メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『NHKテレビテキスト 知楽遊学シリーズ 植村直己』 8月 植村直己

2015-02-09 14:17:05 | 
『NHKテレビテキスト 知楽遊学シリーズ 植村直己』
日本放送出版協会/編集
著者:野口健

8月は植村直己さん、9月は星野道夫さんを特集している。

【ブログ内関連記事】
『植村直己 エベレストから極点までをかけぬけた冒険家』(小学館)
植村冒険館「メモリアル展示~山頂に残された旗」


いろんな山の名前にそれぞれ由来があるのが面白い。先住民族がつけたのかなぁ?
エベレスト:インド測量局の初代長官の意。チベットでは「チョモランマ(大地の母神)」、ネパールでは「サガルマータ(世界の頂上)」と呼ぶ。
モンブラン:「白い山」の意。
キリマンジャロ:「白く輝く山」の意。
アコンカグア:「岩の番人」の意。
マッキンリー:アメリカ第25代大統領の名にちなむ。
チョー・オユー:「トルコ玉の神」の意。



【内容抜粋メモ】

【8月 植村直己 笑顔の冒険家~野口健(アルピニスト)】


 
北極点到達/このパスポートから世界への冒険の扉が開いた

植村直己の足跡
 

 




僕の人生を変えてくれた一冊の本~『青春を山に賭けて』植村直己著
今思うのは、厳しいようだが、夢をもって挑戦したことで、得るものもあれば、失うものもある、ということ。
夢をもったがゆえに苦しむことがある。トータルで考えて、得るもののほうが大きいと思っているから僕は挑戦している。


第1回 “どんぐり”からの脱却

停学中に出会った『青春を山に賭けて』
当時の僕はとにかく「劣等感」の塊だった。日本人の父と、エジプト人の母を持ち、
幼少の頃は「ガイジン」と言われてイジメられたし、勉強はまるでダメ。
両親の離婚、優秀な兄への引け目から自信が持てず、悶々としていたある日、先輩を殴って1カ月の停学処分になった

父の勧めもあって一人旅に出た。その度の途中の本屋でふと手にとったのが『青春を山に賭けて』。
その後、映画『植村直己物語』を観たり、『マッキンリーに死す』などを読んで、
深く知れば知るほど「この人は僕とどこか似た部分がある」と確信した。


僕にもできるかもしれない
劣等感を抱えた若者が、いきなり4万円だけ持って海外に飛び出して、ついには夢を実現してしまう。
「僕も特別な才能なんてないけど、こつこつ地道に努力しさえすれば、なにかを成し遂げることができるんじゃないか」と思い始めた。

これは今でも植村さんの反則技だと思っているんですが、あの本は大変なことをさらっと書いている。
世界五大陸の最高峰を登ったんだから、本当は生きるか死ぬかのギリギリの選択を迫られたりしたはずなのに、
けろっとしたタッチで書いているので、辛さがそれほど深刻には伝わってこない。

その後、何年かして僕も実際にエベレストに登った時「植村さん、もっと本当のことを書いておいてくれよ!」と思った

 
明治大学山岳部の合宿。右端が植村さん


モンブランに登りたい!
高校には山岳部がないから、片っ端から電話をかけて、入会させてくれる登山会を探したが、
僕が高校一年だと告げると「責任が持てないから」と断られた。
なんとか入会できた登山会で、最初に出かけたのは、真冬の富士山
初めて登った山が、富士山8合目の雪上訓練で、強烈な体験になった。

その後、その主催者から「来年はモンブランに登る」という話を聞き、お願いしたら当然「ノー」。
「それなら一人で登ります!」など無茶なことを言って、結局、参加させてもらった。
モンブランはヨーロッパ大陸の最高峰だから、落ちこぼれの僕が制覇すれば、学校の連中が少しは認めてくれるのではないか。

モンブランに登り、翌年はキリマンジャロにも成功して、帰ると、学校のみんなの態度がガラリと変わった。
「野口といえば山登り」というカラーができたことで理解を示してくれた。
ますます山の魅力にハマって、最年少で世界最高峰を全制覇する目標を抱いた。


劣等感がすべての冒険の始まりだった
植村さんと僕が似ていると感じたのは「劣等感が強かった」という部分だが、
それこそが、植村さんの登山や冒険の原動力になっていた。

1960年代は学生運動が盛んで、若者の間では登山ブームが起こっていた。
植村さんはつねに「兄弟の中で自分だけ大学に行って申し訳ない」という気持ちを抱いていた。
もちろん功名心もあっただろうが、劣等感と訣別し、自分の人生を肯定するために、どうしても旅に出ずにはいられなかったのではないか。

「私を外国の山へ駆り立ててくれたのは、同僚の小林正尚だった。
 彼は夏山行の後、アラスカで氷河の山を楽しんだという話す様子は羨ましく、ライバル意識を燃え立たせた
 就職なんてどうでもいい。せめて一度でも外国の山に登りたかった。それがもっとも幸せな道だと思った」

小林さんに対する対抗意識、なにより、そんな風に思ってしまう自分の劣等感から解放されたいと考えたんだと思う。


粘り強さが冒険を成功に導いた
1964年、「海外渡航自由化」となったが、英語も苦手で、資金もなく、渡米の際は一番運賃の安い(約10万円)
移民船「あるぜんちな丸」に乗って(星野さんと同じだ/驚)所持金は4万円

