「鈴木いづみコレクション」が刊行されたのはもう十年以上も前のことで、当時わたしは毎晩のようにアサガヤの街を飲み歩いていた。
ある晩、居酒屋のカウンターで、顔見知りの五十歳代の男性がこの「鈴木いづみコレクション」ばかりを、一度に四、五冊も買い込んだ包みをひろげて、一冊を手に取ってページをめくっていた。どれもきれいな本だと思ったが、著者の全裸の写真をカバーにつかっているものがあり、それが気に入らなかった。そう批判すると、彼はすこし笑って、鈴木いづみの裸は彼女の思想のシンボルみたいなものなので、死後のいまになってまでヌード写真をカバーに使用されるのは仕方がないのだろうと言った。
そしてこんな話をしてくれた。
その男性がむかし編集者だったころ、鈴木いづみさんのところへ原稿をもらいに行ったことがあるそうだ。ところが、すでに書き上がっているはずのその原稿を、どうしても渡してくれない。どうしたらいいのかと訊くと、「抱いてくれたら渡してあげる」と言われたらしい。いまは太鼓腹のその男性も、若いころはさぞ魅力があったのだろう。
すでに鈴木さんは亡くなって、その男性も五十歳をすぎて、そうしてカウンターで彼女の写真に手を触れながら、なつかしいよ、とつぶやいていた。
先日はじめて、鈴木いづみさんのエッセイ集『いつだってティータイム』を読んでみて、そのまっすぐな文章に感心した。
全体の印象として、ひらがなの使い方が、独特で清潔で気持ちいい。それに音とリズムがいい。音とリズムがよくて清潔だということは、もちろん耳がいいということでもあるが、なにかが高潔だということでもある。それが指先のテクニックじゃないのだから、気持ちのどこかが清潔で、そして腹が決まっているということでもある。きっとそこに彼女の理想があったのだろう。
「……死はこどもに似あいすぎている。あんまりぴったりしすぎている。だからこどもが死ぬと、吐き気に似たものを感じるのだ。セックス・ギャンブル・アルコールも、こどもがやってこそ似つかわしい、というところがある。
たがいに抱きあってうめき声をあげたり、ある種の液体をのんでさわいだり、自分の賭けた数字にあれこれと意味や理由をくっつけてみたり。決しておとなっぽいとはおもわない。だからかっこうの息抜きとなるのだが、ある人びとには(そのひとたちが、充分におとなであるかどうかは別として)まだ痛ましすぎるのだ。」
彼女の思考は感覚をともない、ゆっくりと色あいを変えながら、じわじわ進むようなところがあって、抜き書きでは正確に伝えられないところがある。流行歌が、テーマを繰り返しながらバランスをとりながら進んでいくやり方に似ている。
この思考方法を端正にまとめるのは骨が折れたはずなので、たぶん推敲に時間がかかることもあっただろう。いきあたりばったりの散文のようでいて、そういう流儀では書かれていない。
誰もがかんがえているようなことを述べていると言うこともできるし、それをよく突っ込んで引き出していると言うこともできる。若いひとがこれを読んでおくのは、いいことかもしれない。この健全さの薫陶を受けておくのは、そのひとのたましいにとって役立つだろう。
ただし若いころのわたし自身は、このエッセイにあたいしなかった。救いがたいほど頭が悪いうえに、世界観がドグマに冒され、狭く小さくスクエアな青年だったわたしは、きっとこういうものを読んでも理解できなかったろうし、小さな自我はこれを持て余していただろう。そしてきっと、男が女の化粧ばかりに気を取られるみたいな、見当はずれな理解をして、つまらない影響を受けていただろうと思う。
いまのわたしは、彼女の言葉にふつうに共感できる、そして彼女の言葉づかいが、きれいだと思う。なるほど、見当はずれの文化やら流行やら風俗やらが、ごっそり滅びて跡形もなくなったあとに、鈴木いづみさんの正直な言葉が屹立しているんだから、これはいまこそ見ものかもしれない。かといって世評がいうほどあたらしいのでもなく、進んでいたわけでもない、ただの一人のおんなが、まっすぐに書いたものこそが力づよく残っているのだから、おもしろいではないか。
そして死後だいぶたってから、のこされた男たちが、そこに印刷された写真にふれながら、いまなお彼女をいつくしんでいる。彼女の文章のうつくしさは、そのまま、おんなのうつくしさなのだと思う。
つくづくおもしろいことだと思う。おんなが、じぶんの言葉をみがくことは、そのまま女をみがくことなんだから。
この本を買った自分も
あなたがいう様に
まだ若い私には
その清潔さや、高貴さが
見えていないように思います、
いつか
頭がよくなって(経験をつんで)
彼女の知能レベルに少し近ずける日がきたら
そのときはもう一度
いつだってティータイムを 読んでみたいです。
鈴木いづみさんは、なにかを綺麗なまま守ろうとしていたんだろうなあと思いました。もちろん女性として。
それから、なにかプライドというと変ですが、高い気持ちを守ろうとしていたひとなんだなあとも思いました。
言ってることや、やっていることが、けっこう猥雑だったり下品だったり浅はかだったり、ゴチャゴチャしているわりには、そういう高い志のようなものが見え隠れしていて、なかなか味わいのあるエッセイだなという印象を、ある切り口から書いてみたのがこのブログの文章になりました。だから、これがわたしの印象のすべてというわけではありません。
そういう彼女のいちばん大切な気持ちというか、いちばん高い部分は、きっと今のあなたの胸にも届いているんじゃないかなと想像しています。