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メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝 17 ベートーベン』

2011-06-27 17:12:13 | 
『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝 17 ベートーベン』(ポプラ社)
編集プロジェクト新・偉人伝/著

楽聖と呼ばれ、生涯に9曲の交響曲を作成した。
4大ピアノ・ソナタは、「ピアノ・ソナタ(ワルトシュタイン)」、「悲愴」「月光」「熱情」。
ベートーベン、バッハ、ブラームスはのちに「ドイツの3B」と呼ばれた。

1770年神聖ローマ帝国(現ドイツ)ボンで生。
祖父は宮廷楽団の楽長、父はテノール歌手の下でスパルタ教育を受けた。
(父はモーツァルトの名声と富にあやかろうと思って、演奏会でも息子の年齢を1つ誤魔化した

恩師ネーフェのおかげで11歳で楽譜出版→16歳でウィーンへ渡る。憧れのモーツァルトに会う。母の危篤で2ヶ月後帰る(母死去)
→21歳でハイドン(交響曲の父)に弟子入りするが多忙なためガッカリして他の師にも教育を受ける。
→再びウィーンへ。父死去。→20代後半に難聴が悪化→ナポレオンを讃える曲を書くが、皇帝になると失望し、
「あいつもただの野心家だったのか!」と激怒、交響曲第3番の曲名を「エロイカ~ある英雄の思い出のために」と変えてしまう。

→37歳「運命」「田園」初演→39歳。18歳のテレーゼに恋。曲を贈るが、字が汚かったため「エリーゼのために」となったw
→弟カスペース死去(1815)甥のカールの養育権を巡って、ヨハンナ(弟の妻)と争う(カールは後に自殺未遂を起こす)
→52歳「ミサ・ソレムニス」完成→53歳「交響曲第9番」完成→56歳。肺炎で死去。


<時代背景>
イギリスの産業革命後、植民地のアメリカが独立宣言。
各地で火山の噴火が起こり→大飢饉→フランス革命の一因となる。

<名言>
「人間のもっとも優れたところは、苦しみを乗り越えて、喜びをつかめることだ」

「私はひとりではあっても、孤独ではない」「すべてを失っても田舎は残っている」

「自由と進歩は芸術の目標である。それは、生活についてと同じだ」


レガート&カンタービレ奏法は、当時の貴族に感動を与えた。
レッスンした女性に恋をするも、貴族と音楽家の身分の差で実らなかった。
差出人も相手の名前も書かれていない謎の3通のラブレターは、アントーニエ宛てではないかと言われている。
ワインの甘味料として使われてた鉛のために健康を崩した
1600通もの手紙を書いたり、酒好きだったのは、ゴッホと通じるなあ/驚
約80回も引越して、住所は「ウィーン ベートーベン」で着くと言っていた。

交響曲第9番=初めて日本で演奏したのは、第一次大戦中、ドイツ人捕虜が待遇に感謝した曲。現「鳴門市ドイツ館」。
ピアノを自分で買ったことははく、支持者に10台もらった。ピアノの歴史が曲に反映している。
貴族のサロンや食事のBGMだったクラシックが、静かに聴くものになったのはベートーベンが私語を禁止したから。
ベートーベンワイン=母の実家の酒屋で今も作られているワイン。ケーヴェリッヒ・リースリング。

クラビコード=ヨーロッパの鍵盤楽器。オルガンやチェンバロ、ピアノなどと並行して、16世紀から18世紀にかけて広く使用された。

メトロノーム=メルツェルが発明。勝手にベートーベンの曲を使ってケンカをしたが、メトロノームの発明で仲直り。
楽譜の「M.M.」は、「メルツェルのメトロノーム」のこと。弟は補聴器を作って、ベートーベンを喜ばせた。

パンハルモニコン=メルツェルが1804年に見世物用につくった自動オーケストラ。管楽器と打楽器のを自動機械オルケストリオンを拡大し、弦楽器の音もでるようにした。ベートーベンの「ウエリントンの勝利」の一部はこの自動楽器のために作曲された。

ロマン・ロラン=『ベートーベンの生涯』を書いた。トルストイからの手紙で「芸術家に必要なのは、人を愛する気持ちだ」と励まされる。

ベートーベンハウス=デスマスクが展示されている。
ベートーベン音楽祭=ボンで8月末~10月はじめに開かれる。
ベルリン大聖堂=パイプオルガンの演奏や合唱コンサートが聴ける。
レーゲンスブルク=ドームシュパッツェン(少年合唱団)の歌声が無料で聴ける。

CDの録音時間が74分になったのは、「クラシックの95%が1枚におさまる」とソニーが提案し、カラヤンも賛同したから。

宮沢賢治は「フィデリオ」「エグモント」「交響曲第4番」が大好きで、当時珍しかったレコードを買い占めていた。「運命」に感化され、『春と修羅』を書いた。


<ベートーベンを愛した作曲家>
シューベルト、リスト、メンデルスゾーン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ワーグナー