植村さんはいい意味で本当にしつこい。どんな苦難に直面しても絶対に諦めない強さを持っていた。
そうして前進しなければ自分を失いかねないギリギリの状態だったと思う。


カリフォルニアのぶどう畑で資金を稼ぐが、不法就労で連行される。23歳


地道な努力が運を引き寄せた
山岳部でも、毎朝9kmの山道をひたすら駆け回った。
「こんなに努力したんだから認めてくれ」じゃなく、見返りを求めず、自分が納得するまで黙々と努力する。


ゴジュンバ・カン初登頂。1965年。24歳


植村直己がみんなに愛される理由
登山家や冒険家は本来、「俺が、俺が」という我の強い性格が多い。そうでなければ務まらない。
植村さんには「俺が」という気持ちはあっても、オブラートに包むのがうまかった。
人に見せるべきではないという気持ちがあったと思う。
こうした控えめで謙虚な人柄だったから、みんなに愛され、信頼され、ひいてはさらなる運を引き寄せたと思う。


第2回 エベレスト日本人初登頂

郷に入れば郷に従え
植村さんは、冒険前には必ず、現地に長期滞在し、住民たちの生活に深く入り込み、異文化を丸ごと吸収していた。
南極横断の際もグリーンランドのイヌイットの集落で過ごした。
『極北に駆ける』には、ママットという生肉を必死に食べたことが書かれている。

「現地の人と同じものを食べること=相手の文化を受け入れること」

僕も19歳で初めてヒマラヤのシェルパの村を訪ねた時「チベッタンティー」というお茶を出してくれて
紅茶に独特の臭いがあるチーズとバターと塩水を入れたもので、胃液と紅茶が混ざったような味

「チベッタンティー」にもちゃんと理由がある。
ヒマラヤのアップダウンの激しい地形を歩くと汗をかき、体力も消耗する。失われた塩分やカロリー補給のためにある。
標高が高いとおしっこをいっぱいしなくちゃいけないが、お茶を飲めばたくさん出る。

生肉は、野菜など手に入りにくい極寒地では、ビタミン不足による壊血病を予防できる。
厳しい自然の中で暮らす人々が長い時間をかけて得た知恵の重要性を植村さんは分かっていた。

「食事と排泄は現地の人と同じにやる」ということも書いてある。
極北では、排泄は大変な行為。当時イヌイットの家では、トイレは部屋の中のバケツだった
冒険中は、マイナス50度の中でお尻を出せば、針に刺されるような痛みがして、ズボンをあげる時は硬直して動けない。


ナオミは俺たちと一緒だった
今でもヒマラヤ周辺に行くと、現地の人から「おまえは日本人か? ナオミを知ってるか?」と声をかけられる。
「どんな人でしたか?」と聞くと「ナオミは俺たちと一緒だった」と話してくれた。
植村さんはシェルパと生活を共にし、使用人としてではなく、仲間の一人として接していたという。

2009年、僕の知り合いのシェルパが、ヨーロッパ隊とエベレストに登っている途中の事故で亡くなった。
その時、カトマンズの旅行代理店にこんな電話があった
「一人死んじゃったから、新しいシェルパをすぐ送れ」
ひどい話です。シェルパの家族は一家の大黒柱を失って、こんな無念なことはない。
今でさえこうだから、植村さんの時代はもっと酷かったはず。


人間、植村直己の魅力
ある時、民家に泊めてもらった時、そこのおじいさんの手の指が一本もないことに気づいた。
「1981年の冬のエベレストで失った」。植村隊だとすぐに分かった。彼は微笑みながら嬉しそうに話してくれた。

「俺は指を失ったけど、ナオミはとても優しかった。何回もネパールに来て医者に連れていってくれた。
 他の連中は我々を単なる移動の道具として使ったが、ナオミだけは人間として扱ってくれた。
 指は失ったが、これを見るとナオミを思いだすんだ」

世の中には、8000m級の山を無酸素で登ったラインホルト・メスナーなど植村さんより難しい山に登っている登山家はたくさんいる。
記録は時代とともにどんどん塗り替えられていくが、いまだあれだけ地元の人に愛されている登山家は植村さんしかいない。


1970年のエベレスト日本人初登頂
植村さんは単独での冒険が特徴だが、この世には単独では登れない山が存在する。
「私にとって良い山とは、ひとつの極限を意味している」


アイスフォールにハシゴを渡す

エベレストは想像以上に難しい山です。
まず「アイスフォール」という氷の巨大な柱がそそり立つ難所があり、ハシゴを渡して越えなきゃならない。
植村さんが登った時も、氷が崩壊して、他のスキー隊のシェルパが6人亡くなっている。
植村さんが内心、ライバルと思っていた成田潔思隊員も亡くなった。
植村さんは、松浦隊員と第一次アタック隊に選ばれる。

当時の山岳部では後輩が先を行き、いざという時は先輩が後ろから支える習わしがあったが、
頂上まであと10mというところで、植村さんは「先輩、お先にどうぞ」と先を譲った。
結局、2人で肩を組むように頂上に立った。
植村さんはザックいっぱいに石を拾い、「みなさんのおかげで登頂できました」と持ち帰った。

植村さんの明大山岳部時代の仲間で交通事故で亡くなった小林正尚さんの写真をエベレストの頂上に埋めた話も美談として伝わっている。
エベレストの山頂はまさに極限状態。そんな中で石を持ち帰ろうという発想自体、僕には浮かびません。
下りは登りよりラクだと思われるでしょうが、実は山は下りのほうが肉体的・精神的にも圧倒的に苦しい。
実際、エベレストでの死亡事故も下山中に多い。


