今回のカウンセリングでは、参加した公開講座の話と、『子どものこころが傷つくとき 心理療法の現場から』の話を織り交ぜながら
改めて、自分と母親の関係性について考えてみた。
前回、「怒りにもいろんな表現の仕方がある」ってことで、
よくよく考えたら、わたしは元々キレキャラではないから、
そのつど辛抱強く、母と価値観の違いについてはいちいち話し合ってきたけれども、
頭では分かったと言っていても、やはり無意識の部分は変えられない。
それは、親のまたその親から厳しくしつけられたことにも通じている。
これまでそれこそ考え得る限りのあらゆる角度からアプローチしてきたが無駄に終わった。
母親がカウンセリングを受けたほうが早いんじゃないかって気もしてきた
母親が変わらないかぎり、わたしへの影響は永遠に続くんじゃないかとも思える。
でも、「カウンセリングはあくまで自主的に必要性を望む人が受けるものだ」と言う。だよね。
まさに心理学の鉄則「相手は変えられない。自分は変えられる」
「母親はもうこれ以上変えられない。わたしの向き合い方にポイントを置いて考えてみよう」てこと。
それは、“いじめっ子”と“いじめられっ子”の関係にも通じるという。
母親が本当に諦めていたらもう言わない、言えないだろうが、
まだ「こうしなさい」「ああしなさい」と言っているうちは、
言い甲斐がある、まだ変えられるという希望を持っているということでもある。
つまり、私と母の間のやりとりに、ついまだ何か言いたくなってしまうような要素があるとのこと(なんだろう???
そこには「母親が自分に対して近づきすぎる関係」も見えているとのこと。ふむ。
「はい、はい、そうですか」って受け流すことができる人も世の中にいる中で、
「なぜ、母親の言うことにいちいち反応してしまうのか?」という質問に考えさせられた。
なぜだろう???
1.命令されるたびに否定された気がして傷つくから➡これまでも受け流して、積み重なって病気にもつながっている➡これ以上傷つけられたくない
2.母親のまるで泉のように湧き出てくる不安感・心配も、その本意は価値観の押し付け、わたしの個性への攻撃である➡やはり傷つく
3.心配をいくら打ち消してもキリがない。また最初から何度も同じことを説明し直さなければならない➡やっぱり通じなかったという諦め・絶望感のループ
4.「自分はこのままじゃいけないのか?」「いくら頑張っても認められない」という自己否定に結びつく。
5.そもそも、受け流してまで母の否定は長年浴び続けなきゃならないものなのか?
以前も「どうして、そこまで親に認められなきゃ、自己肯定できない自分がいるのか?」という質問をされたが、今回もそれが出てきた。
1.自分で選んだ道だから、そもそも親の評価など必要ないし、放っておいてもらいたいが、それが叶わないから。過干渉。
2.幼少時代からずっと心配・否定され続けた事実があって、相手に合わせる+自己否定につながる背景がある。
3.なにを頑張っても認められないというのは辛い。たとえ楽しかった出来事を話しても、
「夜遅くなる前に帰りなさい」「ライブに行くのは月に1回くらいにしておきなさい」などと喜びまで否定される
その背後には「かくあるべき」という個人の価値観の押しつけがある。
4.母は父とのコミュニケーションが断絶されている孤独を、私に愚痴り、支配下に置くことによって穴埋めしている。
実際、問題に取り組むべきは母親自身の問題であって、わたしではない。それが理不尽だと思う。
今回は、論点も比較的ハッキリしていたし、段階的に話が進んで、
次回のカウンセリングまでにいろいろ内考させられることも多くて、充実感があったな。
家に帰って、図書館等に寄って、近所のタイ料理店でランチ
「日本人の口に合わせてまろやかな味付けにしていますが、本場のシェフが作っているので、
ご要望があれば本場の味もお楽しみいただけます」といううたい文句。
わたしは辛いのが苦手だから、まろやかな味って書いてある「タイ風チャーハン」を注文したら、
サラダ、スープのほかに、ドリンクがいろいろ揃っていて飲み放題
オレンジジュースなどフルーツジュース、ホットとアイスのコーヒー、あとはハーブティもあったから、
レモングラスティーを持ってきたら、爽やかでちょうど料理にもピッタリv
山盛りご飯でちょっと苦しかったけど、無事に完食v
晴れる日も続いて、外を歩き回ればちゃんとお腹も空くね
春になると、和の生菓子が食べたくなるってことに気がついた
よもぎ餅、イチゴがのっかった道明寺、うぐいす餅
ひと仕事終えた後の甘味はカラダとココロにしみるぅ~!
