赤ちゃんが、生まれたての目で、なにか光をみる。
みえない赤ちゃんも、ぼんやりとなにかに反応する。
空を、つかもうとする手のように。
しかし触れようとした光は、手のなかにはない。
手のなかに返ってくるのは、はてしない虚空。音。風。温度。あるいはお母さんの手。ひとのぬくもり。気配。毛布の感触。抱き上げられて空に浮かぶような感覚。
光のようなものをみて、反応する。なにかが返ってくる。
空を、つかもうとする手が求める。なにかが返ってくる。
求める。そして返ってくる。
求める。そして返ってくる。
くりかえし、くりかえし。
しかし、つかもうとした空は手のなかにはない。
こころの水平線は、ここに引かれる。
ひとは、あらかじめ手と空のあいだで、引き裂かれている。
ひとは、ここから始まる。
*
引き裂かれたこころの記憶が、無数に蓄積される。
その記憶の倉庫は、のちに意識となる。
やがて意識には集約点がつくられ、「私」が生まれる。
わたしは私をつうじて、地面のうえに素足で立ち、世界へと目をひらく。
これは名前や観念によって力をあたえられ、より強固にかたちづくられる。
だから自我は、この観念の複合体(コンプレックス)といわれる。
水平線。
あらかじめ引き裂かれた意識。
ここに光と影が生まれる。
陰と陽。天と地。彼岸と此岸。
恩寵の母体であり、受難の母体でもある。
赤ちゃんの目は、はじめからこれらを、みつめている。
この世界が、苦い丸薬のような味をもつ理由がここにある。
青年の不安といらだち。かれらが存在に素手で立ち向かう愚かさと神聖さ。
その火傷の痛み。凍った傷跡の充実。
みえない額の傷、そして声による祝福。
*
今日わたしは、2006年6月19日にみた夢について瞑想していた。
夜明け前の空に、きれいな星が無数に流れている。おおきく、またたきながら、深く澄んだ水鏡のような空を自由に泳いでいる。
その星のひとつが手のひらのうえに、ぽたりと落ちてきた。
よくみると、それは銀色に光る30~40ミリほどの小魚のような、あるいは昆虫のような、見知らぬ美しい生き物だった。柳の葉のようなかたちをした透明の羽根をばたつかせ、手のひらのうえで跳ね上がっている。
空にまたたいていた星たち。
わたしがこの世ではじめてみた光。
時間も私もいない世界。
その美は、つねにそこにある。そのひとの生涯を照らしつづける。
その美は、人間の世界の言葉では「死」と呼ばれている。