史上6番目、日本人初のエベレスト登頂。1970年。29歳


2度のエベレスト登頂失敗
2度、チームでのエベレスト登山を経験して、登山隊にいると、どうしても人に気を遣う自分に疲れることに気づき、
植村さんは、これ以降、単独で南極点を目指すという水平の冒険へとシフトしていくことになる。
しかし、9年後の1980年、またエベレストに帰ってくる。
3度目は自らが隊を率いた、未踏の厳冬期登頂。

「山では絶対に死んではならない」というのが口癖だった植村さん。この登山で、隊員の竹中昇さんが不慮の事故で亡くなってしまう。
息を引き取ったのは植村さんの腕の中。植村さんは何十回も人工呼吸をしたが帰らぬ人となってしまった。

極限状態では、人は淡々としてしまう。そうしないと自分に疲れてしまうんです。
僕も山で人が死ぬのを見ましたが、正直、その時は「あ、死んでしまった」という気持ちしか湧かなかった。
それはたぶん人が生きるための防衛反応が働くから。感情的になると、エネルギーを消耗して、自分も死の危険に曝されてしまう。
植村さんもおそらくベースキャンプに戻ってから、慙愧の念などが一挙に押し寄せたのではないかと思う。


新たなる夢、南極へ
 
マイナス40度の中、北極点を目指す/北極点にて

 
グリーンランドではイヌイットのイヌートソア夫妻の養子に/1984年、厳冬期マッキンリー単独登頂成功後に発見されたフィルムを現像した写真

「冒険家に必要なのは、臆病者であること。
 大きな目標に向かうには何年もかけて周到に準備をし、装備にも工夫を凝らした。
 極地での冒険には、まずその土地の人の生活になじみ、知恵を学ぶことから始めた」(植村

「山といえばエベレスト」と考えていた植村さんにとって、エベレストはとても魅力的である、
と同時に「地球上第三の極点」と位置づける厳しい山だった。
「山は自分のために登るものだと思う。誰からも左右されない単独行であれば、すべてが自分にかえってくる。喜びも、危険も」

登山家、冒険家には逃れられない業のようなものがある。大変な思いをして頂上に着いても、その時点でもう次のことを考えているんです。
次の目標がないと生きている実感がない。やっかいですが、それが登山家、冒険家という生き物なんです。


第3回 北極 単独行

水平の冒険へと向かった理由
植村さんが冒険を垂直から水平に移行したのには、いくつかの理由が考えられる。
1つは自分は困難な「岩壁登攀(がんぺきとうはん)」に向いていないと気づいたこと。

植村さんは、南極への準備に入る前にグランド・ジョラス北壁(アイガー、マッターホルンとともにアルプス三大北壁)、エベレスト南西壁に挑んでいる。
グランド・ジョラス北壁は、岩壁登攀のエキスパート小西政継さんに本格的なクライミングテクニックを教わった。
なんとか登って生還したが、小西さんは凍傷で両足指10本、左手小指を失った(両足指10本って・・・


妻の公子さんの存在
もう1つの理由として考えられるのは、結婚して家庭をもったこと。
1973年、当時住んでいた東京・板橋区の下宿の近くにあるトンカツ屋で、野崎公子さんと知り合い、翌年、結婚。
プロポーズは「山はもうやらないから結婚してください」
妻にも気を遣った植村さんですが、妻の前では本心を隠せず、子どもっぽい面も見せていたようです。


夫妻の食卓。雑誌の企画で。1983年。42歳


極地での暮らし方を学ぶ
まずは、南極大陸横断と同じ距離3000kmを体感するため、北海道稚内~鹿児島までを歩く日本列島横断の旅
途中で泥棒と間違われて警察に連れて行かれたり、実家に寄って母親から「なにしとるんじゃ」と呆れられたり(w
52日間かけて1971年10月20日にゴールした。


日本横断歩行。1971年。31歳

1972年。グリーンランド最北端のシオラパルクという村に行き、10ヶ月滞在して、
イヌイットから犬ぞりの扱い方、釣り、狩りなど極寒地での暮らし方を学ぶ。『極北に駆ける』
おそらく植村さんは、日本のような近代化された社会より、狩りや農業などを生業にする大自然のほうが肌に合っているんでしょうね。
植村さんは、世話になった夫婦の養子に迎えられた。

極北において犬ぞりは重要な交通手段の1つで、犬はペットではなく労働犬です。
甘く接すれば自分の命が危うくなる。言い聞かせるためには本気でムチで殴り、弱い犬は殺して毛皮にするのが当然だが
「頭で理解しても自分は最後まで同じように犬を扱えなかった」と講演で述懐している。

腕試しに無人地帯も含むグリーンランド西海岸3000km犬ぞり単独往復行に臨んだ。
無事戻った植村さんは「ジャパニ・エスキモー」と呼び名をもらって賞賛された。


北極圏1万2000キロの旅

自ら設計した極地用テントの中で。1978年。37歳

1974年、北極圏1万2000km犬ぞり単独行に挑戦。ゴールには公子さんの姿もあった。
後の講演で「私にとって本当に苦労、満足を感じたのは最初の無銭旅行の旅であります」と語っているように、
海外放浪時代が原点だった。


北極点到達への道のり
1978年、世界初の犬ぞり単独行での北極点到達という偉業を成し遂げ、
さらに前人未到のグリーンランド内陸氷床3000kmを犬ぞりで走破。世界の評価は不動となる。

しかし、これまでの自己完結的なスタイルと違い、この冒険は「社会的責任」が生じていた。
北極点到達には大金が必要。途中で飛行機による食糧補給も必要。それで世間に募金による資金集めをした。

