受け手を信じる

2006-04-04 03:18:52 | Notebook
       
いまはあまり見なくなったが、たとえば辞書・辞典類のカバーや、それを入れる函のデザインに、石の写真が印刷されることがある。透明感のある大理石や、瑪瑙などの鉱物を平たく切った断面を、きれいに磨いて、平面的に撮影したような写真。これをタイトルにあしらったり、背景全体に入れて雰囲気を出すことがある。これは昔からみんながやっている、ありふれたデザイン手法なので、誰でも1冊か2冊、思い浮かぶものがあるだろう。

もう何年も前のことだが、あるベテランの編集者が、「なぜ大理石などの石の写真なのだろう」と言ったことがあり、驚いた。そんなことくらい、本をつくっているひとたちはみんな分かっていると思っていたからだ。

辞書・辞典などに書かれている内容は、おおげさな言い方をすると人類の歴史とともに歩んできた知識や文化そのものである。そうしたものの集積が辞書・辞典のなかには詰まっているのであって、それを端的に表現するには、おなじくらいに歴史を経てきた素材を使うのがいちばんいい。だから石なのである。とくに大理石が好まれるのは、その透明感や色合いが知性を感じさせるからだ。おなじ理由から、歴史書や、思想書などにも石の素材があしらわれる。

これを石ではなく、たとえば綺麗なガラスなどを使うと、とたんにデザインの焦点がぼやけてしまって、うまくいかなくなる。また鉄では意味が限定されてくるし、化石でもいけない。和紙でもいけない。石なのである。ただし、辞典・辞書に和紙や化石やガラスなどの写真を使ったデザインが、ないわけではない。うまくいっているものもあれば、失敗しているものもある。三省堂の大辞林の函は和紙をつかっていたが、いちばん最初の1冊は、とてもうまいデザインだった。これは石をつかった場合よりも、文字そのものに焦点があてられたようなデザインだったから古い和紙がしっくりいっていた。和紙をつかう理由がしっかりしているから、うまくいっているのだと言うことができる。
また逆に、思想書のカバーにアンモナイトを使っている本を見たことがあるが、あまりうまくいっているとは思えなかった。アンモナイトはロマンチックすぎて、むしろ幻想文学のような雰囲気が出てしまう。
こうして言葉にするとばかばかしくなってしまうくらい、だいたいみんな気づいているようなことである。あらためて言われると、なるほどそうか、と思うひともいるのかもしれない。

以上のような説明を手短に話したところ、その編集者は感心して、なるほど、と言ったあと、こう付け加えた。
「でも、そんなこと、読者は誰も分からないよね」
わたしはちょっと心外な感じがして、こう言った。「意識にのぼらないだけで、みんな分かっていると思いますよ」。
以来、その心外な感じを見つめ続けてきて、いろいろなことに気づかされた。

クリエイターはどういうわけか、ベテランになるほど、受け手を信じなくなることがある。
控えめな表現では誰も分かってくれないのではないか、と思うようになるのだ。そうして、ばかでも分かるような脚本を書いたり、ずいぶんお節介なデザインをしたり、分かりやすすぎるような歌をつくったりする。そうすることがベテランの仕事であり、メジャーであり、売れる仕事だと思っているひとたちもいる。
ベテランになるほど、どんどん説明過多になっていく。そうして、なにか大切なものを見失うのだ。
「それじゃ誰も分からないよ」
「それじゃちょっとインパクトがないよ」
そんなことばかり言っている。しかしよく振り返ってみると、そうした信念は、ほとんど勘違いなのだということに気づかされる。受け手を信じていない、なめきったような考えなのだということに、気づかされる。

たとえばビートルズの楽曲は、とても分かりやすい。しかし、彼らが音作りの現場でやったことは、とても手が込んでいて、分かりづらいことを無数にやっている。そうした行為が、彼らの音をメジャーなものにしているのだということを、よく考えたほうがいいのではないか。
ビートルズをばかにするひとは、その楽曲の親しみやすさ、分かりやすさから、すべてを分かったような気になっているだけだ。その仕掛けの部分はとても分かりづらい。ビートルズはとても、難解なのである。

「マジカル・ミステリー・ツアー」という歌があって、そのなかにバスの音が入っている。その冴えわたる演出に敬服すべきところだ。しかし、なぜバスなのか? これを説明しようとするとかなりの言葉を必要とする。とても深遠で難しいのである。それから、せっかくジョンの声にゴージャスなエコーを効かせて広がりをもたせているのに、なぜその声を絞って、ドラムスの音を前に出すのか。外部のプレイヤーをたくさん雇っておいて、なぜその音を絞ってリンゴのドラムスを前に出すのか。そうでなければいけなかったのだが、いまのプロデューサーだったらクレームをつけそうなところだろう。
先の編集者や、いまのクリエイターなら、こう言うかもしれない。「えーっ、バスの音ですか? 貧弱だなあ。せっかくミステリーの旅なんだから、せめて飛行機の音にしましょうよ」。バスでなくてはいけなかったのだということが、この音を聴けばよく分かる。このように難解な創意が無数に積み上げられて、はじめてビートルズの「分かりやすさ」が成立しているのである。

いまのクリエイターは、まったく逆のことをしている。分かりやすい手法をとらないと、分かってもらえない、ビートルズの域には届かない、売れないと思いこんでいるのだ。

受け手を信じること、思いは伝わると信じること。いまさらそう言われても難しいだろうが、それはたぶん、表現の原点なのだという気がしている。