百合(中京大職)、桜井美馬(東海東京証券)がレースに出場したが(菊池萌水は出場せず)、個人では坂下の男子500メートルの9位が最高位で、期待された女子3000メートルリレーは5位に終わった。

 今大会の日本勢の戦いについて、1994年のリレハンメル五輪から2006年のトリノ五輪まで4大会連続出場を果たし、世界選手権では金2個を含む10個のメダルを獲得した、現在トヨタ自動車スケート部監督を務める寺尾悟さんに総括してもらった。

女子のリレーは「負け癖がついてしまっていた」
――今回、日本勢は全員が悔しい結果に終わってしまいましたが、その要因はなんだと思いますか?

 一言で考えるのは難しいですね。いろいろなことが重なって出た結果だと思います。ただ前半がスロースタートでした。最終日に2人が予選を勝ち上がり挽回しましたが、少し遅かったです。
 当然、今回は女子のリレーが一番有力だったと思うのですが、そこで取れなかったのが流れ的には悪かったですね。
 ただ女子のリレーは昨年の世界選手権で銅メダルを取りましたが、今季のワールドカップ(W杯)では思うような結果が出せていませんでした。調子が良い時は、ランキングも上がり、当然組み合わせもやりやすくなります。でも(結果が出せていない)その流れのまま、五輪を迎えてしまいました。

――実際、女子のリレーは期待されていましたが、個々の力という点で考えるとどうだったのでしょうか?

 もちろんリレーは単純には言えませんが、各国の力は500メートルと1000メートルを足したようなランキングになります。女子のリレーというのは大体4タッチ、5タッチぐらいで終わるため、距離が短く、どちらかというとスプリント的な要素が強いです。その辺りで、酒井が1000メートルの予選を1本通過しましたが、あとは500メートルも含めて誰も予選を通過できませんでした。

 リレーは日本の得意な緻密さ、技術的な要素が増えるのですが、やはり個々の力的なものを加味した時に、少し実力が足りていなかったと思います。

 あとチームとして負け癖がついてしまったのかも知れません。勝っている時は、勝ち方が分かるのですが、1度負け込んでしまうと、どうやって勝ったらいいのか、勝つ要因が見つけづらいというのも正直あると思います。五輪前に何かきっかけがあれば、もう少し変わっていたかもしれません。

総合的な力か、スペシャリストか――議論が必要
――男子についてはいかがでしょうか? 500メートルで9位になった坂下選手は「全然スピードが足りない」と話していましたが?

 世界との差は、一概にスピードだけじゃ測れないと思います。例えば、今回のコースの氷は厚く、水が多く、普段練習しているリンクよりも氷にかかる抵抗、氷の柔らかさが、あまり日本にはないタイプでした。そのため、単純に速いラップタイム、今回だと8秒3や4が出ていましたが、同じスピードでも普段と感じ方が異なっていたと思います。
 また五輪は普段の試合と違い、今日のレースのように準々決勝から始まります。普段は必ず予選などで順に勝ち上がって上位に行くのですが、今日はベスト16が出そろった状態で1本目が始まり、最初から100の力を出さないといけないんです。なかなか普段は無いことなので、いつもより足に疲労がきてしまったり、疲れ方が違ったりすることがあります。

 そういうこともあり、五輪で戦う難しさ、日程面でも5日間に分かれて、3日ずつ開催するというのは独特です。選手はイメージしようとしても、実際にやってみないと分からないということが多いです。

――強化という視点ではいかがでしょうか? 同じく坂下選手は「もっと500メートルに専念したかった」と話していましたが?

 それは五輪の選考方法にかかわってくると思うのですが、まずはリレーと言うのがあります。リレーで戦える選手が必要となった時に、1500メートルが速いだけじゃダメですし、500だけ速くてもダメということもあります。
 極端な話、個人種目しかないと仮定できれば、スペシャリストを選出するのは当然だと思いますが、リレーの選手で考えると、総合的な力を持つ選手で組みたいというのはあります。

――それはリレーなら日本チームでも勝てる可能性があるから?

 そこは単純にチーム数と出場数が全然違いますので。個人だと、五輪予選会でも70〜80人出ているわけですよ。そこから絞られていきますが、リレーは絶対的に出場チームが少ないので、単純に狙い目としてはあります。

 ただ今回の結果を受けて、やっぱり総合的なものを取るのか、スペシャリストを育てて個人種目で勝てる選手を選ぶのかというのは、議論は必要かと思います。何もなしというのは、ないと思います。

バンクーバー後の方向性は間違っていなかったが……

昨季世界選手権3位の日本女子。しかし今大会では決勝に進めず。右から、伊藤、酒井、桜井、清水【写真は共同】
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昨季世界選手権3位の日本女子。しかし今大会では決勝に進めず。右から、伊藤、酒井、桜井、清水【写真は共同】
――では、現在の全日本の強化体制はどうだったのでしょうか?

 今回も1カ月の半分ぐらいは合宿をしてきたので、強化の時間はあったと思います。ただ、内容や質、量と言った部分で、疑問符はありますね。この結果なので、良いとはなかなか言い切れないです。

――具体的にどんな部分で練習の質に差があるのでしょうか?

 今は僕らの時代より練習のタイムやラップは、総合的に上回っています。ただ練習の絶対量としては、僕らの時代より全然少ないと思うんです。けがとのぎりぎりの戦いでもあるのですが、その中でどこまでやれるのか、どこまで追い込んだ方がいいのかというのはすごい難しい部分ですね。
 今は練習量に関してある程度個人に任せている部分があるのですが、そこをもっとチームとして一貫して、もっと強い刺激を与えたりした方が良いか、新しい切り口から増やすのか、考えないといけないですね。

 ただ前のバンクーバーが終わった2シーズン後には酒井がW杯で総合優勝したり、世界選手権のリレーでメダルを取ったり、一定の成績はバンクーバー前に比べて良かった部分だと思います。

――課題はクリアーされていて、方向性は間違ってないと?

 バンクーバー後、最初の2年で日本勢の結果が出てきていたんで、多少ぶれずに迷わず、進んでいってもいいかなと思います。一概に、何かが足りなかった、何かがダメだったという結果ばかりでもなかったです。

――今回の五輪はピークが合わなかった?

 確かに、他の国はこの1年間が勝負だったんでしょうね。昨年までは戦える部分があったので。結局、五輪で結果が出なかったということが評価になりますから、少し考えないといけないと思います。

平昌五輪の前に、まず世界選手権で結果を
――実際、世界のレベルは上がっているのでしょうか?

 どちらかというと、トップは少しスローダウンしていると思います。ただ、今は中間に位置していたヨーロッパ勢がグーンと力を付けています。そこに日本は飲まれてしまっている状態です。だから難しい部分があると思います。
 今回の五輪はヴィクトル・アン(ロシア)が個人で2個、団体で1個の金メダルを取っていますが、W杯や世界選手権ではメダルが偏ることはありません。
 昔のように韓国ばっかり、カナダばっかり、中国ばっかりということはなく、だいぶトップと中間層との差が詰まっています。

――その中で、日本は食らいついていくしかないと。

 そうですね。追いつく側の人間は、大体そこまでいけるというイメージができるので。僕らはそこに追いつくだけを考えればいいので、だから日本はまだまだやれる可能性があると思います。
 技術のベースはどの国も取り入れていると思います。だから夏のシーズンや、W杯期間の2、3週間や、1カ月をどのように過ごすかは大きいと思います。

――次回の平昌五輪へ向けてどんな強化をしていくべきでしょうか?