「自分の夢のために人様からお金を集めて、私は泥棒のような人間です。本当に申し訳ありません、申し訳ありません・・・」(後援会や壮行会での挨拶

今では、スポンサーから資金を集めて冒険に出るのは当然だが、植村さんの時代はそうではなかった。
スポーツなどに純粋なアマチュア精神を重んじる当時の日本人は「プロの冒険家」を認めたがらなかったんだと思う。
それゆえ、植村さんに対する世間の風当たりも非常に強かった。

「私のことを探検家、冒険家、登山家と言う方がいらっしゃいますが、自分で何々家と思ってやったことは一度もございません。
 敢えて言えば、放浪家と言ってもらったほうがもっとぴったりしております」(1979年講演


プロとアマの二面性

北極の乱氷帯を進む。1978年。37歳

植村さんのやっていることはプロなのに、心は純粋なアマチュア精神を残していた。
だからこそ批判や中傷をすべて受け止めて、一人で苦悩を背負ってしまった。
プロは、冒険を商品だと割り切るくらいでないとやっていけない。
冒険家とスポンサーはお互いのメリットを考慮して成立しているから、これをズルい、と思ってはいけないんです。

私は今はウェアにスポンサーのワッペンが付けば付くだけ「死ぬ自由がなくなる」と考えています。
悪天候で、進もうと思えば一か八か行っちまおうと思う気持ちが出る。こういう時、死ぬ確率は高い。
その時、ワッペンが多いほどブレーキになる。

でも植村さんはプロにはなりきれなかった。
北極点到達の時も単独行と言いながら、人々の期待や重圧を背負って、がんじがらめの状態だったはず。

偶然、同時期に日本からもう1つの犬ぞり隊が北極点に向かっていた。
隊員のほか、イヌイット11人、訓練された犬150頭を抱える大所帯の日本大学の遠征隊。
単独で寄せ集めの犬を15頭だけの植村さんは、わずかの差で先を越されて
ゴール後の無銭基地で「くやしいな~」とつぶやいた声が残っているそうです。


第4回 成功も失敗も越えて

見果てぬ夢、南極大陸単独横断
1982年2月、南極に向かい、アルゼンチンからの支援をようやく得た矢先「フォークランド紛争」が勃発
1年待ったが、1983年に帰国。
結局、南極大陸犬ぞり単独横断と、南極最高峰のビンソン・マシフ登頂の夢は果されなかった。

当時40代といえば「そろそろ年齢的に限界だろう」と考えられた時代だった。
これらをひと言で言えば「失敗」「断念」となるが、その背景いにはいろんな事情があったでしょう。

僕の場合は、2度続けてエベレスト登頂に失敗した時。
その時、無理をしていった隊員は凍傷で指の大半を失ったが、僕は無傷で生還したから、自分ではそれほど大きな失敗とは思っていなかった。
しかし、帰国した途端「野口、2度目のエベレスト登頂にも失敗と一斉に叩かれた。
「ついに7大陸最高峰の最年少登頂記録樹立なるかと期待されていたから、その変わり様に驚かされた。


夢を追う者が背負うもの
僕は小中学校での講演に呼ばれて「夢を持って生きていくことの素晴らしさを、子どもたちに伝えてください」と頼まれる。
たしかにそれは素晴らしいが、でも、夢を持ち続けた人が100%幸せかと言われると、そうでもない気がする。

オリンピックを見ても分かるはず。皆の期待を背負って大会に出場するのは誇らしいが、同時にプレッシャーもかかる。
勝てばいいけど、負けて帰ればボロくそに言われるわけです。
「夢を持ってしまったがゆえの苦しみ」は、たしかに存在する。

北極点到達後の植村さんさんは、イギリスのスポーツ団体から「バラー・イン・スポーツ賞」を贈られたり(こういうのは必ず絡むねイギリスw
「ナショナル・ジオグラフィック」誌の表紙を飾ったりしたが、南極大陸単独横断を断念して帰国した植村さんはかなり落ち込んでいた。


野外学校設立を夢見て渡米
植村さんは、もう1つの夢に向けて歩みはじめる。1983年に訪れた帯広で野外学校を開きたいと語るも、
「戸塚ヨットスクール事件」が起き、「一方的に生徒を強制するのでなく、自主性を引き出すやり方はないか」と教育分野にも興味を抱く。

2ヶ月後、アメリカのミネソタにある「アウトワード・バウンド・スクール」(1989年、長野県子谷村にも開校/驚)という野外学校を目指して渡米。
そこでアシスタント・インストラクターとして犬ぞりの指導をした。

「僕らが子どもの頃、目に映る世界はみな新鮮ですべてが新しかった。しかし、大人になると疲れて夢を諦めてしまう。
 美しいものを見るためには子どもの頃の純粋なココロを持ち続けることが大切なんだ。
 いいかい、君たちはやろうと思えば何でもできるんだ。僕と別れた後もそのことを思い出してほしい」(植村


雪洞に残された最後の日記
1984年1月、植村さんは最後の〔誰もやったことがない冒険」となった厳冬期マッキンリー登山に向かう。
植村さんはテントを持たずに「雪洞」を掘りながら登るスタイルをとった。
単独登山で、風の強い山ではテントより雪洞のほうが、かえって安全な場合も多い。

標高5200mの最上部の雪洞には、植村さんが愛用していた装備が残されており、捜索隊によって発見されている。
その下の雪洞には、記録魔だった植村さんの登山日記も残されていた。
僕はそれを読んで、植村さんらしくない違和感を覚えた。

植村さんは自分のことを「私は人一倍、臆病者です」と語っていた。
僕が一番気になったのは、日記の最後に書かれた「何が何でもマッキンレー登るぞ」という言葉。
登山では体力、気力のほかに、判断力が求められる。
突っ込むか、突っ込まないかの判断は非常に難しい。微妙なケースに直面するほうが多いんです。

