『タイプ論』誤読ノート

2006-10-21 15:45:37 | Notebook
       
今年の9月はユングの『タイプ論』(みすず書房)を読み返していた。とは言っても、この本を通読するのはたいへんなので、ときどき拾い読みする程度だ。それに、ちゃんと理解しているとは言い難い。しかしそれでもわたしにとっては、さまざまな収穫がある。あまり本を読めないわたしにとって、数少ない、たいせつな本のひとつだ。

これは、いささか幼稚なノートだけれど、わたしはこの本をいまのところ以下のように読んでいる。われながら、おかしいと思うところがいろいろあるし、たぶん間違っていると思うが、それでも誰かにとっては、なにかのお役に立てるかもしれない。そんな気持ちでこれを公開する。間違いを細かく考察して修正していたら、また10年ちかい年月がたってしまうからだ。きっと専門家の方々のお叱りを受けることだろう。



いつも思うのは、この本を学ぶところから始めないと、人間のことは何一つ分からないのではないか、ということだ。

たとえば、わたしはどうやら内向的直感型のようだ。この仮定のもとに考察することで気づくことが多くあった。
わたしの心は、躊躇、不安、予感、気苦労で満ちている。目の前の物を手にとるだけでも、それがわたしにとって良いことなのかどうか、いちいち「自分の胸に訊く」ようなことをしている。イメージトレーニングなしにはバットも振れない。これは意識してやってるわけではないから、タイプ論を読むまで自覚できなかった。みんなそういうものだと思っていたからである。

誤読による間違いをおそれずに言うならば、わたしは「内向的世界」に住んでいる。普通のひとがめったに降りてこない、心の底の井戸のそばに年中いるようなものだ。だから、目の前の現実に具体的に向かうことが、なかなかできない。豊かな内面世界にいるものだから、目の前の現実が、あまりに遠く、薄っぺらく、実感としてつかめないのだと説明すれば、分かってくれるだろうか。ふつうの人間の逆の世界に生きていると言えばいいだろうか。

ふつうは、ひとは夢のなかで心の底へ降りていく。しかし目が覚めて現実に戻ってしまえば、夢の世界へ戻っていくことは難しい。見た夢を思い出すだけでも、かなりの精神力を消耗してしまう。わたしの場合は、これが反対なのである。
わたしの場合は、目の前の仕事にとりかかるだけで、かなりの精神力を消耗する。目の前のものを拾うだけで、疲れ果てる。床屋へ行って髪を切ってもらうだけで、くたびれはて、その日は何もできなくなる。

世の中には、決められた時間に決められた場所へ行くだけで、精神力を使い果たしてしまうタイプの人間がいる。その理由は、彼らにとって、「決められた時間」という現実が、かげろうのように希薄な存在にすぎないところから来ており、ある種の内向的な心が原因になっている。希薄な夢の世界で活躍しろと言われても、たいていのひとは消耗してしまうだろう。

こういうひとは、部屋を掃除することができない。まじめなくせに学校へ通うことができない。就職しても勤まらない。無理をして通勤していれば病気になってしまうだろう。本人も辛いし、周囲も辛い。原因がまったく、かいもく分からないのである。

しかも、こういう内向的な人物に、外向的な頑張り方をさせるのは逆効果だ。
むりやり外へ連れ出して、むりやり働かせて元気を出させようとしても、たぶん次の日には寝込んでしまうだろう。久しぶりに活動的な一日を終えて、本人も喜んでいる。よし明日も元気に、がんばろうと思う。しかし、たぶん次の日は死んだ魚のようになっているだろう。

それほど疲れているわけでもないのに、気力が出ず部屋でごろごろしている若者がたくさんいるのは、このあたりの対処の仕方を根本的に間違えているのではないだろうか。鬱病やノイローゼ、自閉症など、いろいろな場合があるだろうが、わたしのように内向的直感型から来る病いであるとするならば、まず自分のタイプを知ることが先決となる。