 具体的な話は、考えないといけません。今回は結果が出なかったので、この延長線上に答えはないと思います。少し違う切り口で進めてみたいです。
 いずれにしてもぶれないことが大事だと思います。いろいろ気になる部分はあると思いますが、やっぱりある程度の幹を作ったら、それを信じてやっていかないとダメかなと思います。

 次の平昌五輪は2020年東京五輪の前の大会となるので、そこで良い流れを作って、東京での夏季五輪があって、その次の冬につなぐ。この3大会は非常に大事かなと思います。
 ただ簡単に4年で強化が間に合うと思わないので、すぐに動かないといけないかなと思います。

――まずは次の世界選手権が目下の指標になるかと?

 僕も長野五輪の際、周りに期待されて結果が出ず、その1カ月あとの世界選手権でメダルを取ったりしました。やっぱり、五輪でダメだったから全部終わりとか、これがすべてではありません。ショートトラックで言うと、最高峰の戦いは世界選手権なので、当然、そういうところで、しっかり結果を出すことに切り替えることが大事かなと思います。

<了>


ニュース、

1. バリ遭難4人帰国 「全員で帰国できずつらい」言葉を詰まらせる
産経新聞 2月21日(金)15時36分配信

バリ遭難4人帰国 「全員で帰国できずつらい」言葉を詰まらせる

インドネシア・バリ島沖で起きたダイビング事故で、救助された4人が関西国際空港に到着。山本栄美さん、吉留温美さん、森園彩さん(左から)=21日、関西国際空港(安元雄太撮影)(写真:産経新聞)

 インドネシア・バリ島沖で起きたダイビング事故で、救助された那覇市在住のダイビングインストラクター、山本栄美さん(33)ら日本人女性4人が21日午前、関西国際空港に帰国した。互いに「本当に帰ってくることができたんだね」と語り合ったというが表情には疲労の色が浮かび、取材に応じた山本さんは「全員で帰国できずつらい」と言葉を詰まらせた。

 帰国したのは山本さんと、いずれも神戸大病院(神戸市)に勤務する森園彩さん(27)と冨田奈穂美(なほみ)さん(28)、吉留(よしどめ)温美(あつみ)さん(29)。4人と家族を乗せた飛行機は同日午前8時40分ごろ、関西国際空港に到着。森園さんと吉留さんは互いの手を握り、こわばった表情で入国手続きに進んだ。

 「皆さんのおかげで帰国できました」。報道陣の取材に応じた山本さんは深々と頭を下げたが、その表情は晴れなかった。バリ島在住のインストラクター、高橋祥子さん(35)は行方不明のままで、宮田律子さん(59)=本籍・大阪府=は死亡。山本さんは「全員一緒に帰ってこられなかったことがつらいです」ともらした。

 4日間の漂流について「みんなでいたから耐えることができた。今は思い出しくない」と振り返り、「(高橋さんが)見つかることを願いながらゆっくりしたい。早く回復して、通常の生活に戻れたらいい」と話した。
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2. 24人死亡、223人依然孤立…大雪1週間
読売新聞 2月21日(金)20時21分配信

関東甲信を中心とした記録的な大雪は21日、降り始めから1週間となった。政府が同日まとめた大雪の被害状況によると、群馬、埼玉県などで計24人が死亡、計596人が負傷した。

 住宅被害は全壊が62棟、半壊・一部損壊は381棟に上った。読売新聞のまとめでは午後5時現在、4都県で少なくとも223人が依然、孤立状態となっている。

 農畜産物や関連施設の被害総額は、2週間前の降雪を含めて1都6県で約481億円に上っている。降雪が激しかった山梨、長野県は集計できておらず、さらに被害額は拡大する見込み。

 一方、道路が寸断されるなどして一時孤立状態に陥ったのは11都県50市町村231地区で、少なくとも1万8700人に上った。山梨県早川町(人口1183人)や群馬県南牧村(人口約2300人)は全域で孤立、東京都檜原村は人口の3割にあたる800人が、身動きがとれなくなった。

3. “ニセ教諭”が15年間授業 大阪の中学「いつバレるかとドキドキ…」
産経新聞 2月21日(金)22時39分配信

大阪府教委は21日、東大阪市立の中学校で社会科を担当していた男性教諭(45)が教員免許を持たないまま15年間にわたり、市立中計4校で授業を行っていたと発表した。男性は採用時、教員免許を偽造して提出していた。府教委は今月20日、男性を失職扱いとし、給与の返還請求などを検討している。文部科学省は「15年間にわたり無免許で教えた例は聞いたことがない」としている。

 府教委は、男性の行為が有印公文書偽造や教育職員免許法違反などの罪にあたる可能性もあるとみて大阪府警に相談している。

 府教委によると、1月の免許更新手続きの過程で発覚。免許状には名前や生年月日、番号などが記載されているが、男性が提出した免許状のコピーと電子システムに登録されている番号が別人だったため、問い詰めたところ偽造を認めた。

 男性は採用時、友人から借りた免許状の名前などを書き換えて偽造し、府教委に提出していた。男性は「周囲には教員になると言っていたのに大学を卒業できなかった。いつばれるかとどきどきしていた」と話しているという。

 府教委はこの教諭の授業を受けた生徒の卒業認定や在校生の進級認定は有効としている。
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4. <福島第1原発>配管の弁、すべて開く…汚染水漏れ
毎日新聞 2月21日(金)21時29分配信

<福島第1原発>配管の弁、すべて開く…汚染水漏れ

福島第1原発の配管の弁。汚染水漏えい前に開いていることが確認された=東京電力提供

 東京電力福島第1原発で極めて高濃度の汚染水約100トンが漏れた事故で、東電は21日、汚染水貯蔵タンクにつながる三つの弁のうち、「閉まっていた」と発表していた一つの弁が一時的に開いていたと発表した。通常は、汚染水を移送する時以外、すべて閉まっている。今回のトラブルは、弁を誤って開いたことによる人為的なミスだった可能性が強まった。

【福島第1原発の高濃度汚染水漏れ】東電不信さらに増幅、温度計故障も

 ◇人為的ミスか

 東電によると、弁が開いていたのは「H6エリア」と呼ばれるタンク群へ汚染水を流す配管。三つの弁がすべて開くと汚染水がタンクへ送られる。東電は20日、「一つは閉じていた」と説明したが、21日に再調査した結果、一時的にすべて開いていたことが分かった。

 東電は17日から、H6と配管を共有する「Eエリア」のタンクへ汚染水を流す作業をしていた。しかしH6側の三つの弁がいずれも開いていた一方、E側へ流れる弁が閉まっていたため、満杯だったH6のタンクに汚染水が流れ込み、大量にあふれたとみられる。

 漏れる前の19日午前に撮影した弁の写真では、弁を操作する器具が接続されたまま開いており、作業員が何らかの原因で弁を開いたとみられる。一方、事故発覚前後の同日夜から、翌日未明に弁が閉じられた形跡があり、作業員が閉め直した疑いが出ている。