「何が何でもマッキンレー登るぞ」の下に、ピンッと跳ね上がるような線が書かれている。
そこには登頂への意気込みと同時に「俺はまだ南極を諦めないぞ」という植村さん流のしつこさを感じます。


日記


マッキンリーへ追悼の旅
僕にとってマッキンリーは「植村さんの山」。自分も登った際、途中で植村さんと山登りをやってきた小西政継さんに出会った。
小西さんは、植村さんに会いに訪れていて「会いに来たよ。植ちゃん」て山に語りかけるように登っている。
その時、小西さんから「65歳までに8000m峰14座を、すべて登るつもりだ」と聞いて、
「僕もエベレストには登るつもりなので、ぜひご一緒させてください」とお願いした。

1996年。僕がネパールのチョー・オユーに登っている時、小西さんがマナスルに登ると聞き、
「山を下りたらお互いカトマンズで合流して、打ち合わせをしてから翌年エベレストに登りましょう」と話した。
下山した私は、カトマンズで小西さんがマナスル登頂に成功したと聞き、待っていたが、なかなか下りてこないので仕方なく帰国。
帰国した晩のニュースで、小西さんがマナスルで遭難したと知った。


なぜ冒険家は危険に向かうのか?

「なぜ自分がこんな冒険をやらなければならないのか、よくわからない。
 しかし、直感的にわかるのは、もし冒険をやらなければ、おれという人間は無になる。
 もともと社会人として一人前になれない自分が、正真正銘の、無意味な存在になってしまう。
 だから、やるしかない、前進するしかない」(『文藝春秋デラックス』1979年10月号


植村さんに教わった「諦めずに続けること」を胸に刻んで、ここまでやってこられたことに感謝し、
それを次の世代へ伝えていきたいと思っています。

コメント

『NHKテレビテキスト 知楽遊学シリーズ 植村直己』 9月 星野道夫

2015-02-09 14:16:05 | 
『NHKテレビテキスト 知楽遊学シリーズ 植村直己』
日本放送出版協会/編集

8月は植村直己さん、9月は星野道夫さんを特集している。

【内容抜粋メモ】

【9月 星野道夫 生命(いのち)へのまさざし】
著者:今森光彦、湯川豊、星野直子、池澤夏樹

 


16歳でブラジル移民船「あるぜんちな丸」に乗ってロサンゼルスへ。約2ヶ月のヒッチハイク旅行だった


「生きていることの不思議」今森光彦(同じ写真家で、友人、よきライバルでもあった)


動物写真家と昆虫写真家
星野さんは2つ年上のほぼ同世代、写真家デビューも同じ頃。
撮影対象は、僕は昆虫で、彼はアラスカの野生動物。
当時「ネイチャーフォト」というジャンルが確立しておらず、
動物写真、植物写真、風景写真などとカテゴリーごとに分けられていた。

自然雑誌『アニマ』は、2人とも大変お世話になった。
動物写真にとても貢献していて、質の高い作品を世に広め、数多くの写真家を輩出した。
1973年に創刊、1993年に休刊、この20年は「動物写真の黄金時代」と呼べる。

創刊当時「動物行動学の母」コンラート・ローレンツが1973年、ノーベル生理学・医学賞を受賞。
「動物行動学」という学問も確立された。

『アニマ』は、写真家と学者を組ませて、動物の生態を観察するという編集方針を確立し、二人三脚の現場が増えた。
これは生き物の真実の姿を探るにはいいかもしれないが、写真の芸術性が希薄になる。

海外ではすでにマクロな視点で動物も風景も同じように撮ることが許されていた。
しかし当時僕たちが要求された写真は、動物単独の写真。
そこに住んでいる人、植物、大地に生きるすべての命と関わりを持っていることなどには、あまり関心が寄せられなかった。
僕も昆虫を撮りながら、すでに「里山」というフィールドをテーマに据えていたから、やはり違和感を覚えていた。

「里山」
自然破壊や、農村の過疎化により荒廃している。


独特な被写体との距離
よく「処女作に作家のすべてがある」と言うが、『グリズリー』には星野さんのエッセンスがすべて入っている。
撮影対象との距離の取り方がその1つ。

写真家は、被写体をとらえると近づきたくなる。
被写体と離れるほど、カメラと被写体との間には空気の層があるから迫力がなくなる。望遠レンズがあっても同じ。
けれども、星野さんは、ある一定の距離以上は被写体に近づかない。近づこうとしない。
おそらくゆっくり時間をかけて被写体をとらえて撮ったのでしょう。こういう背景の入れ方は当時あまりなかった。
その魔法を言葉に表するのは難しいが「優しさ」「謙虚さ」が加味された写真。


動物から人の営みへ
翌年出した『Alaska 風のような物語』は衝撃的だった。
写真は技術ではなく、自分が何を考えているかを表現するための手段にすぎない。
これは前2作と違い、星野さんが作りたいように作らせてもらえた。

最後の転換点になったのは『森と氷河と鯨』
ネイチャーフォトで人物を入れるのはとても難しい。ヒトは存在感が強いから、途端にドキュメンタリー風になることが多い。
しかし、この中の人々は見事に自然写真になっている。




自然への憧れ
星野さんと話していて「この人は、いわゆるカメラ小僧ではないな。僕と同じ根っから自然が好きな人だ」と感じた。

自然を知るということ
僕と星野さんは、日本とアラスカという、まったく正反対の場所を拠点にしているが、
「環境」に視点を置いているのは共通項。その思いの底にあるのは「生態系としての自然」。