<その他関連>
『ルードウィヒ・B』手塚治虫(未完)
『もし大作曲家と友だちになれたら…』スティーブン・イッサーリス著
『絵本で読む音楽の歴史Vol.4ベートーベン』ヤマハミュージックメディア
『マンガ音楽家ストーリー3ベートーベン』ドレミ楽譜出版社
『おもしろくてやくにたつ子どもの伝記5ベートーベン』ポプラ社
映画「不滅のベートーベン」は観た気がするな。忘れちゃったけど

「のだめカンタービレ」のオープニングが交響曲第7番。
フジ子・ヘミング=16歳で聴力を失い、17歳でデビューした「魂のピアニスト」。
「岩城宏之ベートーヴェンの1番から9番までを一晩で振るマラソン」9時間にわたるコンサート。


『小学館版 学習まんが人物館 ゴッホ』

2011-06-27 17:05:33 | マンガ&アニメ
『小学館版 学習まんが人物館 ゴッホ』
こないだ『アートコミック まんが西洋美術史3』で大まかな伝記を読んだけど、
もうちょっと突っ込んだ人物伝があったから、こっちも借りてみた。
気の短い(気性の激しい)、怖いイメージがあったけど、信仰心の篤い人でもあったんだな。

27~37歳の間に描いた絵は2000点以上。(あれ?上記には6000点て書いてあったけど
子どもの頃から短気だったが、弟のテオとは仲良し→セント叔父の仕事をして、画商として有能だった。
→ロンドンの下宿家の娘ウージェニーに失恋→牧師の勉強でラテン語、ギリシア語でつまづき断念
→ベルギーの炭鉱町で伝道師の助手をするが、貧しい人に衣服など与えたため、「身なりがふさわしくない」と言われ断念
→いとこのケニーに告白して断られる→タンギー(印象派画家を支えた画材商)から浮世絵を買う
→弟の結婚を機にアルルへ→ゴーギャンと共同生活し、ケンカして耳を切り落とす
→サン・レミの病院に自ら入院→テオに息子が生まれ、兄と同名をつける
→弟が生活費に困っている原因が自分だと責め、銃で胸を撃つ→数日後死去→テオも半年後に亡くなる
→テオの妻ヨハンナは、ベルナールの協力を得てゴッホの展覧会を何度も開き、評価が高まる

シニャック=19世紀~20世紀のフランスの新印象派の代表的画家。穏やかな性格からゴッホとも親交があった。
タンギー=ゴッホを高く評価し、のちに高値で売れるようになっても、ほとんど手離さなかった。
フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ=テオの息子。のちにアムステルダムにゴッホ美術館を作った。

生涯に650通もの手紙を書いた。手紙を書くことで心の平静を保っていたと思われる。
1996年度のギネスブックに、世界で一番高値がついた絵として、ゴッホの「医師ガシェの肖像」が記録された。

ひまわり=花がつねに太陽を向いて咲く。人もまた神、愛する人に自然と顔が向くことから、信仰心・愛を象徴。
ピエタ=聖母子像のうち、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリア(聖母マリア)の彫刻や絵。


「一枚の絵の中で、ぼくは音楽のように、心をなぐさめるものを語りたい。
そのためにぼくは、いつも色彩のかがやき、色彩のふるえを探し求めているのだ」
(フィンセント・ファン・ゴッホ)


『ダーリンは外国人2』小栗左多里/著

2011-06-27 17:01:45 | マンガ&アニメ
『ダーリンは外国人2』小栗左多里/著(メディアファクトリー)

イタリアとハンガリーのハーフで、 アメリカで育ったトニーと漫画家の共同生活をつづったエッセイ漫画。
話題になってたことは知ってたけど、読むのは初めて。
図書館でなにげなく借りてみたら面白かった。
映画化もされたのね/驚

夫が外国人だと戸籍上に反映されにくかったり、周りの人に好奇の目で見られたり、
「日本人は主張がない」「日本人女性は外国人が好き」「マンガは子どもが読むものだ」なんて
外国人側からのいろんな偏見に出会うたびに、論破しなきゃならなかったり、いろいろ苦労も多いのね

トニーのこだわりのなさ、ポジティブシンキングは同居人としては有難いかも。
著者が言うように、「外国人だから」ってゆうより、「ちょっと変わった人」と暮らしてるってゆう視点で書かれてる。

巻末に「ダーリンが外国人な人に聞きました!」ってゆう投稿文コーナーがあって、
言動で驚いたこと、お気に入りの日本語、ケンカの理由など、
相手の出身地によってもバラつきがあるみたい。

小栗左多里ウェブ