 弁が意図的に操作された可能性について、東電の尾野昌之原子力・立地本部長代理は21日の記者会見で「先入観を持たずに調べる」と述べた。【河内敏康、中西拓司】
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5. 2月22日は「猫の日」。動物管理センターに収容された不幸な猫たちを思う

  @DIME 2月22日(土)13時36分配信




2月22日は「猫の日」。動物管理センターに収容された不幸な猫たちを思う
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2月22日は「猫の日」。動物管理センターに収容された不幸な猫たちを思う
2月22日は「にゃんにゃんにゃん」の猫の日だ。「猫と一緒に暮らせる幸せに感謝し、猫とともにこの喜びをかみしめる」ための記念日いう趣旨のもと、1987年に制定された。

 今日は2月22日、いわずと知れた(?)「にゃんにゃんにゃん」の猫の日だ。「猫と一緒に暮らせる幸せに感謝し、猫とともにこの喜びをかみしめる」ための記念日いう趣旨のもと、1987年に制定された。猫を家族に迎え入れている人にとっては特別な日だからこそ、飼い主から見捨てられた多くの猫が収容される動物管理センターのことを考えてみたい。

■きっかけはわさびちゃんとの出会い

 昨年、ツイッターを中心にその愛くるしさや懸命に生きる姿が話題となり、『ありがとう!わさびちゃん』(小学館)で多くの人の涙を誘ったわさびちゃんも、父さんと母さんに救われるまでは、野良の子猫だった。

「今まであまり意識したことはなかったのですが、わさびとの出会いがあって、捨て猫や野良猫について考えるようになりました」

 そう語るのは、保護時に口の中を大怪我していたわさびちゃんのために、睡眠時間や仕事の時間を削って介護をしていた母さんだ。

「(後継猫の)一味にしても、雑種ですが、模様からアメリカンショートヘアの血が混じっていると思います。明らかに人間の身勝手で捨てられたとか、人間がケアを怠ったために生まれてきた野良猫なんですよね。わさびも一味も、本来は野生にはいないはずの家猫なんです」

 一味ちゃんは、わさびちゃんが天に召されてほどなくして、やはり母さんが保護した元野良の子猫。哺乳瓶から育てられ、今ではわさびちゃんの分まで元気にやんちゃに成長してくれている。わさびちゃんの存在がなかったら、一味ちゃんが父さん母さんの家族になることも、もしかしたらなかったのかもしれない。

■多頭崩壊の悲劇…なぜ?

「最近、私の地元の札幌で、多頭崩壊で飼い主さんに放棄された猫たちが、動物管理センターに収容されました。マンションの1室に、90匹以上もの猫がいたらしいんです。ボランティア団体さんの努力などで少しずつ里親募集の準備が進められているようですが、こんなことってあるんだと、びっくりしました」

 母さんは続ける。

「今回の多頭崩壊では、センターの方々が善意で異例の措置をとって下さり、通常の収容枠以上の猫を受け入れて預かってくれているそうです。とはいえ、里親が見つからなければ順次、命が奪われてしまう可能性があります。一日も早く、ひとりでも多くの方が里親の名乗りをあげて下さるといいのですが…」

 つい先日も福岡県で同じようなことがあり、地元メディアでも取り上げられたばかりだ。

「もともとは1、2匹だったそうです。それが、避妊去勢をしないまま飼っていたため、あっという間に増えてしまったようです。飼えないからと捨てるのも問題ですが、こんな風に必要なケアをしないで放置した結果、みんなセンターに送られてしまうなんて。近親交配で病気になりやすいばかりでなく、衛生面でも問題があると思います。どうして人間の勝手で罪もなくただ生まれてきただけの猫たちが、こんな目に遭わなくちゃいけないのか、そればかり考えてしまいます」

 もとはかわいくて飼い始めたはずなのに、と母さんは声を絞る。

■猫の幸せって、なんだろう?

 わさびちゃんがきっかけとなり、今まで気付かなかったいろいろなことが目に入るようになってきたという母さん。目の前で無邪気に遊んでいる一味ちゃんを見ていると、時々無性に切なくなって、「一味、うちにきてくれてありがとう」とぎゅっと抱きしめたくなるそう。

「人間に運命を翻弄されてしまう猫たち。1匹1匹みんなに暖かい家庭を提供できたらと思うけど、それは途方もない話で…。でも、無理だといったら何も変わらないわけで、飼えていこうというひとりひとりの意識が必要なんじゃないかなと思います。家庭によってそれぞれ飼い方、考え方は違うかもしれませんが、少なくとも今現在、猫を飼っている方には是非、家族としての責任を全うして頂きたいなと思うんです」

 猫の幸せってなんだろう。そう考える時、母さんはいつも、ゴロゴロと喉をならしていたわさびちゃんのぬくもりを思い出し、甘えながら食べたいものをおねだりする一味ちゃんを思うという。

「暖かくて安全な寝床があって、お腹いっぱい食べられるというのはもちろんですが、やはり猫は本来、人に寄り添って生きてきたと思うんです。人の愛情を受けるというのも、猫の幸せの要素なんじゃないかな、って」

 父さんと母さんが『ありがとう!わさびちゃん』の出版に踏み切ったのも、ひとりでも多くの人に捨て猫や野良猫、動物管理センターに収容されている猫たちのことに思いを巡らせてもらいたかったから。猫だけではなく、人間に運命をゆだねられている動物たちのことも併せて、今一度、みんなで考えてる機会になればというのが、父さんと母さんの願いだ。

文/一乗谷かおり

2014年2月21日。真央に大粒の涙 「ありがとう」 フィギュア

2014-02-21 17:39:27 | 日記
2014年2月21日【金】
#、為替、102.29円。102.41円。102.49円。ユーロ、140.30円。140.50円。140.66円。
#、ダウ161.33.23ドル。+92.67ドル。ユーロ4267.55、+29.59。
#、日経、前場14741.42円。+292.24円。後場14865.67円。+416.49円。
今日の賢人。
24.大石内蔵助,2/21
辞世の句、

あらたのし 思ひは晴るる 身は捨つる
 
 浮世の月に かかる雲なし

作者 : 大石内蔵助

意訳 :
   思いを晴らして死んでいくのは、何と楽しいことよ。
   今宵、見上げる月に雲がひとつもかかってないように、
   私の心は澄み切っている。

解説 :
   忠臣蔵で有名な大石内蔵助の辞世の句。
 嘉肴[かこう]有りといへども食せざればその味[あじわい]を知らずとは。 国治[おさ]まつてよき武士の忠も武勇も隠るゝに。 たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕[あら]はるゝ。 例[ためし]をこゝに仮名書きの太平の代[よ]の政[まつりごと]。
(『仮名手本忠臣蔵』冒頭)

大石内蔵助良雄[おおいし-くらのすけ-よしたか(一般に“よしお”) 1659-1703]。 赤穂浅野家筆頭家老一千五百石。 元禄十四年(1701)三月十四日、 殿中において吉良上野介義央[きら-こうずけのすけ-よしなか 1641-1702]を相手に刃傷事件を起こし、 即日切腹した主君・浅野内匠頭長矩[あさの-たくみのかみ-ながのり 1667-1701]の仇を報ずるため元禄十五年十二月十四日、四十六人の元赤穂藩士と共に吉良邸に討ち入り、 吉良上野介の首級を内匠頭の墓前に捧げ、翌年二月四日切腹。 享年45歳。
 絵はもちろん、 山鹿流の陣太鼓を「~\時は元禄十五年十二月十四日、江戸の夜空を震わす山鹿流儀の陣太鼓、 しかもひと打ち、二打ち、三流れ…」((C)三波春夫)と打ち鳴らし、 門を破って吉良邸に突入した内蔵助以下の四十七士。
 ただし、 実際には陣太鼓など使われなかったし、入山模様(白と黒のギザギザ模様)の服でもなかったし、 四十七士は表門と裏門の二手に分かれて突入した(表門はハシゴをかけて乗り越えた。 壊して入ったのは裏門)。 そして雪は降っていなかった。 この絵はウソだらけだが、こう描かなきゃあ、絵にはならない…と思う。

