副田本道の「平和維新」

私の夢:「平和維新」を世界の共通語にすること。

勝ち逃げするか、お互い様で助け合うか

2010-04-26 05:22:24 | Weblog
入口は阿修羅。一粒万倍日。来訪者様に感謝。
HP「東海アマ」の紹介です。管理人様に感謝。

イギリス人のチャーチ・ワード著「ムー大陸」という和訳の本があります。
その本の1節に
神官ラ・ムーが
国民に助けてください、と乞われ
神官ラ・ムーは
「もう遅い」

神官ラ・ムーの演説は書いてなかったが、
ラ・ムーの演説の
現代語訳は、次に紹介する管理人の言葉だと、感じて仕方ありません。

勝ち逃げするか、お互い様で助け合うか。

命の分かれ道

紹介はここから。
★ 2010年04月25日日曜日 13時更新
http://www1.odn.ne.jp/cam22440/yoti01.htm

 読者よ、これから数年の間、我々は、もの凄い数の人の残酷な死と直面させられる予感を筆者は抱いている。東海地震も起きるだろう。原発破壊からの放射能大汚染も起きるだろう。凄まじい疫病も発生するだろう。中国から膨大な難民が押し寄せて、彼らとの間で残酷な戦争も起きるだろう。そして膨大な死のうちには自分も含まれることになるだろう。
 我々は、人類滅亡の時代にさしかかったのだ。決して完全に滅亡するのではなく、数割の人たちが生き残ると予想しているが、それは生命力の強い、野性味のある純粋な若者たちに限られるだろう。
 こんな利己主義社会が長続きするはずはない。地球環境と人類社会は、これまで数十万年間、絶妙なバランスのなかに綱渡りのように存在し続けてきた。人類は、競争に追い立てられ、スグレたものを目指し、全体を見渡すことなく、目先の利益ばかり見て突進した結果、自分たちを支えてくれていた足下の地球環境を破壊し、それは、もはや人類を持続させることができなくなった。
 我々はツケを支払うべき時がやってきた。これほどの自然の摂理を無視した強欲のデタラメを重ねた以上、滅びるのは当のことだ。人生のカルマは、ほんの些細な、塵芥のようなツケでさえ、支払わねばならないのだ。社会のカルマも同じことだ。
 この社会が、あたかも「うまくやれば」再生可能であるかのようなメデタイ幻想を抱く人も多いが、筆者の見るところ、再生可能だったのは1900年までのことであり、その後は、人類滅亡を目指してひた走ってきたのだ。もう遅すぎるのだ。あまりにも反省せず、事態を直視せず、誰もが自分の利権のために真実を隠蔽しすぎたのだ。

 これからの人生に本当に必要なことは、これまでのように誠実に契約をこなすという能力ではない。凄まじい数の破滅と死を目撃させられ、決して動ぜず、死に行く人たちを看取り、死の先に未来が広がっていることを納得させ、安らかに送り出す能力である。
 わずかに生き残るであろう子供たちのために、我々が犯してきた間違いの原因を明確に示すことであり、人生と人類に本当に必要な思想とライフスタイルを伝授することであり、自給自足の大家族共同体生活のビジョンを用意してやることだと確信している。
 今の我々に必要なことは、死と直面して逃避せずにすむ胆力をつけ、そして自身の死を覚悟し、動ぜず、死の先の世界を確信することだ。肉体の死は決して人の死ではない。それは霊的実在への誕生に過ぎないのだ。このことを、明確に認識し、それを信じて、死を恐れず、ウソをつかず、正義のために平然と命を捨てる覚悟が必要なのだ。

 心配しなくていい。死という属性は、我々人類が、肉体を得て地上に誕生した瞬間に宿命づけられたものであって、全人類が等しく享受する永遠無欠の平等の実現なのである。
 死の前に、天皇も、国王も、社長も、老人も若者も、カネ持ちも貧乏人も、有名人も無名人も、すべての人が完全無欠の平等なのである。
 「みんな同じ人間」なのだ。そして必ず死ぬ。人生が長いか短いかは、ほとんど関係ない。物理時間と生物時間と精神時間は、まったく異なるものであり、一歳の赤子でも、百歳の老人と同じ密度の人生を過ごすことさえできる。人生は無数に繰り返されるものであり、長かったり短かったりするものだ。
 人は必ず、全員が平等の運命を享受するよう定まっている。宅間氏のような極悪死刑囚を侮蔑し罵倒している人も、安心しなさい、あなたも過去は同じことをやったのだ。すべての人が他人を無慈悲に殺害した人生を経験している。極悪非道の人生も、天使のような人生も、みんな必要だったのだ。
 そうして、この時代は、我々が一斉に死の運命を迎えるという珍しい経験をすることになる。必要なことは「覚悟」である。
 死を直視せよ。逃げるな。死に行く人を暖かく送り出してやることが、少しだけ余分に生きる我々の任務なのだ。

 なお、この世と自分に起きる運命は、本当は自分の心が求めるものであり、作り出すものである。死も、それを望むから与えられるということを忘れてはいけない。だから、生き延びる人は、生きることを求めることができる人のみであって、利己主義の愚劣な人生を求めてきた人たちは、己の愚かさに絶望して死の運命を求める。ゆえに人類は滅びに向かうのである。
紹介はここまで。