しかし、自然を撮るには、旅行者にはない、定住者の眼、低い視線が必要。
そこで彼は、アラスカに住む決心をする。
自然に潜り込むことは、自分が生態系の網の目の点になること。

写真家は図々しいもので、被写体に向かってズカズカと入り「もう二度と来るな!」と怒鳴られることもある。
でも彼は違う。いつも現地の人に迎えられて、愛される、そして、運命共同体の一員になる。

客観視できる位置に自分を置いておかないと写真が撮れない。それは写真の宿命。
彼にもすでにそういう葛藤があったのではないか。

「ムース」

世界最大のシカ。インディアンの言葉で「木を食うもの」の意味。一般家庭では、1頭で4~5人の1年分の肉がまかなえる。


「循環する生命」湯川豊(エッセイスト)


魅力的な文章の世界
星野さんは、写真展を開けば1日に1万人以上動員するほど。
けれども彼には『星野道夫著作集』という、文筆家という2つの面を持っていた。
彼の文章は極めて魅力に富み、読む人を動かす力がある。
これは日本文学の世界でもなかった種類のもので、非常に独特な場所を占めるもの。


読書家だった星野の愛読書
星野さんは、州立大学に入った時すでにアラスカのあらゆる所に行きたいという希望があり、
そのためには小型飛行機をハイヤーのように使うためのお金が必要で、
大学が休みになると帰国して、僕が勤めていた文藝春秋で1~2ヶ月ほどバイトをしてアラスカに帰っていた。

いつも彼は「なにか面白い本はありませんか?」と尋ねるので、
池澤夏樹さんの『夏の朝の成層圏』など、いかにも好きそうだと薦めた覚えがある。
彼は、アラスカでキャンプをする時、必ず本をリュックに入れる習慣があった。

『エンデュアランス号漂流』の英語原本を読んだことは『アラスカ 光と風』にも書かれている。

『デルスウ・ウザーラ~沿海州探検行』も記憶に残っている。
彼はゴリド人のデルスウに100%の共感を持っていた。
ゴリド人は、文明から最も遠いところに生きている狩猟採集民。
これは『イニュニック』以後のエスキモーや極北インディアンへの共感と非常に近い。

金関寿夫の『魔法としての言葉』は、何度も話した。

そして『雪原の足あと』を書いた北海道の絵描きで開拓者の坂本直行さんに対する尊敬は、本当に大きかった。
彼の家族に会うエッセイが『旅をする木』にあります。

 


アラスカ定住を決めてから深まった思想
すごい文章力だと衝撃を受けたのは『イニュニック』。
アラスカの先住狩猟民の世界観と、星野自身の感受性が実に鮮やかに重なっている。
つまり星野が先住民の思想、死生観を理解し、血肉化していた。
インディアンやエスキモーへの共感、アメリカの他州から来て、新しい生き方を求めた白人への共感の2つがある。

『イニュニック』以降の特徴を1つ挙げると、星野は同じ話題を繰り返し何度も書くようになっている。
一般的に言えば、文学の世界では「自己模倣」と呼ばれて避けるべきことだと言われている。
しかし、読み比べると、同じ話題ながら、同じ文章ではない。
少しずつ、1つの体験が文章の中で深まっているのが分かった。

「ポトラッチ」
人類学では「贈与の応酬の儀式」として有名。

星野にとって書くことは、体験の報告ではなく、体験を頭に留めておいて、いつでも引き出せるようにして、
その意味にふと思い当たったり、別の体験時に前の体験が共鳴することで、体験の真の意味を知る。
話題が重なっていると非難するのは簡単だが、これはとても新しいことだと思う。


生命の循環の中で個の生命をとらえる
人間が生きていくということは、他の生きものを殺して、その肉や血を自分の体内に入れること。
「僕はムースになる」とは、ムースという生命体に等しくなると言っている。
1つの生命は独立しているのではなく、動物とヒトには「相互交換性」が存在しているという思想。
これは星野が到達したとても大事な考え方です。

ひとりのヒトの生命は、大きな生命の循環の中では、ほんの数十年というわずかなもの。
それを受け入れることによって、生命の流れに自分の命も参入していると考える。
すると奇妙な安心に似た境地が見えてくる。

医学の発達で平均寿命が延びたけれど、われわれ文明人は常に死を恐れ、脅え続けています。
死の受容より、健康維持、寿命を延ばすことだけ考えている。
しかし、インディアンは、死は必ず来るもので、大きな生命の循環の1つと受け入れている。

『イニュニック』にはこうある。

「自分の分身が一列に並んだら、2000年前の弥生時代の分身はわずか70~80人先。
 振り返って、少し目をこらせばその顔をかすかに読み取ることもできる。
 僕たち人間の歴史とは、それほどついこの間の出来事なのだ」

そうかと僕は虚をつかれた。

われわれの歴史認識では、人類の2000年は、原始時代~高度文明社会に発展した軌跡としてとらえる。
いわゆる近代の文明社会がいちばん偉いということになる。
しかし、親、その親と考えると、1つの教室におさまるくらいの時間感覚にしかならない。
人間の生命はそんなものなのだと、勇気づけられるような感じをもった。


先住狩猟民の思想を日本語で伝えてくれる
『旅をする木』は、僕が編集者としてつくった本。
もとは生物学者ビル・プルーイット著『極北の動物誌』の章タイトルで、1本のトウヒの果てしない物語。
朽ち果てたように見えても、それは次の生命を維持するために一定の役割をしているのだと、
自然科学的な根拠と、想像力を駆使して書いている。