★大石その人★

 大石内蔵助良雄の出た大石家は、 平将門を討った鎮守府将軍藤原秀郷の子孫で、その一族が近江国栗太郡大石庄の下司職[げししき] になったので地名をとって大石氏を名乗るようになったのだという。 これが確かならば大名並み、 あるいは出自の定かではない者の多い普通の大名よりは余程良い家柄である。
 内蔵助良雄の曾祖父にあたる内蔵助良勝[よしかつ] は浅野采女正長重[あさの-うねめのかみ-ながしげ] (浅野長政の次男)に仕えて大坂冬の陣で武功を立て、のち家老となって千五百石を給せられた。 長重の子の長直の代に常陸笠間から播州赤穂へ転封となったのに従って大石家も赤穂に移り、 良勝の没後、子の内蔵助良欽[よしかね]が跡を継ぎ、浅野長直・長友・長矩の三代に仕えた。
 良欽の長子は権内良昭[ごんない-よしあき]であったが早逝したため、 孫の良雄が養子となって家督を継いだ。 良雄の大叔父(良欽の弟)の頼母助良重[たのものすけ-よししげ] が家老となり良雄の成人まで補佐したことはよく知られている。 良雄は19歳になると家老見習いとなり、 その二年前にわずか9歳で藩主となっていた浅野長矩に仕えることになった。 しばらくして21歳で正式な家老となった。
 浅野家と大石家とは、深い婚姻・養子の関係で繋がれている。 浅野長直の女[むすめ]鶴姫は頼母助の妻となり、 間に生まれた子のうち男子二人は浅野家に養子として入った。
 大石家は浅野家唯一の譜代家老(代々家老となる家柄)であり、 出自の良さも合わせて赤穂藩において特別な地位を占めていた。 大石内蔵助は藩主に次ぐ家格の者として、同時期の家老であった 大野九郎兵衛・安井彦右衛門・藤井又左衛門らの一代家老(個人として家老に取り立てられた者) とは異なる重みを持っていたのである。

  歴々の家の嫡男として浅野内匠頭長矩の家老となった内蔵助良雄は、いかなる人物だったのか。
  “昼行灯”[ひるあんどん]というあだ名が世に伝わっている。 史書に残っているわけではないけれども、非常に有名である。 すなわち巷説であるが、これは内蔵助の人柄をよく表していると言われている。 彼の若年時代に山鹿素行[やまが-そこう]が赤穂に滞在したことから、 山鹿流兵法に通じているとされ、そこから「山鹿流の陣太鼓」の俗説が生まれた。 しかし実際には大叔父の頼母助が素行の世話をしたものの、 内蔵助が山鹿素行の弟子になったというのは怪しいようだ。 若い頃、京都堀川塾で古学派と称される儒学の一派を立てていた伊藤仁斎[いとう-じんさい] の下で学んだと言われ、こちらは多少信憑性が高いらしい。 堀川塾で居眠りばかりするので、内蔵助の不在の時に門下生たちが陰口をたたいていたら、 それを聞いた仁斎が「あの人は文字の穿鑿よりも、直に道の神髄に触れようとしている。 大名衆や家老衆の学問はそれでいいのだ。 」と言ったという話があるが、伝説だろう。
  また、37歳の時(元禄七年)、備中松山藩の水野家がお家断絶となった際、 収城使として浅野内匠頭に先んじて松山城に赴いて尽力して無事に開城させたとも伝えられている。 しかし、内匠頭に従って松山城に行ったものの、実際には目立った活躍などは無かったという。

 その内蔵助がようやく世間の耳目を集めたのは、 赤穂藩取りつぶし後の藩札引き替え等の残務整理と城あけ渡しに見事な手際を見せた時であった。 城受け取りをおこなった幕府大目付の荒木十左衛門・榊原采女の両人は 「諸事仕形無類の儀ども感じ入り申し候」と感嘆したという。 要するに、普段は茫洋とした人物で才子ぶったところを見せることは全く無く、 危機に際して真価を発揮するタイプの人物だったと思われる。

 それと、女(遊び)好きだったというのも有名である。 ただし、これまで書いてきたところを見ると、なんだか軽い人間であったように思われるが、 やはり家老という立場にあった人だということを忘れてはならない。
 討ち入り後、 一行のうち大石以下17人が細川越中守綱利邸にお預けになり、二間続きの部屋におおよそ年齢別で分けられた。 彼らの世話をした堀内伝右衛門に、内蔵助を補佐して討ち入り計画を立てた吉田忠左衛門兼亮[よしだ-ちゅうざえもん-かねすけ]は 「大石殿は我々が若い者の部屋に入りびたるのをあまりいい顔をしませんが、こちらに来るとホッとします」と語り、 それを聞いた伝右衛門は大石の「位高きことを知れり」と書き残しているから、 譜代家老としての威厳をそなえていたことを知るべきだろう。 決して軽忽な人物ではなかったのである。

★告げよ花★

  浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りつけた刃傷事件は前作の 「吉良上野介」に付した文章に記してあるので、ここではくり返さない。 また、討ち入りまでの経緯も略す。
 討ち入り後、一行は泉岳寺で主君の墓前に吉良の首級を供え、しばし休息した。 その後一旦、仙石伯耆守邸に移されたあと、四十六士(足軽の寺坂吉右衛門だけは泉岳寺に入る前に逃がされた) は細川家・水野家・松平家・毛利家の四家に預けられ、幕府による処分を待った。 刃傷事件の際には即刻処断した将軍綱吉は意外にも彼らを賞賛し、 四大名家も細川家を筆頭に浪士たちを厚遇して助命嘆願までおこなった。
 幕閣の意見は、 老中たちの評議は赤穂浪士たちは夜盗の輩と同類であり打ち首にすべきだというもので、 対して評定所の意見は吉良方と上杉家に対して厳しく、 赤穂浪士たちは衆を集めて討ち入ったといえども「武家諸法度」の「文武忠孝を励み、礼儀を正しくすべし」という趣旨に合致しているので、 とりあえず預けたまま差し置いて後年処置を決めるべし、というものだった。
 幕府の大学頭[だいがくのかみ]であった儒者の林信篤[はやし-のぶあつ](号は鳳岡[ほうこう])は、 四十七名もの忠臣が出たのは儒教が盛んな証拠で喜ばしいことであり、 このような忠義の者を処罰するのは 忠孝を奨励する趣旨を否定することになって政道の根本を崩すことになるから、 後日時期を見て赦免したらどうか、という意見を提出した。
 処分の定まらないまま元禄十五年は暮れ、元禄十六年を迎えた。

