「豊かな趣味」

2007-01-09 19:45:17 | Notebook
    
わたしの中学時代の担任は美術の先生で、師匠というあだ名だった。とはいえ、それは本人がみずから周囲に強要した呼び名で、ふつうに先生と呼んでも返事すらしない。師匠と言い直すと機嫌良く返事をする。そんなふうだから、わたしたち生徒も、同僚の先生たちも仕方なく、みなそのひとを師匠と呼んでいた。

気難しそうで、ひょろりとした弱々しい体型で、挙動はじじむさく、髭を生やしている。いつも美術室にこもって粘土をこねて、ろくろを回し、焼き物を作っていた。ふざけたもので、その中学校には焼き物の授業などなかったから、ろくろは本人の自前だったのだろう。子どもだったわたしたちにはずいぶん年輩に見えたものだが、いま思い返すとまだ三十代後半から四十代前半くらいの年齢だったかもしれない。なにをしに学校へ来ているのか、よく分からないような、不思議な人物だった。

朝からポケットに焼酎の小瓶をしのばせていることもあった。しかし、いつも清潔ですっきりとした顔をしていたから、いまのわたしの目で振り返れば、生活が荒れているようには見えないし、それほどの酒豪にも見えない。それに酒にうるさいタイプでもない。子どもたちの前でだけ、おどけて酒が手放せないようなふりをしていたのかもしれない。

しかし子どもに媚びるようなことをしないから、子どもたちから信頼されていた。どんな不良生徒も、その先生が一喝すると言うことをきいた。ほかのクラスの友人から、おもしろい担任でいいなあと言われたこともある。じっさいユーモアのある、おもしろい先生だった。

高校を卒業して、しかし大学へも行けず進路に悩んでいたころ、数年ぶりにその先生に会ったことがある。先生の家へ遊びに行く機会があって訪問したのだが、とりとめのない話をした。当時のわたしはとにかく一刻も早く、自分の天分を見きわめて、自分の道を歩みたいという思いでいっぱいだった。しかしそんなことを相談されても、先生のほうだって困ったろう。会話はとりとめのないまま進み、やがて日が暮れてきた。

するとその次の新年に、師匠から年賀状が送られてきた。
そこには毛筆で端正な文字がひと言書かれていて、それは、
「豊かな趣味」
というものだった。ほかには何も書いてない。意味が分からなかった。また次の新年にも年賀状が届いて、まったくおなじ文句が書き付けられていた。豊かな趣味。ただそれっきり。

ふつうに考えれば、ふつうに意味が通りそうなメッセージではある。豊かな趣味をもち、豊かな人間になりなさい。ふつうに読めばそう読める。
あるいは、あれこれ趣味をもち、あれこれ遊んでいるうちに、自分の道が見つかるかもしれないよ、という意味でもあったかもしれない。しかし、どうも、それだけではないような気がした。

どうしてこのタイミングで、ほかでもない、わたしに、この言葉なのだろう。わたしは一刻も早く、自分の道を見つけたかった。天分を知りたかった。そういう意味では、趣味などにうつつをぬかしている場合ではないとも言える。なぜ、そんな時期のわたしにむけて、この言葉なのか。

わたしはその言葉の意味をずっとかんがえていた。ときどき思い返しては、どういう意味なんだろうとかんがえる。忘れていたこともあるが、数年たってまた思い出す。間違っても本人に「どういう意味なんですか」と訊ねるような野暮な真似はしなかった。それに、たとえ訊いても答えてはくれなかったろうし、答えようがないようなことを言っているのだということぐらいは、子ども心に分かっていた。

それから時はすぎ、いまから二、三年前のことだ。実家にいたときに、自分の青年のころの写真を見返す機会があった。すでに分かっていたことではあるが、当時のわたしは貧しい顔をしていた。痩せていて、去勢された青年みたいで、貧弱な女の子の幽霊みたいに気持ちがわるい。わたしはその時期の自分の顔が好きではなかった。ノイローゼだった時期でもあり、それが写真にそのまま写っていて、手に取るように分かる。神経質そうで、色が白く寒々としている。

こんな顔をしていたら、自分の道など見つけられなかったのも無理はない。見つけられるはずがない。たとえ見つかっても、すぐに行き詰まっただろう。そこには、ひとがまっすぐ生きていくために必要な何かが、そっくり欠けているのである。しかしそれが何か、分からなかった。分かったのはつい最近のことである。

欠けているものは何か。それは、言うなれば「精神の栄養」みたいなものだ。たとえば、文学をとおして書き手の精神に触れる、音楽をとおして古人の精神にふれる。たとえば、貧乏に耐え、代々受け継いできた商売を守りながら、なにかの信念に目覚める。そうやって、すこしずつ精神を養い、豊かにしていくという「いとなみ」のようなものが、そっくり欠けているのが、青年のころのわたしだったのである。もっと言えば、そういうものは一代で決まるものではない。ようするにわたしの精神は、親の代から貧しかったということだ。親のせいにするみたいで気が引けるが、事実なんだからしょうがない。精神の貧弱な親と、精神の貧弱な子ども。それがそのまま写真にはっきり写っているのである。なかなか無惨なものだ。

当時のわたしが描いた絵も、その貧しさを顕わしていた。器用で上手いけれども、痩せている。正直でまっすぐだから、小賢しくも浅はかでもないが、狭い。そういえばその先生は当時、わたしの描く絵には厳しかった。いつも点数が辛い。理由はうすうす分かっていた。わたしがコンクールなどで賞をとると、師匠はわたしをまっすぐ睨んで、「シンが選ばれるなんて、おかしなことがあるものだな」と言ったものだ。わたし自身も、そう思った。自分の生徒が選ばれて苦情を言うのだから、つくづくおもしろい先生だった。

なぜあの先生が、なぜあのときのわたしにむかって、あの言葉を贈る気持ちになったのかが、ようやく分かったような気がした。豊かな精神を養え。そう言われていたのかもしれない。

そして、これはとても大切なことだ。親の代から精神が貧しいばかりに、ただそれだけのことで、人生そのものがうまくいかないひとは大勢いる。わたしがそうだから、よく分かる。わたしはまだいまでも貧しく、貧弱な印象をひとに与えることがある。仕事がうまくいかないのも、あたりまえのことなのである。

しかしこれを自分で覚るひとは、なかなかいない。まず不可能だろう。わたしの両親が、わたしをさんざん愛してくれて、支持してくれたから、長年のあいだ、たくさんの精神に触れて、自分をすこしは養うことができて、ようやく分かることができたのだ。これはまったく特異な例であって、救いがたく貧弱だったわたしを、二十年以上かけてやっと、ここまで造り上げたのが、数々の「精神」なのである。わたしは両親の愛情と、精神たちによって、すこしは救われたのだと思っている。