滅びゆくアラスカ先住狩猟民の感受性、生き方、死生観を、今の日本語で伝えてくれるのは一種の奇跡。
文明が発達し、現在の社会を作り上げるために切り落としてきたことがそこに多くある。


星野はまとめて原稿を書くことができなかったので、手紙好きの星野に書簡形式で原稿を書くことを提案した
(なるほど、だからこんなに親しみやすく、季節の移り変わりから始まって、身近にいるような感覚だったんだ

 
星野が愛したアラスカ


モンゴロイドの北上
紀元前1万8000年頃にはアメリカ・インディアン、紀元前8000年頃にはエスキモーの先祖となるモンゴロイドが
かつては地続きだったベーリング海峡を渡ってシベリアから北米大陸にやって来た。
一方、ハイダ族など海洋インディアンの祖先は、海から渡来したのではないかと星野は考えていた



「もうひとつの時間」星野直子(夫人。今は長男とともに日本とアラスカを行き来して、事務所にて作品の管理を務める)


少年のような目をした夫との出会い
出会いは、夫の姉の紹介。17歳年上だとは聞いていたが、第一印象は、とても目がきれいな人だということ。
夫は毎年12月~2月にかけて、日本でまとめて仕事をするため帰国していた。

初めて会って2、3度目に「あなたの夢は何ですか?」と聞かれ、
「フラワーアレンジメントに興味があるけど、踏み出せないでいる」と言うと、
「本当に好きならできるから大丈夫だよ」と言われ、2ヶ月後には退職し、フラワーデザインの学校に入学した。

プロポーズに返事をしたのは1992年。
「いろんなことは考えないでいいから、一度遊びに来てごらん」と言われ、
姉の家族、私の母とともにアラスカに行き、帰ってきてからのことだった。
フェアバンクスの空港に降り立った時、初めて来たのに懐かしい感じがして、とても安心した。


撮影から始まった新婚生活
1993年5月に結婚、6月には日本を離れた。アラスカに着く前に、カナダ領クイーン・シャーロット諸島へトーテムポールの撮影に行った。

「クイーン・シャーロット諸島」
19Cにヨーロッパ人が天然痘を持ち込み、大勢が亡くなって、先住民のハイダ族は村を捨てて、島の反対側に集落をつくった。


一度、フィールドでクマと遭遇したことがある。「ベアスプレー(クマ撃退用)」(そんなのがあるんだ/驚)も近くになく、
私が驚いて「あっ」と声をあげたら、その声にびっくりして行ってしまった。

クマに出会ったらどうしたらいいか夫からとくに言われたことはない。
私たちはここにいるんだよと知らせるために大声で話しながら森を歩くとか、
食料はテントに持ち込まないよう気をつける、ことぐらい。


フィールドにいる時間そのものを楽しむ
夫はまず、撮影の時、目的地に着いたらベースキャンプを作ってから移動した。
移動中にカリブーがいたら撮影することもあった。
いろいろ考えながら歩いているようで、気になったっ場所では立ち止まってファインダーをのぞいたりしていた。



中でも記憶に残っている光景は、カリブーを撮影しに行った秋の北極圏。
北極圏の360度ツンドラが広がっている光景に圧倒された。

フィールドでの光景は、年月が経っても心の中にしっかり残っている。
そして迷ったり、悩んでいる時に、その光景を思い出すと励まされる。


アラスカの寒さと広さが人を温め、近づける
夫は手紙のやりとりを大切にしていた。撮影から戻ると、お風呂に入って、たまった手紙を読むのを楽しみにしていた。
持ち歩くザックにはたいてい手紙が入っていて、ちょっとした時間を見つけては読み、
返事を書けるよう便せん、封筒、切手も入っていた。

夫はおしゃべりではないが、無口でもなかった。
誰に対しても分け隔てなく、同じ態度で接する人だった。

アラスカの友人たちの温かさは、「こうしてあげる」「ああしてあげる」と言葉で言うのではなく、
普段は見守ってくれて、いざという困った時には本当に親身になってくれる、という温かさ。

フェアバンクスの家の土地を買った時、家の周りは土地が痩せていて岩がゴロゴロした粘土質なので、
トラックでいい土を運び、ワイルドフラワーの花の種を蒔いたそうです。
でも蒔きすぎて、近所の人が見に来るくらいたくさんの花が咲いた


息子の誕生、そして星野道夫の遺したもの
今は春と夏にアラスカに行っています。気持ちはフェアバンクスに住みたいのですが、
日本での仕事があり、息子は日本の学校に通っているので、そうもいかない。

“息子には日本の心や、日本的なものを理解できる人になってほしい、過ごした環境で人間は形成されるから、
 息子が小さい時期に日本で過ごす時間を持てるようにしたい”という気持ちが夫に強くありました。

家にいる時は毎晩お風呂に入れたり、離乳食をあげたり、オムツを替えてくれたり、息子が生まれてからは長期の撮影が少なくなった気がする。
子どもを背負えるザックを買って、デナリ国立公園にも行ったし、歩けるようになったら、一緒にフィールドに行きたいという思いが強くあったと思う。

アラスカで事故の知らせを聞いても、それまでも留守番が多かったので、また撮影からひょっこり戻ってくるのでは、
という気がしている時期がずいぶん長く続いた。

夫は声高に「自然保護」や「開発反対」を叫ぶ人ではなかったが、自分の写真や文章から、いろんなことを感じてほしいという思いはあったと思う。

 
撮影日誌をこまめにつけていた/2人の写真



「長い旅の途上」池澤夏樹(作家)