 このような同情論が優勢な状況で、 綱吉と事実上の執政となっていた柳沢吉保[やなぎさわ-よしやす]は苦慮した。 赤穂浪士たちは、まさに忠義の心から事を起こしたのである。 しかしそれは刃傷事件に対する公儀の処分に異議を唱えたことであり、また法を以て裁くと、 徒党を組んで深夜幕府の高官の家に押し入ったということは、 どうあっても許すことのできない行為であった。
 柳沢吉保が、当時家臣であった学者の荻生徂徠[おぎゅう-そらい]に諮問すると、 彼は「彼らが身を捨てて事に当たったのは義だが、私の論に過ぎない。 浅野長矩は法に背いて誅せられたのに吉良氏を仇とし、 公儀の許し無く騒動に及んだのは許し難く、死刑が適当である。 しかし、士の礼を以て切腹に処すならば、彼も本懐を遂げたことになり、 (吉良の長子が養子として藩主になっている)上杉家の願いも空しくならないだろう」という意味の意見を述べた。
 学問に通じている将軍綱吉と柳沢吉保も納得できる理路整然とした論旨であり、 これに従って四十六士を切腹させることに決定した(徂徠の意見によって決したというのを疑う説もある)。

 しかしながら、綱吉はまだ決しかねていた。 法によって天下を治める将軍としては、彼らを許すわけにはいかない。 だが、彼らの忠義は賞すべきであり、刃傷事件の処分が軽率に過ぎたことへの反省もあった。
  二月一日に輪王寺門主の公弁法親王(後西天皇の第六皇子)が年始の挨拶で訪れると、 綱吉は雑談の中で「天下の政治というのは気苦労が多く煩わしい。 このたびの赤穂浪人の一件などは世に珍しい忠義の者であるから命だけは助けてやりたいが、 どうにも切腹を申しつけなければ政道が立たない。 実に嫌なことだ。 」と言って謎をかけた。 皇族であり出家でもある公弁法親王は二重の意味で方外の身(世の秩序から超越した立場)であり、その助言に従ったということにすれば“超法規措置”も可能になるからだった。
 しかし、公弁法親王はその謎を解かずに帰ってしまった。 聡明な宮様が謎に気づかないはずはないと思った将軍は、そばの者を寛永寺にやって再度親王の考えを訊かせた。 すると公弁法親王は取り次いだ僧に対して、 「彼らは長い間苦労して主君の仇を討とうとし、その志は達せられた。 今はもうこの世に思い残すことはないとて公儀の刑を受けるために自ら訴え出ている。 助命したところで二君に仕えるはずもない。 あたら忠義の士を飢え死にさせるよりも、 公儀より武士道を以て死を賜ったほうが彼らの志も空しくならず、天下の政道も立つだろう。 」と答えた。

  二月三日、ついに四大名家に対して翌日切腹の沙汰が下ることが伝えられた。 当初から浪士たちを厚遇し、助命嘆願が受け入れられたときのために十七士の衣服 ・佩刀まで準備していた細川越中守は直接伝えるに忍びず、彼らの部屋の床の間に花を生けさせた。 いかに義士であっても罪人の部屋に花を飾るのは異例であり、 また花は仏に捧げられるものだからである。
 すぐさま意味を察した彼らは、世話になった堀内伝右衛門を呼び、 十七士の中で若い者たちが「そろそろ埒[らち]があく(処分が決まる)でしょうから、 御暇乞いに芸づくしをお目にかけましょう」と言って、歌舞伎狂言の物真似をしたりした。

元禄十六年(1703)二月四日、各藩邸において午後から夕刻にかけて四十六士は次々と切腹。 伝説の中で永遠に生きる存在となった。

この処分において、仇討ちを正当とする忠義の次元と、 仇討ちを殺人として不当とする法理の次元とは、完全に区別されていた。 切腹は単なる自殺ではなく自らの意志の表現、 武士の最高の礼とする日本武士道においてのみ、忠義と法を併存させる処断が可能であった。 赤穂義士の忠義を賞賛しつつ、哀惜の念を抱きながらその死を認める、 という奇跡的に完璧な(?)結末が生まれた。

★義士非義士論★

 四十六士切腹の後、彼らに関して多くの議論が戦わされた。 (※議論の原文は下掲参考書『近世武家思想』で読める。 また特に『忠臣蔵と日本の仇討ち』所収の南條範夫「仇討ち是非論の推移」を参考にした。 以下「」内は原文あるいは書き下し文、《》内は要約した訳文)
 林鳳岡はいち早く「復讐論」を著し、大学頭の立場から切腹の決定を是認したものの、 「天下の士、膏沢に沐浴して(太平の恩恵を身に受け)怠惰の心生ず。 遊談聚議し習ひて軟熟となる。 彼の一挙に及びて奮発興起し、以て義に向ふの心起り、君は臣を信ずるを知り、臣は君に忠なるを知るなり」と評価し、 さらには末尾に詩を賦して「四十六人斉[ひと]しく刃に伏す 上天意なし忠貞を佐[たす]くるに」と哀悼の意まで表した。
  室鳩巣もまた早い時期に「赤穂義人録」を作って事件の経緯と四十七士の銘々伝を記し、義士として讃えた。

  これらの擁護論に対して、佐藤直方・三宅重固・荻生徂徠らは義士批判論を唱えた。
  その論旨はおおむね、刃傷事件は一方的に浅野が斬りつけただけで喧嘩ではないのだから、 吉良を恨んで吉良邸へ討ち入ったのは筋違いだとするものである。 そして、赤穂浪士が討ち入りの後すぐに自裁(自殺)せずに自訴して公儀の処分を待ったのは、 人の感賞を得て禄を得ようと(家臣に取り立てられようと)したのではないか、とするものであった。

義士否定論に対して再反論したのが浅見絅斎[あさみ-けいさい]である。
 彼は「絅斎先生四十六士論」の中で、 《内匠頭が大礼がおこなわれる殿中であるのを はばからず私怨のために刃傷に及んだのは甚だしい落ち度である。 しかし、公儀に対して恨むところがあったわけではなく、以前から、 そして当日も吉良から恥辱を受けていたので前後を顧みず斬りつけたのである。 もし存分に斬り殺していたのならその場で自害しただろうし、 捕らえられたならば処罰を受けるのは当然だ》とし、続けて 「然らば大法を以(て)云へば、自分同士の喧嘩両成敗の法なり。 若又[もしまた]内匠頭大礼の場を乱りたるを科[とが]とせば、 只乱りたるにて非ず、皆上野介私意にてかやうになることなれば、 内匠頭成敗にあづかれば上野介も成敗にあづかるべき筈[はず]也。 」と述べた。
 義士が禄を求めて(再仕官口を求めて)討ち入ったとする意見に対しては、 「かりそめながら大身の大屋敷に、家来大分にてひかへ、其一門も歴々ある方へ、 四十六人にて忍込[しのびこみ]打んとす。 一人も命生てかへらんと云[いう]のぞみあるべきや。 其れを知行の望あると云は甚[はなはだ]不明の議論なり。 且[かつ]大石等大分の金銀あり。 又是非飢渇に及ぶが哀しくば、かやうの命をすてたる知行の求やうせずともあるべし。 さてさてさすが士たるものを評判するに似合ぬ誣言なり。 」と反駁した。
 そして末尾で「吾[わが]君父人を撃[うち]損じ、 其ために命を害せられ、相手はぬけぬけと生て居るを、臣子たるもの、此方の君父の不調法ゆへとて、 わきよりながめて居るを忠臣義士とて、禄をあたへ召し仕ふこと、何の用に立つべきやらん。 平生君臣之吟味に存じよらざること也。 」とした。