彼らに必要なのは、自分が内向的な世界に生きていることに気づかせることだ。それから、その「躊躇、不安、予感、気苦労」を手放しても、世界は終わらないのだということを悟らせることである。しかし、これはたいそう難しい。それが本人の世界の、すべてだからだ。

引きこもりの学生の場合は、たった一冊の味気ない教科書を開いて読んでみることが、その学生にとって「かけがえのない美しい現実」であり、「唯一の、そして豊かな現実そのもの」なのだということを悟らせることだ。そして、それ以外の「自分と世界そのもの」をいったん捨ててしまうコツを掴ませることだ。しかしこれも至難の業というべきだろう。
瞑想の才能があるものは、「いったん死んで無に帰り、心の底の井戸のそばで、教科書を開く、そして、それがいかに豊かな輝きに満ちているかを観想する」という瞑想をしてみるのもいいかもしれない。そうすればやっと、現実の教科書を開くことができるかもしれない。大げさかもしれないが、内向的な人間というものは、それくらいやっかいな世界に生きているものだ。

外向的な人間は、「まず行動する」ということができる。これが内向的な人間からみると羨ましい。しかし、外向的な人間はある部分で、とても薄っぺらい生を生きていることがある。内向的直感型のわたしの目に彼らは、心ない言葉でひとを傷つけ、気に入らないひとを捨てて顧みない人物に見えることさえある。

そのうえ、外向的な人間は内向的な人間のことを、いささか誤解している。内向的な人間がいつも「躊躇、不安、予感、気苦労」に取り憑かれているものだから、とても「暗い、陰気な、いらいらするような人物」に見えることがあるのだ。また独特の圧迫感、緊張感のようなものも身にまとっている。気難しい人間に見えることがある。

さらに外向的な人間は、内向的な相手のことを「疫病神」と感じることがある。それは、内向的な人間が、外向的な本人の代わりになって「心の底から来る予感」をもたらすことから来ている。自分の心をあまりに顧みない本人の代わりに、そばにいる内向的な人間が彼の「予感」を感じ取ってくれるのである。この「予感」のなかにはもちろん「嫌な予感」も含まれるし、その嫌な予感が当然、当たることだってある。このため、内向的な人間は外向的な相手から「鬼門」とか「疫病神」のレッテルを貼られるのだ。「妻といっしょにいると、いつも調子が狂い、嫌なことが起きる」などと誤解している夫は、自分をよく顧みる必要があるかもしれない。



わたしのように内向的直感型の人間ばかりが世の中に増えたら、この世界は機能しなくなるだろう。時計の針は止まり、都市機能は麻痺し、世界は終焉を迎えるかもしれない。
しかし、外向的な人間ばかりの世の中になったら、それはまるで、書き割りのなかで演じられるホームドラマのように薄っぺらい世界になってしまう。豊かな味わいのない世の中ができあがるだろう。

内向的な人間と外向的な人間は、お互いを必要としているのだ。たとえば、内向的な人間同士が結婚すると、かえってうまくいかないことがあるらしい。内向型、外向型の正反対の気質をもつ夫婦が、お互いにいらだちながら、お互いをけなしながら、なんとかいっしょに生活を営んでいたほうが、ずっと収穫のある人生を送ることができるというケースも、あるらしい。

そして、この視点を知らないと、じつは人間のことを具体的には何も分かっていないことになってしまうのではないか。目の前の友人を誤解しつづけることになってしまうのではないか。ユングの『タイプ論』を読み返すといつも、そう思うのである。この本を翻訳してくれた林道義さんに、わたしはとてもとても感謝している。

以上、わたしの書いたことはいろいろ間違っているかもしれないが、何かのお役に立てるところもあるかもしれない。
また時間をつくって読み返したいと思う。そして、またあらたな発見をし、ここに書いたことの間違いを訂正できる日が来れば嬉しいと思っている。