「lyrics」もアップしました。
改めて、自分と母親の関係性について考えてみた。
前回、「怒りにもいろんな表現の仕方がある」ってことで、
よくよく考えたら、わたしは元々キレキャラではないから、
そのつど辛抱強く、母と価値観の違いについてはいちいち話し合ってきたけれども、
頭では分かったと言っていても、やはり無意識の部分は変えられない。
それは、親のまたその親から厳しくしつけられたことにも通じている。
これまでそれこそ考え得る限りのあらゆる角度からアプローチしてきたが無駄に終わった。
母親がカウンセリングを受けたほうが早いんじゃないかって気もしてきた
母親が変わらないかぎり、わたしへの影響は永遠に続くんじゃないかとも思える。
でも、「カウンセリングはあくまで自主的に必要性を望む人が受けるものだ」と言う。だよね。
まさに心理学の鉄則「相手は変えられない。自分は変えられる」
「母親はもうこれ以上変えられない。わたしの向き合い方にポイントを置いて考えてみよう」てこと。
それは、“いじめっ子”と“いじめられっ子”の関係にも通じるという。
母親が本当に諦めていたらもう言わない、言えないだろうが、
まだ「こうしなさい」「ああしなさい」と言っているうちは、
言い甲斐がある、まだ変えられるという希望を持っているということでもある。
つまり、私と母の間のやりとりに、ついまだ何か言いたくなってしまうような要素があるとのこと(なんだろう???
そこには「母親が自分に対して近づきすぎる関係」も見えているとのこと。ふむ。
「はい、はい、そうですか」って受け流すことができる人も世の中にいる中で、
「なぜ、母親の言うことにいちいち反応してしまうのか?」という質問に考えさせられた。
なぜだろう???
1.命令されるたびに否定された気がして傷つくから➡これまでも受け流して、積み重なって病気にもつながっている➡これ以上傷つけられたくない
2.母親のまるで泉のように湧き出てくる不安感・心配も、その本意は価値観の押し付け、わたしの個性への攻撃である➡やはり傷つく
3.心配をいくら打ち消してもキリがない。また最初から何度も同じことを説明し直さなければならない➡やっぱり通じなかったという諦め・絶望感のループ
4.「自分はこのままじゃいけないのか?」「いくら頑張っても認められない」という自己否定に結びつく。
5.そもそも、受け流してまで母の否定は長年浴び続けなきゃならないものなのか?
以前も「どうして、そこまで親に認められなきゃ、自己肯定できない自分がいるのか?」という質問をされたが、今回もそれが出てきた。
1.自分で選んだ道だから、そもそも親の評価など必要ないし、放っておいてもらいたいが、それが叶わないから。過干渉。
2.幼少時代からずっと心配・否定され続けた事実があって、相手に合わせる+自己否定につながる背景がある。
3.なにを頑張っても認められないというのは辛い。たとえ楽しかった出来事を話しても、
「夜遅くなる前に帰りなさい」「ライブに行くのは月に1回くらいにしておきなさい」などと喜びまで否定される
その背後には「かくあるべき」という個人の価値観の押しつけがある。
4.母は父とのコミュニケーションが断絶されている孤独を、私に愚痴り、支配下に置くことによって穴埋めしている。
実際、問題に取り組むべきは母親自身の問題であって、わたしではない。それが理不尽だと思う。
今回は、論点も比較的ハッキリしていたし、段階的に話が進んで、
次回のカウンセリングまでにいろいろ内考させられることも多くて、充実感があったな。
家に帰って、図書館等に寄って、近所のタイ料理店でランチ
「日本人の口に合わせてまろやかな味付けにしていますが、本場のシェフが作っているので、
ご要望があれば本場の味もお楽しみいただけます」といううたい文句。
わたしは辛いのが苦手だから、まろやかな味って書いてある「タイ風チャーハン」を注文したら、
サラダ、スープのほかに、ドリンクがいろいろ揃っていて飲み放題
オレンジジュースなどフルーツジュース、ホットとアイスのコーヒー、あとはハーブティもあったから、
レモングラスティーを持ってきたら、爽やかでちょうど料理にもピッタリv
山盛りご飯でちょっと苦しかったけど、無事に完食v
晴れる日も続いて、外を歩き回ればちゃんとお腹も空くね
春になると、和の生菓子が食べたくなるってことに気がついた
よもぎ餅、イチゴがのっかった道明寺、うぐいす餅
ひと仕事終えた後の甘味はカラダとココロにしみるぅ~!
「lyrics」もアップしました。