 浅見絅斎の論旨は義士びいきの世論の傾向とも合致し、 赤穂浪士=義士説が通説となったかのように思われた。 しかし、赤穂義士切腹から三十年近く経ってから、 荻生徂徠の高弟の一人である太宰春台[だざい-しゅんだい]は「赤穂四十六士論」において、 先行する義士否定論よりもさらに酷烈な批判を義士に対して浴びせた。
 彼はまず、《吉良が内匠頭を殺したのではない。 大石らはなぜ上野介を殺したのか。 恨む相手が違う。 》と言った。
 そして、 《恨むべき相手が幕府だったとすれば、赤穂の士は城を枕に死ぬべきだった。 赤穂城を背にして公儀の使者と一戦し、しかるのちに城に登って火を放って自殺し、 屍となって城と共に焼ければ、赤穂の人のやるべき事はやり尽くしたことになる。 手を拱[こまね]いて使者に城を明け渡したのは失策だ。 赤穂城で死ねなかったのなら、すぐさま江戸へ行って吉良邸へ討ち入るべきだった。 成功・失敗に関わらず死ぬことになるが、それでも責は果たされたことになる。 彼らが時を待ち陰謀秘計を用いて吉良を殺そうとしたのは、 うまく成功して名利を得ようとしたもので卑しいことだ。 この時、吉良が討ち入り以前に死ななかったのは赤穂浪士たちが幸運だったに過ぎない。 》と述べ、さらには、
  「匹夫、朝子(将軍の直臣)を攻殺すれば、その罪、死に当たる。 ここにおいてか四十六士以て自裁すべし。 なほ何ぞ官命を待つことあらんや。 乃[すなわ]ち自裁すること能はずして、みづから官に帰する者は、 彼その心にみづから以[おも]へらく、至難の事を済[な]す。 功これより大なるはなし。 幸に死せざるべくんば、即ち死せず、禄位を得ること、 俛[ふ]して地芥を拾ふが如し(ゴミを拾うくらい簡単だ)、不幸にして死せんか、法に死するのみ。 死するも未だ晩[おそ]からざるなり。 何ぞ必ずしも自裁せんと。 これあにわがいはゆる名利を要[もと]むる者に非ざるか。 鄙[ひ]なるかな(卑しいことだ)。 」と言い、
 《もし将軍が誤って大石らの罪を赦[ゆる]し、 仕官を許すようなことになったら、彼らは幕府の禄米ですら喰[は]んだことだろう。 恨むべき真の相手が幕府だということを知らないからである》と決めつけた。

 この太宰の説に対しては猛然と批判の声が起こった。
 松井観山は 《浅野内匠頭は殿中で、しかも非常の大礼をおこなう際に刃傷沙汰を起こしたのであって、 その罪が通常の判例に従わなかったのも仕方がない。 浪士たちは幕府を恨むべきだとするのは、 あまりにも杓子定規な論で情を忘れたものだ。 また、大石らが討ち入りを急がなかったのは、 浅野大学によって浅野家を復興させようとしていたからであり、 また事を急いで討ち漏らせば亡君と同じ失敗をくり返したことになり、 天下の笑い者となってしまうことを恐れたからだ。 事を終えて自裁せず、身を官にゆだねたのは、 この挙がやむを得ぬ義に出たことを明らかにし、公儀に謀反しようとしたのではないことを示すためだ。 「忠義を装って名利を求めた」などというのは、あまりにも酷薄ではないか。 》(「読四十六士論」)と論駁した。
  五井蘭州は《内匠頭は法を破って死を賜ったのであり、国家を恨む筋合いはない。 幕府を恨んだりしたら、それは私心と言うものだ。 事が起こったのは吉良が邪悪なためであり、 内匠頭が吉良を仇とした以上、大石らが吉良上野介を恨むのは当然だ。 赤穂城に籠城して死ねと言うが、そんなことをしても旧主の恨みは解けず、浅野一族に禍が及ぶだけである。 また、籠城しないのならすぐさま吉良邸に討ち入れと言う。 先は幕府を恨めと言い、今は吉良を恨めと言うのは定説がないというべきだ。 大石は吉良を必ず殺してからやっと責任が果たされると考えていたので みだりに攻めなかったのである。 彼らは身の死するを顧みなかったのであり、名利を求めたなどというのは、 小人の腹を以て君子の心を推し量ったものだ。 小人が議論を好み、他人が良いことを成功させるのを楽しまない、とはこういうことだ》と論じた。
  俳人として有名な横井也有[よこい-やゆう 1702-1783]は、「前には吉良殿はたつて敵でない、 うつ理はないといふて置て、又[また]爰[ここ]では吉良子を攻て死ねとは、一向寝言の様に思はれます。 」と揶揄した。
  太宰の文章の中でも、赤穂義士が名利を求めて討ち入りをおこなったという論は最も非難の的となったところであり、横井也有は

すべて上等の人は人の善を称し、 下品の人卑劣な人は必ず人の美名をねたみそねみたがるもの。 是は博識学才によらず、根性の上下善悪によるもので、あゝさもしい恥しいもので御座ります。
と切り捨てた。 「根性」とまで言われては、太宰も沈黙するしかなかっただろう (横井の方が少し後の人なので、太宰がこれを読んだとは思われないが)。

 ここでいささか私見を述べると、赤穂義士が禄を求めて、 すなわち再就職運動で討ち入りをおこなった、というのはあり得ないように思う。 臣下が主君の仇を討つというのは前例が無く、 それは一旦公儀の裁定が下った事件に異議を唱えることでもあり、打ち首獄門の刑にも値することは承知していただろう。
 寛文八年(1668)の「浄瑠璃坂の仇討ち」が頭にあったという説がある。 これは討ち入った者たちは遠島になったものの死罪に処せられることはなく、赦免された後は仕官先を得ている。 この仇討ちは討ち入る側の一党が揃いの羽織を着、討ち入る際に「火事だ火事だ」 と言って騒ぎ立てるなど、吉良邸討ち入りの際、参考となったと言われている。
 しかしながら、 これは親族の仇を討つ討ち入りであり、一応仇討ちの届けも出してあったものであり (徒党を集めたのと、江戸府内で騒動を起こしたのが罪とされた)、全く性質が異なる。
 それに、 禄を求めるだけならば、討ち入らずとも浪士たちに対する再仕官の口は、割りとあったと思われる。 大石内蔵助からして数家の大名から高禄で誘われていたというし、 脱盟者の中でも縁故で再仕官することになった…婿養子の口があった…云々などという者がいる。
 そして、 名利を求めての討ち入りだったとすると、かくも多くの脱盟者が出たことを説明できない。 元禄十五年七月、内匠頭の弟の浅野大学が広島の浅野本家にお預けとなって 赤穂浅野家の再興がならなかった際に多くの脱落者が出たのだが、 もし仕官口を求めるために討ち入りをするのだったら、 この時にこそ盟約に加わる者が増えるべきだろう。 そして討ち入り直前の元禄十五年十一月には五十五人いたのが、 十二月には四十七人になってしまった。 自ら吉良邸に潜入して様子を探りまでした毛利小平太までが書き置きを残して去っている。 もし大石以下に、討ち入りの後赦免になって、高禄を以て召し抱えられる… などという期待あるいは希望的観測のある雰囲気だったならば、 直前に脱盟者が出るようなことは無いと思われる。