死をどう受け入れるか
星野は「テレビ番組を一緒に作りませんか」と僕に言った。
1年がかりで、僕がアラスカに何度も通って、アラスカの1年間をドキュメンタリーで構成する話。

彼の死で僕は奮い立った。彼の仕事は凄いものだったけれど、まだ広く世間に認知されていない。
残された我々にできるのは、彼の仕事の真価を世間に知らしめることだと。
彼にはもう新作はない。残ったものを見せていくしかない。

彼はなんといってもクマが好きだった。
それらを含めて、みんな迷いながら、彼の死をどう受け入れるか考えた。ある意味では、まだ解決していないのです。

自分が文筆生活をしている途中で、彼の足跡とクロスすることが何度かあった。


星野をなぞる
たとえばビル・リード(ハイダ族の血をひく母をもつ。カナダの20ドル紙幣にも作品が印刷されている)の彫刻。
ワシントンのカナダ大使館にある彫刻は観る機会はまずないのに、ヴァンクーヴァーで空港のターミナルを歩いていたら、目の前にあった。

大英博物館の所蔵品から好きなものを見つけて、それが作られた場所へ行く『パレオマニア』という仕事では、
1階から3階まで貫いているトーテムポールがあって、それがクイーン・シャーロット諸島のものだった。
「しめた」と思って諸島に行き、星野が書いているニンスティンツのトーテムポールを見た。

気まぐれで行ったフィンランドで太陽が3つに見える「幻日」も星野に報告したかった。

札幌にいた時、すでに星野は「温暖化」に絡むことを書いていたことを思い出した。
「気温が高くなるとカリブーが飢える」雪の表面がカチカチに凍り、餌が食べられなくなる。
北海道の然別湖で1997年、星野の写真展を開き、地元の人たちが氷でブロックを作った。
零度を超えなければ、氷はとてもいい建材なのです。エスキモーのイグルーと同じ原理。


僕はフランスのフォンテーヌブローという町に住んでいる。近くに絵画で有名なバルビゾンという小さな村がある。
カフェがあって、その主がネイチャーフォトの写真家だった。
「君は日本人か? ホシノを知ってるか?」「友だちだった」というと仰天して「神さまのように思っている」と言う。
そういう思いを抱いている人は、たぶん世界中にいる。あれだけの写真は誰にも撮れるものじゃないし、
あんな風にネイチャーの中に入って行く足取りも真似できない、そういう思いが重なった崇拝なのです。


自然とのつながりで自分の命をとらえる
誰にとっても死ぬのは一大事で恐ろしく、なんとか回避しようとして生きている。
命の原理には2つある。自分を生かしめる。それから子孫を残す。動物の場合ははっきり分かりやすい。
できる限り長生きして、できる限りたくさんの子孫を残そうとして、最後には死ぬ。それは大抵、老衰ではない。

ヒトは増えすぎたものだから、世界中のあちこちでストレスがたまって、相互に衝突している
「人は人に対してオオカミである(ホモ・ホミニ・ルプス)」という諺がある。
ひどくはびこって、なにかひどく歪んでしまった。死なないことが、生きていることだと信じてムキになっている。

動物は1頭の犠牲によって他の仲間は生き逃れられる。
オオカミも捕まえやすい弱そうなのを狙うから、ある意味、淘汰にもなる。
全体として見れば、その1頭の死はムダでもなく、悪でもない。
星野の写真や文章から、死んでもいいんだ、固体が死ぬこと自体悪ではない。
死は生とセットになっていると気がついた。


アラスカの死生観に学ぶ
星野がいちばんそれをうまく伝えたのは『旅をする木』。
彼はアラスカの雪原の中にたった一人でいても、仲間の一人であり、日本人の一人であり、
一人の人間だと深く意識しているから、まったく孤独ではない。

死を含めて自然は放っておけばうまくいくもの。よくないことをするのは大体人間。
自然を傷つけると、その結果は人間に返ってくる。

生と死について星野が考えていたのは、精神の安寧のため、静かに生きて満ち足りて、貪らないで生きるための大事な知恵だったのではないか。
自然の前でいかに自分が小さな存在かという認識。
インディアンやエスキモーの暮らした跡が何も残らない悠久の時間を前にすると、比べるのがバカバカしくなる。


北極星をめざして
彼は自然に入っていって、その意味を読み解いて、生命とは何かという重大なメッセージを得て、非常に劇的な死に方で逝ってまった。
残った者は一所懸命解釈する。まるでキリストと使徒たちの関係のように。

直子さんも星野の死後は散々苦労したし、みんなが泣いた。
けれども彼は、ああいう形において成就した。あれで完成したんだと、僕は敢えて言ってしまう。
いつでも死は中断だけれども、同時に、完成であるような死に方をしたいと思う。

リアリティのない代替物に取り巻かれた我々の暮らし方。どんどん変なほうに進んでいく時に、
彼は羅針盤であり、北極星なんですよ

僕が生まれて間もないカリブーの子で、オオカミに食われた時、
そこに人間の尊厳を持ち出すよりは、自然一般における生命の尊厳を前提にするほうが僕は好きなんです。


自然の中に戻る
星野は、人がいない場所にすごく魅かれていた。
食べることと、子を育てること、歳をとったら死ぬこと、ほかのことは全部二次的なことだ。

生命がいつも互いに重なり合っている。「トーテミズム」というのは、ある意味そうでしょう。
ヒトはやはり生きることに意味づけしたい。
けれど、自然と切り離された別の存在だから自分たちは値打ちがあるんだ、ではなく、
どうすれば自然の中にもういっぺん自分を組み込むことができるか、なのです。


「トーテームポール」は各家系の物語を刻んだもの。


 


コメント