★士魂不朽★

 元禄十五年以来約三世紀、 忠臣と言えば大石内蔵助、義士と言えば赤穂四十七士である。 曾我兄弟、大楠公(楠木正成)、荒木又右衛門、国定忠治、清水の次郎長等々…といった、 かつてのフォーク・ヒーローたちがほとんど忘れ去られている現在でも、 大石内蔵助と『忠臣蔵』という名を知らぬ者はいない。
 戦後、 『忠臣蔵』に対する批判がおこなわれ、今でも時折これを否定的に扱う文学作品や評論が現れる。 しかし、それらの中には自分で得た知識ではなく、 人の言ったことの受け売りで「『忠臣蔵』は軍国主義教育に利用された」などと評するものもある。
  実際には、海音寺潮五郎は、戦争中には武士道は封建道徳であり殿様に対するだけの小義だとして排斥され、 赤穂義士も顧みられることは無かったと言い、 事実、『サンデー毎日』に連載していた「赤穂浪士伝」も中断を余儀なくされた、と述べている。 これは彼の『赤穂義士』の冒頭にあり、文庫本になっていてどこでも手に入る(↓下掲)。
  ある物事について語ろうとするならば、それについて最低限の知識は無くてはならない。 「嘉肴有りといへども食せざればその味を知らず」とは真実であろう。 そして自らが当事者の立場になったとき、何をするか、 何ができるか、を考えることも必要だろう。
 私は彼らの志を賞する。 彼ら四十七星は今までの三百年間、またこれからも長い間天にあって輝き続けることと信ずる。 しかしまた一方、ほとんど被害者と言っていい吉良上野介、 討ち死にした吉良の家臣、一番の犠牲者である吉良左兵衛義周に対する哀悼の念も抱きながらではあるが。

 四十六士に対する切腹の沙汰も、 時代背景を考えれば、やむを得ざることだったと思う。 もし許されたら若い者たちが晩節を汚したかもしれない…という説には全面的には賛成できないが、 彼らが赦免されたら悪しき前例となり、後世、名利を求めてみだりに仇討ちをしたり公憤を装って私怨を晴らそうとする馬鹿が多く出ただろう。 忠義を賞しつつ法を以て誅するという切腹以上の沙汰は無かったと思う (死刑廃止論者や自殺を否定するキリスト教徒は目をむくかもしれないけど)。 しかし、 白髪首一つと引き替えに四十何人もの立派な男たちが腹を切ってしまったのは、 なんとしても惜しい、残念だ…という思いは残る。 このラスト以外には無いとわかってはいるのだが…。 『忠臣蔵』の物語は『仮名手本忠臣蔵』からしてハッピーエンドのものが多いが、やはり結局のところ悲劇なのであろう。

スポーツ、
1. 【ソチ五輪】小野塚が83・20点で銅メダル/ハーフパイプ
サンケイスポーツ 2月21日(金)3時22分

【ソチ五輪】小野塚が83・20点で銅メダル/ハーフパイプ

決勝 1回目 小野塚彩那=20日、ロシア・ソチのルスキエゴルキ・センター((撮影・古厩正樹)(写真:サンケイスポーツ)

 ソチ冬季五輪フリースタイルスキー女子ハーフパイプ決勝(20日、ロザ・フトル・エクストリーム・パーク)予選4位で決勝に臨んだ小野塚彩那(25)=石打丸山ク=は、83・20点で3位となり銅メダルを獲得した。優勝は89・00点でM・ボーマン(米国)が金メダルを獲得。

【写真で見る】笑顔で日の丸を掲げる小野塚彩那

 小野塚は1回目、大きなエアでバランスを崩しかけたがうまく着地すると、ファイブフォーティーを連続で決めた。さらにセブントゥウェンティーとスイッチからのファイブフォーティーを決め79・00点だった。2回目は大きなエアから高さのあるアリウープを決めると、ファイブフォーティーを連続で成功。さらにセブントゥウェンティーとスイッチからのファイブフォーティーを決めガッツポーズ、83・20点を出し満面の笑顔を見せた。
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銅の小野塚「天国にいるじいちゃんと」

2. ロシアの17歳ソトニコワ逆転金メダル キム・ヨナ連覇ならず
スポニチアネックス 2月21日(金)3時54分

ロシアの17歳ソトニコワ逆転金メダル キム・ヨナ連覇ならず

フリーの演技を終え涙を流す浅田

 ソチ五輪フィギュアスケートは20日(日本時間21日)、女子フリーが行われ、前日のショートプログラム(SP)で2位のアデリナ・ソトニコワ(17=ロシア)がフリーで149・95点をマーク、合計224・59点で逆転の金メダルを獲得した。

【写真】地元五輪で金メダルを獲得し、ガッツポーズするソトニコワ

 地元・ロシアの17歳がSP首位のキム・ヨナ(23=韓国)を逆転し、五輪女王に輝いた。この種目のロシア勢の優勝は初めて。キム・ヨナは219・11点で銀、カロリナ・コストナー(27=イタリア)が銅メダル。

 日本勢はSP16位と出遅れた浅田真央(23=中京大)がフリーでは自己ベストとなる142・71点をマーク、合計198・22点まで伸ばしたが、6位でメダルを逃し、同8位の鈴木明子(28=邦和スポーツランド)はフリー125・35点、トータル186・32点で8位、同15位の村上佳菜子(19=中京大)はフリー115・90点、トータル174・53点で12位だった。
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3. イチロー、キャンプイン初日から快音
読売新聞 2月21日(金)15時4分配信

イチロー、キャンプイン初日から快音

キャンプに野手陣も合流し、打撃練習するイチロー(20日、米フロリダ州タンパで)=林陽一撮影

 【タンパ(米フロリダ州)=西村海】米大リーグ、ヤンキースの春季キャンプに野手組が20日から合流し、イチロー外野手(40)もメジャー14年目のスタートを切った。

 午前11時過ぎ。歓声を浴びながら、イチローがさっそうとグラウンドに姿を現した。キャッチボールのきれいな球筋や、守備練習での軽やかな身のこなしは、昨年と何ら変わらない。

 今オフ加入した外野のライバル、エルズベリーとベルトランとともに行ったフリー打撃では、左右にライナー性の鋭い打球を飛ばした。最後の23スイング目。力強く振り抜かれた打球は、きれいな弧を描いて右翼フェンスを越えていった。

 幾多のキャンプの日々を積み重ねてきたベテランも、初日は独特の緊張感があるという。「やっぱりドキドキする。初日の感じは慣れない。家から向かってくる時も、何となく(胸が)ザワザワする」とイチロー。だから、この日の練習を終えての第一声も「(初日は)体は疲れますよ、毎年」というシンプルなものだった。

4. 大竹 巨人初陣で実力 キレキレシュートで2回無失点「僕の持ち味」
スポニチアネックス 2月21日(金)7時50分配信

大竹 巨人初陣で実力 キレキレシュートで2回無失点「僕の持ち味」

<巨人VS韓国・LG>2回を無失点に抑えた大竹

 ◇練習試合 巨人3―2韓国・LG(2014年2月20日 沖縄セルラー)

 巨人の大竹寛投手(30)が20日、韓国・LGとの練習試合(沖縄セルラー)に先発。宝刀のシュートを駆使し、2回2安打無失点と好投した。昨秋に国内FA権を行使して広島から移籍した右腕が、巨人デビュー戦で持ち味を存分に発揮。開幕ローテーション入りが確実視される中で、あらためて存在感を示した。

 シーズン同様の切れ味だった。2回無死一塁。大竹は2ストライクから5番・鄭成勲(チョンソンフン)の懐をシュートで鋭くえぐった。06年のWBC韓国代表を詰まらせ、狙った通りの遊ゴロ併殺打。対外試合初登板でいきなり宝刀が威力を発揮した。

 「僕の持ち味。そこ(内角)をしっかり突こうと思っていたし、シュートで取れたのは収穫」

 初回にもシュートで2度の空振りを奪った。「ファーストストライクをもう少し取りたかった」と打者7人中、ファウルも含めて初球ストライクが4度だったことを悔やんだが、この日の全29球中、26球が真ん中から低めに制球されたもの。内角と低めをしっかり突いた結果、2回2安打無失点。長打は許さなかった。

 「良かったことは、この時期に打者相手に投げることができたこと」。10年に発症した右肩違和感に悩まされ、過去4年はスロー調整を強いられた。昨年の対外試合初登板は3月14日の巨人戦(マツダ)。「年月がたって肩も良くなってきている」と今年は完調に近いこともあり約3週間も早い実戦登板を果たした。

 新天地でのキャンプもハイペース調整を後押ししている。昨オフ、巨人にFA移籍。球界の盟主の一員となり、これまでとはまた違った期待と責任感を背負う。デビュー戦となったこの日も、練習試合にもかかわらず「試合前に緊張が高まってきました」という。ブルペンでは内海や杉内、菅野らが連日のように投げ込んでいる。「焦りはないですが、目には入ります」。環境の変化が原動力につながっている。

 次戦は「緩急をもっと使うようにしたい」と具体的なテーマを掲げた。開幕ローテーション入りが確実な大竹が、初戦でその実力を証明してみせた。

 ▼巨人・川口投手総合コーチ この時期にこれだけの投球ができた。持ち味も出ていた。私はそう(開幕ローテーション投手)思っている。

 ▼巨人・セドン(昨季は韓国・SKで最多勝も2回2失点)いろんな球を試したい気持ちもあったが、自分を知っている彼らを抑えないといけなかった。

 ≪他球団も警戒「1カ月早い」≫練習試合を偵察した他球団の「007」が、大竹に対する警戒心を強めた。阪神・太田貴スコアラーは「順調でしょう。あのクラスの投手ならそれだけで十分だと思う」と仕上がりの早さにうなった。またヤクルト・衣川篤史スコアラーは「(仕上がりが)1カ月ぐらい早いと思う。腕が振れているのにびっくりした。シュートが生命線の投手。ゴロを打たせていたので順調だと思った」と分析した。

5. 【中日】谷繁監督にノムさんから「二つの金言」
スポーツ報知 2月21日(金)7時1分配信

【中日】谷繁監督にノムさんから「二つの金言」

谷繁捕手兼任監督(左)を激励した野村氏

 中日・谷繁元信捕手兼任監督(43)が20日、「ノムラの考え」を伝授された。元楽天監督の野村克也氏(78)が評論活動のために沖縄・北谷を訪れ「プレーイングマネジャーの先輩として、生意気なことを言ってきました」と、二つの助言を与えた。

 野村氏は1970年から8年間、南海で選手兼任監督としてリーグ優勝1回。その経験を踏まえて語りかけた。

 「不便なことの一つは、リリーフの用意。マウンドにいる投手のプライドを傷つけないように配慮しながら、リリーフを準備させないと」。グラウンドの捕手・谷繁がベンチに向かって交代に備えた指示を送れば、登板中の投手は動揺する。内密に意思を伝達することが必要というわけだ。

 「攻めの時にも(采配面で)森繁和ヘッドコーチの協力がポイントになる。『ヘッドコーチ』というより『助監督』の感覚の方がいい」。野村氏も南海監督時代、野球観を共有するドン・ブレイザー氏をヘッドに据えた。

 通算2900試合出場の谷繁兼任監督は、歴代1位の野村氏の3017試合を今季中にも抜く。ノムさんは「(谷繁監督は)こだわっていないみたい。自然に追いつき、破ること」とエールを送った。

6. 【ソチ五輪】タラソワ元コーチ、真央に大粒の涙 「ありがとう」 フィギュア
産経新聞 2月21日(金)16時30分

【ソチ=佐々木正明】ロシアフィギュアスケート界の重鎮で、浅田真央の元コーチ、タチアナ・タラソワさん(67)が、20日に行われたソチ五輪フィギュアスケート女子フリーを見て、「これほど素晴らしい演技はなかった。彼女は自分に打ち勝った。私のプログラムを演技してくれたことに感謝したい」と述べた。

 タラソワさんは地元テレビ局に解説者として出演。バンクーバー五輪で師弟関係を組んだタラソワさんは、今回のフリーの曲目、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」の振りつけを担当した。

 タラソワさんは演技に入る前から「がんばって」と述べ祈るような声で解説。そして冒頭のトリプルアクセルを決めたとき、「よしっ」と大きな声を上げた。

 浅田が演技終了後、大粒の涙を流し始めると、「ありがとう」を何度も連発、「辛くて私も見てられないわ」とも語った。
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ニュース、

1. ソニー株、復活のポイントは?
 ソニー・コンピュータエンタテインメントの家庭用ゲーム機「プレイステーション(PS)4」が2月22日(土)ついに日本でも発売されます。先行発売した欧米ではすでに500万台を突破するなど、ソニーのゲーム事業を牽引する大型商品だけに市場も注目しています。ソニーは2月6日の決算発表で連結業績予想を大幅下方修正し、パソコン事業の撤退、テレビ事業の分社化など「事業の切り売り」に対して失望の声があがる一方、リストラ策を前向きに捉える意見もあり、評価は割れているようです。
 果たしてこの先、ソニーの株価はどのように推移していくのでしょうか? 値頃感や買い頃、決算から見えた状況など、達人の皆さんのソニー株の評価や復活のポイントを教えて下さい。 .

構造改革の鈍化を懸念

構造改革を進めるソニーだが、業績が本格的に回復するかどうかは判断できない。パソコン事業の撤退とテレビ事業の分社化などを…

田代昌之田代昌之2月20日(木)10時57分(株) フィスコ 株式アナリスト.

テレビ事業の復活を見極めたい

ソニーの構造改革をどう評価すればいいのか?

 ソニー<6758>は、「デジタルイメージング、ゲーム、モバイル」の3事業が中核となることを発表しました。PC事業は3月末までに…

2. 新教育長創設で合意=教委制度改革で初会合―自公
時事通信 2月20日(木)20時30分配信

自民、公明両党は20日、教育委員会改革に関するワーキングチーム(座長・渡海紀三朗元文部科学相)の初会合を開き、現行の教育長と教育委員長を統合する新たな「教育長」ポストの創設で合意した。両党は来週改めて会合を開き、新教育長の任期などについて協議する。